第13話 猫まみれの地獄

全くもって笑い事ではない。しかし店員は愛想で刻まれた表情筋を器用に吊り上げ「良かったら撫でてみて下さい」などと呑気に言い腐った。

「いえ、私は……」

と言い淀んでいると月夜さんが隣から追い打ちをかける。

「先生、撫でてみたらどうですか?」

彼女は時折発揮する鈍感、良く言えば純な瞳を私に向けて言ったので、とうとう逆らう事も叶わず俊敏に私の膝上に乗ってきた猫へと指先を恐る恐る伸ばした。五本の指の腹で耳の合間に触れると、パンの毛よりも硬い毛だった。私はそれが済むとすぐに手を引っ込めた。

「はは、可愛いもんだ」

恐らく店員よりも使われていない面の筋肉を無理に引き伸ばした。だが猫は、何とも傲慢に私の体へと擦り寄ってきて撫でろ撫でろと猫撫で声を出すのである。全身に鳥肌が立ち、私は一瞬身を引いた。

「本当に懐いていますね。先生に」

「顎の下を撫でると喜ぶんですよ。この子。どうぞ撫でて下さい」

こっちの気も知らずに女共はまるで、幸福な光景でも見ているかのように、瞼を弛めている。溜息を押し殺して、頭を再度撫でてやる。猫は心底心地よさそうな表情を浮かべていた。と、そうこうしているうちにいよいよ鼻の奥のむず痒さに我慢の限界を訴えた私は勢い良く立ち上がった。幸福感溢れる空間から一転、二人は緊迫した面持ちで私を見た。

「あー、済まない。厠はどこかな?」

「か……わや?あ、トイレならそこをまっすぐ言って左にございます」

私は店員に教えられると直ぐにその場から離れて厠へと小走りで逃げていった。そうして男子の方の入口へ入り、個室へ滑り込むと扉を閉め、便座に腰を据え頭を抱えた。

「ここは、地獄か」

大きな溜息を腹の底から一つ。私は暫くの間便座から腰を上げるのが億劫だった。その為銅像のように数分間はそうして動かなかった。どこへ視線を投げても猫、猫、猫なのだ。既に喉と鼻と目の奥が痒くなって辛抱堪らない。その上、こんな時に限ってパンの奴は無口だ。だがしかし、あまり長居をしていても怪しまれる。意を決して立ち上がり、厠から地獄へと舞い戻った。


例の店員はもうそこには居なかった。月夜さんの手には新しい本が握られている。私に視線を浮かばせると、微笑みながら「お帰りなさい」と声をかけた。私はほんの僅かに頷き、掠れた声で「ただいま」と返した。それから呑気に目を閉じているパンの横に座る。

「何故喋らないのか」

私はいつの間にか口に出してしまっていた。アレルギーの病状によって鈍った脳みそは、現実をぼやけたものにさせていた。

「お前、いつもあんなに喋っていただろう」

と、はっきりとした口調で、パンに向かって愚痴を言う。月夜さんがきょとんとした顔で私を見つめているのに気がついて、しまったと言わんばかりに私は慌てて弁解をした。

「ああ、いや。これは違うんだ。その」

「先生って変わってますね」

月夜さんは相変わらず、どこか呆気にとられたように私を見ていた。これは不味いぞ。私はその視線がいたたまれずに、元々の猫背を更に丸くして俯いた。

「変わってるか……」

「あ、変な意味じゃないんですよ。すみません。ほら、いつもパンちゃんに話しかけてるから」

「知っていたのか。気分を害しただろう」

「いえ、とんでもない!むしろその逆です。私、アサヒ先生のそういう少し変わった所が好きなんです」

この時、鏡を見たとしたら私は大分間抜けな顔をして月夜さんの方を向いていたに違いない。他愛もなく言ったであろう月夜さんの言葉が、私にとっては革新的な台詞だったからだ。

「そんな風に言われたのは生まれて初めてだ」

そう言うと、今度は月夜さんの方が少しばかり背を曲げて神妙な面持ちで俯いた。私は彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。丁度、静かに風とたゆたう波に映る夜の月のように、仄かに情緒だけを残していた。

「私も、変わっているから」

穏やかなような、諦めの滲んでいるような声色だった。小さく吐いた息を吸って言った。

「私、色盲症なんです」

彼女の瞳は相変わらず、テーブルの先のどこかを向いていた。艶の失われつつある下唇を一瞬だけ結んだ。その途端に紐が解けたように私は理解をした。月夜さんの顔が、夜の名残を残したまま晴れて、私を見た。

