第16話 日向さん
顔を向ける事を惑っていると、もう一度、石川君と名を呼ばれた。
「覚えてるかな、私の事」
ゆっくり彼女の方を振り返るった。そこにはあの時のまま大人になっている日向さんがいた。
長い黒髪は、肩まで短くなっていた。小振りな白い花の耳飾りをつけ、首元にはパールが連なり、白い肌に似合いの嫌味のない上品さがあった。目尻や口元にやさしげな小さな皺を刻みながら私を見ている。髪や手の皺に至るまで彼女だけの積み重ねられた年月を物語っている。私は少しだけ寂しく思えた。
「うん、覚えてるよ」
ぎこちなく返事をした。
「覚えててくれたんだ。嬉しい。石川君、あんまり変わってないね」
「日向さんこそ」
「そうかな。私は変わったよ。ほら、髪も短く切ったし。あ……ここ座らせて貰うね」
私の隣に座ろうとすると、田中は気を遣って少し横にずれた。どうやら熱心に独身の同級生を口説いているようだった。
「響子から聞いた。作家さんなんだって?」
「うん、まあ……」
「尊敬する。私国語は駄目だったから。そうやって表現出来るのって凄い事だと思う」
私は日向さんのその言葉にどこか引っかかった。私の記憶の中で、彼女は確かいつも本を読んでいたからだ。
「表現なら誰でも出来る。媒体を選ばなければ誰にだって表現の自由はある。ただ私みたいに職業にしてしまうと今度はそれに縛られる。何故なら読者や業界の視線が気になり出すからだ。そんなものに耳を傾けず伸び伸びと書ける人間になりたいが、そんな才能は私にはない。いつからか私は、他人の声を聞きたくなくなっていた。太陽までも私を批判してくる。だからあいつの声が聞こえ始めたのかもしれん」
「あいつ?」
と、日向さんが反応した。私は少し酒が体に回り始めていた。
「パンだ」
「パン、それは誰?」
「猫だ」
「猫」
日向さんは途端に、くすりと笑みを溢した。ああきっと、内心馬鹿にされているに違いない。
「石川君は、猫の声が聞こえるの?」
「ああ……だがあいつは何なのか、猫なのかそれとも宇宙人なのか、まだよくはっきり分かっていない」
「ねぇ、石川君」
私の話を遮って、急に耳元へ顔を近づけてきた。柔らかな金木犀の香りがした。そしてそれに負けない柔らかな声色で鼓膜を震わせた。
「二人きりで話さない?」
彼女の冷たい手が私の手の甲を包み込んだ。笑顔は先程と同じなのに彼女の瞳の色は酔いを孕んだようなものに変わっていた。
「抜け出すって事か?」
「このお店、外に庭園があるの。そこで少しだけ話そう」
一時もこの空間に居たくない私にとっては都合のいい申し出だった。その為頷いた。
「本当?ありがとう。じゃあ行こっか、石川君」
少女のように声が弾んで、優しく引き取られた手に誘われて私は立ち上がり二人一緒に、泥色の思い出の間、または、酷暑に鳴く蝉の間から出て行った。
長廊下を渡り、角を曲がった所にガラス張りの大きな扉があって、そこから庭園が見えた。盆栽にライトが照らしてあり、ぼんやりと怪しく日本の情緒を写していた。外には誰もいないようだった。皆、わざわざ湿気の多いじめじめとした夏の暑さを楽しむよりかは建物の中で冷房を浴びている方がよっぽど良いのだろう。しかし私はここの方がひどく安心した。二人で庭園に出た。
赤いベンチが二つ、離れ離れに設置されてあったが私達は座らずに、地面からまっすぐ天に生え聳えている大木の幹の側に立った。私達はしばらくお互い何も喋らず、ぼうっと薄ら白い月を眺めていた。今夜は満月だった。
「月、綺麗だね」
日向さんが呟いた。
「ああ」
「石川君は満月と三日月だったらどっちが好き?」
「どちらとも決め難い。だけど私は三日月がいい」
「どうして?」
「一番太陽の傍にいる時だから」
「石川君は案外寂しがりなのね」
「日向さんは?」
彼女は小さく俯きながら考えて「石川君と同じかな」と言った。
「じゃあ、日向さんも寂しがり屋だ」
「当たり」
悪戯っぽく歯を見せて笑う。それからまた月に視線を戻して。
「石川君は結婚はしてないの?」
「してない。日向さんもしてないんだろう?」
聞いた後で、もしかしたら話題にしたくない事だったかもしれないと思ったが、日向さんは気に留めず言葉を続けた。
「私、前に結婚を前提に付き合ってた人がいたの。だけどどうしても忘れられない人がいて、私がその人の事ばかり話すものだから、呆れて離れて行っちゃって。私って馬鹿だよね。歳だけとって何も成長出来てない」
