第18話 私とパン
しかしパンはいつもより静かに呟いた。
「離すにゃ。アサヒ、吾輩の役目は終わったのにゃ」
「馬鹿猫め、離すものか。私はまだまだ駄目人間だ。好き嫌いの多い嫌な人間だし、猫だって嫌いだし、お前がいると目が痒くなるし」
私は両目の痒みを耐えるようにきつく瞼を閉じてまた開いた。
「お前の事を最初はどこか行ってくれと思っていた。邪魔者扱いをした。だが今は、何だかお前がいると……上手く言えないが、生きていられるんだ。それも大嫌いな私ではなく、少しだけ好きな私として。それもこれも全部お前のお陰だよ。お前がいなかったら、私はまた……独りになる」
情けない事に、涙が溢れ出していた。パンの前で泣いたのは二度目だ。こいつに出会ってからというもの、止まった時計が動かしたかのように感情が表へ現れるようになった。けれど私は頭の中で、この涙はアレルギーのせいだと言い聞かせた。
「ちゃんと聞くにゃ、吾輩の話を」
肉球で私の頬を撫でた。それはとても温かくて柔らかい。
「吾輩は、吾輩の寿命はもうすぐで終わる」
信じられない台詞に、目を大きく見開いて声を上げた。
「どういう事だ」
心臓がばくばくと慌ただしく鳴る。パンの顔を凝視する。べっこう飴の色をした瞳の奥は悲しそうな色をしていた。
「吾輩の寿命は終わる。それが自分で分かるのにゃ」
「どうしてそんな事が分かる」
「アサヒ、猫は自分の寿命が何となく分かるように出来てるのにゃ。自分の寿命が残り僅かだと分かったら、飼い主の不運を持っていってどこかへ消えなくちゃならないという掟があるにゃ」
「私はお前の飼い主ではない。友人だ。それに最期まで看取る飼い主だっているだろう」
「その通り。アサヒは吾輩の飼い主ではない。最期まで看取られる猫は、人間に飼われているうちに自分の使命を忘れてしまったのにゃ。それはそれで猫の幸福な生き方にゃ」
「お前にだって幸せになる権利はある。私がきちんと世話をすれば、寿命も伸びるかもしれない」
「吾輩の幸せは吾輩が決めるにゃ」
いつもの高飛車で高慢ちきな口振りで言うと、私の鼻へ猫の手を置いた。
「吾輩は元の飼い主の元へ戻るにゃ」
「元の飼い主……?」
「吾輩の飼い主は石川陽一。アサヒの父上にゃ」
「私の父親……まさか」
私はその時、月夜さんの祖母の話を思い出した。父は事故で母猫を亡くした、子猫の世話をしていた。その猫の話は、もしかするとパンの話だったのか。
「お前の母親は事故で死んだのか?」
パンは喉からか細く声を出した。
「孤児猫となった吾輩を父上は温かく育ててくれたのにゃ」
パンは父との話をし始めた。その話を物語としてここに認(したた)めておく。
パンが幼かった頃、母猫は車に轢かれて死んだ。まだ子猫のパンは母猫が死んでいる事が分からず、眠っているのかと思い、起きるまで身体に付着した血をぺろぺろと何度も何度も繰り返し舐めた。
その最中に石川陽一、私の父に出会った。パンを拾った父はこう言った。
「よしよし、大丈夫だよ。ほら怖くない。私が今日からお前の母親代わりになってやる」
それから温もりと愛情、美味しいご飯を与えられ、見る見る元気に育っていった。
ある日いつものように縁側に座って猫の頭を撫でていると、父は考えた。
「そういえばお前の名を考えなくてはならんな。はて何がいいか。そうだお前は体が小さいからチミはどうだ?嫌か。それならミケ。これまた駄目か。んんむ」
父は腕を組み、眉間に皺を寄せながら首を傾け、考えるに考え考え抜いた。
「みゃぁ」
「そうだ。よしべいはどうだ。なかなか渋い名前だろう」
「にゃあ」
「何だ気に入らないのか。まあ、名前などすぐに決めなくても良いか。名前よりも重要なのは、生き方なんだ。己の生き方が素晴らしければどんな名前だって素晴らしくなる」
「にゃぁー」
父は傍に置いておいた書物を片手に頁を捲って、その一節を読みあげた。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い」
面白半分であった。父が猫に物語を読み聞かせたのは後々もずっと続いた。パンはそれをしっかりと耳に受け取り聞いていた。
パンは時折外へ出かけると、他の猫達に猫の言葉で物語を聞かせた。しかしパンの話を理解出来る猫はいなかった。世界一賢い猫となったパンは父が寝ている間や留守の間にこっそりと書物を読みあさった。そうしているうちに段々と人間という奥深い生き物を理解するようになっていったのだった。
その日もまた小うるさく鳴く蝉の季節であった。父が私の処女作を破った日の出来事。
縁側に座っていた父の膝の上にパンは座った。父は優しくパンの頭を撫でながら言う。
「私は父親失格だ。また息子の事を傷つけてしまった。こんな時、母親が居てくれれば何か違っていたのかもしれない。なあお前」
「みゃあ」
「はは、そういえばお前にはまだ名前がなかったな」
その時、一筋風が吹いて、破れたページが父の目に留まった。父はそれを手に取ると読み上げた。