「あ、気を遣ったりしないで下さいね。子供の頃からの付き合いだから、もうこれが私の普通なんです。こう思う事にしてるんですよ?私は、私だけが見える世界が好き。他の人に見えないこの世界が本物の色かもしれない。それに何も塗られていない塗り絵のように、私はこの世界を好きな色で想像することができる。でもね、アサヒ先生と出会ってから少しだけ、私の世界に信じられない奇跡が起きたんです」

「奇跡?」

月夜さんは意志の強い瞳で頷いた。

「アサヒ先生の本を読んで、私の世界に少し色が加わったんです。赤や、黄色や、青……知らなくても頭の中で想像が出来る。これって、アサヒ先生のお陰です。ありがとうございます」

彼女の瞳からは、一つの色だけが見て取れた。謙遜も、礼も、小奇麗に整えた返答も、その瞳の色に比べたら全て安っぽく思えて、私は何も喋れなかった。そこで、空気も読めずに体の生理現象が現れた。くしゃみを一つ、してしまったのだ。何事もなかったように取り繕うとしたが遅かった。途端に月夜さんの瞳は濁って、心配そうに私の顔を覗き込む。

「大丈夫ですか?」

大丈夫と言おうとしたが堪らなかった。一度出したくしゃみがもう一度、更にまた一度と無許可で喉を通過する。

「済まない」

「いいんです。そろそろこの店も出ましょうか。ね?」


店を出てからも私は背をひしゃげさせて黙り込んでいた。太陽はすっかり雲に隠れ、涼しい空気が肌を滑る。生憎夏特有の匂いは分からなかったが、失われた彩色が、原宿という街を侘びしく見せていた。彼女の目にはいつもこんな風に映っているのだろうか。そう言えば隣にいる彼女はいつもと雰囲気が違って見えた。今日最初に会った頃からそれに気づいていた。いつもちぐはぐな色の服を着ていたのに、今日は白のワンピースで統一している。もしかして私とのデートの事を考えて、誰かに服装の事を相談したのかもしれない。けれども私は、彼女のいつもの格好も気に入っていた。まるで朝日と月が一緒に空に浮かんでいるような、そんな可笑しく狂った愛しさを感じていたからだ。

「これからどうしましょうか」

駅の方面へと肩を並べて歩きながら、月夜さんが聞いてきた。こんな時、私は何を話したらいいかさえ分からずに、退屈な相槌を漏らす事しか出来なかった。沈黙のまま、通りを引き返していくと、目線の先にはいつの間にか駅が佇んでいた。私達は横断歩道の前で立ち止まって顔を見合わせた。すると、月夜さんは突然私に頭を下げてきたのだ。

「ごめんなさい!」

「えっ?何のことですか?」

私は瞬きを不自然に繰り返して、彼女の行動に目を見張った。

「先生が猫アレルギーだってことを知らなくて、ああいう場所に連れて行ってしまって。あの、本当にごめんなさい」

彼女は何も悪くないのに精一杯な声で謝罪した。驚くべき事に、彼女は歩いている最中、ずっとその事で頭がいっぱいだったのだ。月夜さんは申し訳なさそうな表情で、私の顔を見上げた。私は、先に彼女に謝らせてしまった自分が恥ずかしかった。