口元に皺が刻まれた。その表情がどこか切なく見えた。それから彼女はゆっくり私の方へ向いたと思うと、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「ずっと謝りたかったの。あの時のこと、見て見ぬ振りをしてごめんなさい」
彼女は頭を下げ続ける。
「謝る事はないから。顔を上げて、日向さん。誰にだって足が竦む事がある」
日向さんは顔を上げて瞳を覗きこむ。前髪の影から現れた瞳の表面に涙膜が光るのが見えて、狼狽えた。
「怖かった。私より石川君の方が怖かっただろうけど、あの時は何故か勇気が出なかった。空がいつもより遠く思えて、私を突き放していくみたいに思えた」
私はあの時の光景を思い出して苦い表情を浮かべた。
「私だって怖かった。だから日向さんのせいじゃない。それに私はもう大丈夫だ。大丈夫だから今日ここに来れたんだ、多分」
「そう、石川君はやっぱり優しいね」
日向さんは改めて幹を背にして立った。夏の虫達が小気味よく鳴いている。私達を思い出に帰すかのように。その頃、鼻に通る外気の香りが、懐かしく感ぜられた。
「それにあの時と変わらない。いつも不思議だった。どこか浮世離れしていて、達観していて。皆きっと石川君が羨ましかったのよ。あの月みたいに、手が届かない場所に一つだけいるから」
遠くの月を指しながら、それに似ていると例えられても私にはしっくり来なかった。むしろ、それどころかこんな凡人の私に、そんな大それた役目は相応しくなく、彼女がそこまで私を特別視する意味が分からなかった。
「私はそんなに大した人間じゃない。ただ臆病で弱い人間なのさ。私という人間は周りに合わせようったってどうしても浮いてしまうんだ。結局の所、私はここから動けない。退屈な人間なのだよ。窮屈な世界に逃げたって、私は私という人間である限り、私自身を恐れ続ける。固執して執着し、希望を見出そうとして裏切られる。そうしてただ息をして、いや、息をしてるように見せかけて実際には死んでいる。屍と大差ない肉と皮を纏って、最期にはあっけなくそれすらも消え去ってしまって、誰の記憶からも忘れられるんだろう」
私は自分勝手な戯言をぽつりぽつりと、夜の空気に溶けていったが、彼女の顔を見れずに「すまない、退屈な話をしたね」そう言って、また居心地の悪い場所を作ってしまった罪悪感から腕を組んで肩をそわそわと揺らした。もうとっくにその場から逃げたくなっていたのだ。彼女もそうだろうと思っていた。だから次に彼女が私の手指をそっと絡めて握ってきた事には猫の眼をして吃驚した。
彼女はそれすらも分かりきっているように何でもない表情をして、木々が風に吹かれて騒めく頃、私の視界を掠めたと思いきや柔らかな唇で、同じ箇所を塞いだ。一瞬の刻だった。すぐさま離れて微笑みだけがちらつき、私ばかりが動揺して唇をぱくぱくと開閉させていた。
「私ね、ずっと石川君の事が好きだった」
何も言い返せなかった。今や刻々と刻む自分の心音や、血脈が忙しなく巡る気配に気を取られ、上手く言葉を紡げない。
「ねえ、ここを抜け出さない?」
と、彼女は言った。
「二人きりで飲み直しましょう」
どこか別の店へ、と彼女は続けるつもりだったのだろう。しかし私にとっては別の音に聞こえた。どこか別の世界へ。と、彼女の瞳がそう語っているように思えたのだ。それはセーラー服を着ていたあの少女とはまるっきり違う大人びた女性の顔だった。
指先の湿っぽさに気を取られ、足を一歩踏み出した時、私は頭上の視線に気付いて月を仰ぎ見た。
「今夜は月が綺麗だ」
私は無意識に、有名な台詞を呟いた。
彼女は目を月と同じまんまるにして「え?」と言った。
「それは、確か……宮澤賢治だっけ」
私は彼女の言葉を聞いてはっとした。
「ごめん。帰るよ」
と言って、店へ戻ろうとする手を引かれた。
「どうして?何かあったの?」
私は目も合わせず。
「君が見ていた窓辺の少年は、いつも本を読む君を見ていた」
「ごめんなさい。私、貴方に少しでも近づきたくて。それで本を読む振りをしてた。貴方の気を引きたくて。国語は苦手なはずだったのに。でも、これから知り合う事は出来ないのかな」
「君は素敵な女性だけど、もうその二人はここには居ない」
「そう。私も歳をとったから、こんなの慣れてる。石川君にとっての月は誰なのかな。そんな人はいるのかな」