「親友のパンはいつでも一緒にいる。だからぼくには何もいらない。何故ならぼくにとって、この世界の何よりも素敵なのはパンだから」
私はすっかり忘れていたが、主人公の親友にパンという名をつけていたのだ。
父は「パンか」と呟いた。
「いい名前だ。お前の名前はパンにしよう。あいつを見守ってやってくれ」
そんな父は六十を少し過ぎた頃に病気を患って殆どを布団の中で過ごした。部屋のどこからかパンがやってくると、骨張って細くなった手を伸ばした。
「パン、もっと……こっちにおいで」
か細く鳴いて、父の手に擦り寄る。
「情けない姿ですまない。どうやら私の命は風前の灯火だ。猫のお前にこんな事を頼むのもおかしな話だが、最期に私の頼みを聞いてくれ」
父は震える唇で最期に呟いた。
「私が死んだ後、どうか息子の、陽二の傍にいてやってくれ。私はあいつに何もしてやれなかった。あいつには私と同じように孤独になって欲しくない。だからよろしく頼む」
パンがみゃあと答えると、父は安堵をして目を細めた。そしてゆっくりと目蓋を閉じ、それから二度と開く事はなかった。
パンの話が本当か否か、不信に思う事も出来た。だが、私はこの不思議な猫の存在がようやく分かったような気がしていた。パンはそれから続けた。
「吾輩は陽一に頼まれた使命を全うしたかったのにゃ。だけども吾輩の寿命もその頃には枯れかけていたにゃ。吾輩は夜な夜な猫が集う神社に向かったにゃ。そこには猫神様が祀られていて、吾輩はその猫神様にお願いをしたにゃ」
パンは仁王立ちをして、両手をめいいっぱいに伸ばして言った。
「猫神様。どうか吾輩の命をもう少し伸ばして下さいにゃ。吾輩の使命は終わっていないにゃ。どうか吾輩に、石川陽一の息子を護る使命を授け手下さいまし」
そう言って猫神様に頼み込むと、一面が真っ白な光に包まれたという。願いは叶えられ、めでたく寿命は伸び、こうして今私の元に居られるのも猫神様のお陰なのだと、パンは言った。
「という訳にゃ。本来なら吾輩は既に死んだるはずなのにゃ」
パンの声は、命の重大さを感じるにはあっけらかんとしたものだった。猫にとっては、人間の思う命の価値観も違うのかもしれない。
「父が、私を守るように頼んだのか」
にわかに笑わずにはいられない。何もかもが、私の想像から逸脱している出来事だ。
「そうにゃ。これで分かったかにゃ?そういう事で、吾輩はアサヒの傍にはいられにゃい」
「いや、納得がいかないな!」
覆い被せるような声量で言った。実際納得がいかなかったのだ。
「私の不運は私の不運だ。お前が全部持っていくなんて、それが使命なのだとしたらお笑い事だ。寿命が近いというなら死ぬまで一緒に居ればいい。お前が死ぬ時まで、私がきちんと世話をする。それでいいだろう」
その時、喉を震わすような威嚇の鳴き声が聞こえた。と思いきや、鋭い爪が私の顔を引っ掻いた。「いたっ」声を出して瞼をきつく絞る。パンは私の元から離れた所に立った。顔面がひりひりと焼けているように痛み、手のひらで抑えた。
「本当にアサヒは物分かりが悪いにゃあ」
「うるさい!バカ猫!」
つい腹が立って、勢いよく立ち上がりながらそう言った。しかしパンはつんと鼻頭を上げて澄ました態度をしている。
「吾輩は猫である!飼い主の幸せを一番願うのが吾輩の幸せなのにゃ」
「私の幸せの何が分かるんだ!お前といる事が私の幸せなんだぞ」
パンは私の言葉なぞ無視をして、背を向けた。そうして一歩踏み出した。私は慌てて言葉を続ける。
「そうだ、パン。お前に飛びっきり高級な猫の餌を買ってやる。私の焼き魚も全部お前にやる。お前、あれ好きだろう?玩具だって買ってやるし、寝床だってもっと綺麗なのを買ってやろう。だから、なあ。……行くなよ。お前が居なくなったら、私はまた、独りだ」
声はか細く、闇に溶けていき、猫の背中のしなやかな曲線も最早ぼやけて見える。私は自分の、黒黒しい影を眺めた。
「アサヒ。アサヒは独りじゃないにゃ。月夜も、花谷さんも、天国にいるお父さんとお母さんも、皆がアサヒの事を愛しているにゃ。自分が独りだと認識した時、それは真実のように思えるかもしれない、でもそれは違うにゃ。例え会えなくても、目に見えなくても、心に光を差してくれる存在がある。だからアサヒは独りじゃないにゃ」
「だけど、私にとってお前は唯一の存在だった」
パンの言葉が心に染みた。それでも今は思考よりも、目の前の温かな存在が無くなる事の方が重大だった。パンは数歩も先へ行った。もう手を伸ばしても届かない距離だ。そしてパンは振り返って最後に言った。
「アサヒ、今までありがとうにゃ。吾輩も少しの間、アサヒと一緒に居られて幸せだったにゃ」
「--パン」
そう呼んだ声が届かない距離まで駆けていた。やがて姿が見えなくなると、残された私は膝から崩れ落ちた。地面には力尽きて腹を見せている蝉がいた。私はそれをぼんやりと見続けていた。
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