「月夜さんが悪いんじゃありません。あれは、私が何も言わなかったのが悪かったんですから。どうか頭を上げて下さい」

月夜さんは頭を上げて、未だに下がったままの眉で地面を見つめていた。

「パンちゃんと一緒にいる時はいつも平気そうだったから、まさか猫アレルギーだなんて思わなくて」

「いやあ。こいつは猫じゃないみたいなものだから」

と、私は彼女の気を解す為に幾分か声を弾ませて言ってみた。月夜さんはようやく笑って、パンと私を交互に見た。

「ふふ、先生ってやっぱり面白い。……まだ早いですけど、帰りましょうか。先生、疲れたでしょう」

彼女はそう言って駅に向かって一歩足を踏み出した。数歩離れた背中を見て、私は思わず彼女の手を取っていた。振り返った彼女は驚きに目を丸くしていた。

「もう少し、一緒に居てもいいかな」

「え?」視線を揺らしてもう一度私の顔を見る。

「もう少し。月夜さんと居たい」

彼女の口元が若干引き締まった。それから唇を舌で湿らせて、「私の家に来ませんか?」と言った。

「え……?」

いつもなら無駄に回る思考が一時停止した。

「外にいるよりもパンちゃんが疲れずに済むし。どうですか?嫌なら、いいんですけど」

「つまり、それは、その。あの」

大人としては、みっともなく言葉がつっかえた。彼女はそんな私をくすりと笑った。

「私の家、お婆ちゃんがいるし少し散らかっていて寛げないかもしれない。それでも良ければ」

「あ、そう……」

‘’男の理想‘’という大きなビルはものの数分も立たず崩れ落ちた。それでも月夜さんの誘いは私にとっては初めての経験で、気恥ずかしさもあったが、嬉しかった。第一私などを招いて、何が楽しいのだろう。彼女にとっては退屈そのものでしかないだろうに。

濁世を匂わす、トラックが一台、煌びやかな偽装を纏いながら、騒音で人々の欲望を煽って走っていく。私が彼女に対して抱く感情もそれと似ているのだろう。誰しもが、欲望に純粋というラベルを貼って生きている。浮気、不倫、セックス……、純愛などとラベルを貼り替えてしまえば、一人一人の人生は美しく映える。だけど私はそんな欲望こそが人の可愛い所だと思う。私は彼女を目の前にして、欲を持った自分に恥じて、そんなラベルを貼りたくなった。

「私なんかが言って邪魔じゃなければ、是非」

「邪魔だなんてとんでもない!片付けてないですけど、ある程度の空間は提供できますから」


私達は、月夜さんの住む家へ向かった。彼女といつも別れる場所は二人が出会った公園だったが、二人が出会った公園だったが、彼女の家はそのすぐ目の前の古びた白いマンションだった。その5階に上がって扉の前で立ち止まる。月夜さんが鍵を取り出している間、私の視線は白く細いうなじへと向かったが直ぐに逸した。扉の向こうには彼女の祖母がいる事を想像した為だった。

「お婆ちゃん、ただいまー」

部屋に入るなり月夜さんは元気よく挨拶をして中へ入った。私は後ろから静かについて、緊張を孕ませながら「お邪魔します」と口にして部屋を上がる。

女性の部屋へ上がる事自体初めてだった。しかし、実際に訪れてみると、そこは女性の部屋というよりも生活感や人生が先走りする空間で、玄関の棚の上には埃被ったタヌキの置物や土産などが所狭しと積み重なっている。廊下もなく入るとすぐに台所で、その先に仕切りがあり、入る前からお婆ちゃん独特の匂いがした。恐らく匂いの正体は線香だろう。それから煎餅と温かいお茶。


間仕切りを開き、月夜さんに導かれるまま私は新たな部屋へ足を踏み入れる。そこには布団の中に潜り込んでいるお婆ちゃんの姿があった。

「お婆ちゃん、お客さんが来たの。こちらアサヒ先生。作家さんなんだって」

お婆ちゃんは、まるでそこだけ時間が違うかのようにゆったりとした動作で頭を上げて私の方を見た。私は慌ててお辞儀をした。

「初めました。……私は旭田と申します」

少しばかり噛んでしまった事を誤魔化すように、語尾は流暢に自己紹介をした。

皺だらけの優しげな顔が、瞼を中心に緩んでいった。

「そう、こんな格好でごめんなさいね。月夜がいつもお世話になっております。何もないですけどゆっくりして行って下さいねえ」

「はい、ありがとうございます」

「あ、お婆ちゃん。それからね、この子は先生が飼っている猫ちゃん」

月夜さんが「おいで」と言ってケージを開くと、パンはするりと身を流して部屋へ降り立った。それから私とは違って前足を気儘に踏み出して、お婆ちゃんの布団の上へと遠慮なしに乗った。

「こら!」

私は声を上げたが、お婆ちゃんは笑いながらパンの頭を撫でた。

「いいのよ、私は猫が大好きだから」

「すみません」

「可愛い猫ちゃんだ事ね。撫でても嫌がらないだなんて人懐っこい子」

パンはお婆ちゃんの手に沿って心地よさそうに頭を伸ばしている。

「先生、狭いけど適当に座ってね。私飲み物持ってきます。麦茶で大丈夫ですか?」

「大丈夫。ありがとう」

私は必然的にお婆ちゃんの布団の近くで膝を折り曲げた。丸めた新聞のような皺の手が目の前で一定の速度で揺れているのを眺めているだけで、落ち着かなかった。すると、お婆ちゃんが手を止めて不思議そうな顔をして言った。

「あら?この子何だか……」

「ど、どうしましたか?」

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