日向さんの声が潤んでいたのが分かった。
「付き合ってくれてありがとう。幸せな時間を過ごせた。ねえ、石川君。その人と幸せになってね。人は一人じゃ生きていけないから、石川君の虚しさを埋めてくれる存在がきっと居るはずだから」
後ろからそっと肩を叩かれた。
「頑張れ石川!」
そう言った後、小さく鼻を啜る音が聞こえた。私は彼女の強がりを守ろうとして、顔を見ずにそのまま店へと、二人して戻った。
広間に近づくにつれ、相変わらずの騒がしさがはっきりと聞こえてくる。こここそ、まるで別世界にでもやって来たような感覚だ。早い所帰ろう。私はそう思いながら襖を開いた。宴の末に酔い潰れて床に寝ている者が数名いた。食事や酒はほとんど空になり、もうお開きといった具合だった。
「よっ、作家様のお帰りだー」
大声を上げたのは、田中だった。安藤の方は携帯を片手にいびきまでかいて眠っている。
「二人で何してたんだよ。イチャイチャでもしてたのか?俺も混ぜろよ。ったく」
田中は酒に呆けて舌ったらずに言った。私は酔っ払い達の間を擦り抜け、ジャケットと鞄を拾いあげ立ち去ろうとした。
「何だよもう帰るのかよ」と、田中が言うと、別の場所から名の知れぬ男が続けた。
「お前ら二人でキスしてただろ。トイレ行く時見えたぞ」
それから田中を含むその他数人が「手が早いな、色男」「日向ちゃんは石川の事が好きなのか」等、耳を傾ける余地もない下らないお調子で茶化しだした。
酔っている事もあって、いよいよ耐えきれずに足元がぐらつく思いをすると、私以外の誰かがジョッキが大きな音を立てて卓上を叩いたので、全員がしんと静まった。犯人は西島だった。西島は苛立ちなのか酒のせいなのか分からぬ赤ら顔でこちらを睨みつけた。それから酒気の孕んだ低い声を発した。
「おい、何でちん毛なんかとキスするんだよ」
西島の瞳はどこを向いているのか分からなかったが、日向さんに向けた言葉だと察した。
「だったら何?貴方に関係のある事なの?それから彼の名前は、石川君だから。下らない。小学生みたいな事で人をいじって傷つけるなんて、馬鹿みたい」
日向さんが弾丸のように言い連ねると、西島は立ち上がって日向さんの方に近づいていった。私は息を吸う度に心臓が速まる気配がし、陸に上げられた魚のようにびくびくと足が震えた。
「小説家なんてまともな職業なのか?変態が多いって聞くぞ。なあ?自殺する奴も多いし。そんな奴と結婚したい奴なんていねえだろ。第一あんなちん毛とセックス出来るのかよ。産まれてきた子だってちん毛になって虐められる運命だぜ」
部屋中に響き渡るような声で言った。
すると「やめなさい!」と叱る声が聞こえて、全員が一斉に顔を向けた先に担任の姿があった。だが、西島はそれでも大声で「うるせえ、黙ってろ。俺に指図するな」と怒鳴ると、教師は子羊のように縮こまってしまった。
酔いの覚めた様子の田中が小声で「お前、もうやめとけって」と忠告するも西島は聞かずに、言い続ける。
「お前らよ、仲良しごっこなんてしたって結局上辺だけなんだよ」
その時、パチンと皮膚を叩く音がして、西島は頬を抑えた。叩いたのは日向さんだった。全身を震わせ涙を流しながら西島を睨みつけていた。
「アンタなんて嫌い」
西島が右腕を上げていくのが、ゆっくりと見えた。私は咄嗟に机の上のコップを手にして駆け寄ると、西島の頭へ思い切り水をぶっかけた。
獲物を狙う獣の瞳の標的は私へと向けられ、あっという間に胸倉を掴まれてしまうと、そのままその場へ組み敷かれた。後方へたたらを踏んで机へと勢いよく雪崩れ込んだ時に腰を打った痛みに、顔がくしゃりと歪んだ。
「てめえ、何しやがんだ」
酒臭い息で怒号を振るうと、間髪入れずに私の頬を拳で一発殴った。恐らく唇が切れたであろう。血の味がして、情けなく涙も溢れた。
部屋中がざわめき、女性の悲鳴、それから日向さんの「やめてよ!やめてよ!」という声がぐるぐると駆け巡る。目の前の男は人には見えず最早獣のようだ。鼻息を荒くして、もう一度右手が上げられると、私は本能的に目を瞑り顔を両腕で庇った。だが、待てど痛みはやってこなかった。目を開けてみると私の体を守るように日向さんが抱きしめていた。
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