第14話 猫神様

「可愛い猫ちゃんだ事」

お婆ちゃんの呑気な声に拍子抜けをし、私は頭を垂れた。

「そう。パンちゃんって言うの」

私は目を丸くして、「え?」と唇を開いてもう一度顔を上げた。

台所からお盆の上に載せた麦茶を持ってきて月夜さんは私の隣へ腰掛けた。

「ごめんなさい。パンちゃんの事いつも喋ってるの」

「なるほど、そうだったのか」

「月夜ったら、いつも帰ってきたら、アサヒ先生アサヒ先生って話してくるのよ」

「お婆ちゃん!もう、それは言わないでって言ったのに」

私は月夜さんの顔を見た。真っ赤な表情を月夜さんが自分の掌で覆ってしまい、一瞬にして遮られた。

月夜さんは場所を移動してお婆ちゃんの枕元へと座ると、白髪混じりの頭を支えて麦茶をゆっくり飲ませた。もう一度ゆっくり頭を枕に寝かせた時、お婆ちゃんは言った。

「だけど、この猫ちゃんも貴方といると楽しいみたいね」

「楽しい……。しかしいつも私の魚を盗むのでこっちは参っているんですよ」

「パンちゃんは焼き魚が好きなんでしょう?」と、月夜さんは言う。

「何故か私の焼き魚だけを狙うから怪しいもんだ。もしかしたら嫌がらせかもしれん」

「それでもこの子は、貴方の事が大好きと言ってるわ」

お婆ちゃんはパンを優しく見つめている。

「どうしてそんな事が分かるんです。まるで猫と会話をしているかのように」

私が尋ねると、お婆ちゃんは妙に真に迫った視線を合わせながら言った。

「私には、猫の声が聞こえるの」

どきりと心臓が跳ねた。

「それは本当ですか?」

「私だけじゃない。猫はね、本当は皆に話しかけているのよ。だけどね、皆周りの声に耳を囚われ過ぎていて、猫の声を聞いてあげられてないの」

パンはにゃぁと一声高く鳴く。

「よおく、耳を澄ましてご覧なさい。心から猫の声を聞こうとすれば、あなたにだって聞こえるはずよ」

私がパンへ目をやると、丁度その丸い目と合った。


その時、お婆ちゃんが未だに私の顔をじっと見つめている事に気づいた。

「あなた、どこかで見た事があるわねえ」

「本当ですか?」

「お婆ちゃん、また近所の誰かと間違えたりしてない?」

月夜さんは困ったような調子で口を挟んだ。しかしお婆ちゃんはその後、信じられない言葉を口にした。

「石川陽一さんにそっくりね、あなた」

「石川陽一……何故その名前を?」

それは私の父の名前だった。

「アサヒ先生、お知り合いなんですか?」

「ええ。知り合いというより、それは父の名前で」

「やっぱりねぇ」唇に皺が浮かんで、こくこくと小さく顎が揺れる。

「え?待って、じゃあお婆ちゃんは先生のお父さんと知り合いだったって事?」

「随分昔の事だけれど」

「あの。父とどういう間柄だったのか聞いても?」

「それ程特別な関係ではないわ。けど、あの方は私の初恋の人だったの」

父を語るその瞳は先程よりも湿りを帯びているかのように感じた。恋い焦がれるように宙を見つめたまま続けた。

「あの方は、とても優しい方だった」

父が優しい人という印象は私には無かった。その為、まるで父の輪郭は浮かび上がらなかった。私の知らない、石川陽一という人間像が頭に浮かんだ。舞台は長閑な昭和の住宅地。

「まだ十四の頃、私はよく、近隣の家に住む陽一さんに会いに行ったわ。学校帰りに縁側に二人して座って、夕暮れを見て、そしてほんのちょっとしたお喋りをするの。それがとても幸せな時間だった」

彼女の瞳には、学生帽を被った父の姿が見えた。私が知っているよりかは華奢で、いくらかは柔らかな顔をしている父の姿が。


「ある日二人でいつものようにお喋りをしていると、庭の向こうから小さな獣の声が聞こえた。私と陽一さんは急いでその声を探しに行った。すると近くのゴミ捨て場に二匹の猫がいたの。一匹は母親で、もう一匹はその子供だった。だけれど母親の方は血だらけで、ぐったりともう動かなくなって死んでいた。きっと事故にあったのね。それはもうひどいケガだったわ。子猫は心配そうに母親の傷を舐めていた。かわいそうに。そうすれば起きると思っていたのよね。けれど残念なことに、母親は二度と起きる事はなかった」

「それから、どうしたんですか?」

「それから、陽一さんは二匹の猫を拾い、母親にはお墓を作ってあげて、子猫の方はお世話をする事にしたの。陽一さんは猫が大好きでね。猫を撫でた時のあの人の笑顔ったら、かわいいものだったわ」

子猫を膝に抱えて、微笑みを浮かべながら頭を撫でる父の姿を想像する。自分の前では精悍な型を崩さなかった父。そんな父が石川陽一という一人の人間に変わっていく。猫が大好きだという事も初めて聞いた。勝手に、生き物は全て嫌いなのだと思っていた。いや、父は世の中のもの全てが嫌いなものだとばかり思っていた。


「子猫の方も陽一さんによく懐いていてね、たまに庭から姿を消してはひょっこりとまた姿を現して、どこかから盗んだ魚を加えていたりして」

お婆ちゃんは跳ねるようにくすりと笑った。

「知らなかった。父がそんな人だったとは」

「素敵な方だったんですね。アサヒ先生のお父様」

「そうそう。陽一さんはおかしな事をたまに言って笑わせてくれたりもしたわ。だっていきなり、猫が喋った!って大慌てするものだから。何よからかってって最初は思ったけれど、あの人は本当に聞こえていたのね。猫の声が」

「猫が、喋った……?」

お婆ちゃんの話に私は唇を開いたまま閉ざすことが出来なかった。猫が喋る。私がパンと話すように父も猫と話していたのだろうか。

「もしかしたら猫神様の声かもしれない」

「猫神様?」私は気になって唱えた。

「猫は神様の使いだとあの人はよく言っていた。だから人間は猫の事を神様のように大事に扱わなくちゃならないって」

「猫神様……」

考えても難しくなるばかりだ。私は俯きながら眉を寄せてしまっていた。そんな私の肩を叩いて月夜さんは言った。

「猫ってね、死期が近づくとふらっとどこかに行くでしょ。それは私達人間の事を思い遣ってって事とか、死に場所を探しに行くって事も考えられるけど、神様の元へ帰るんじゃないかっていう話もあるの」

まるでお伽噺のようじゃないかと、内心はほくそ笑んだが、事実説明のつかない事が目の前に起きている。私は無理くりにでもその説を信じたい気持ちであった。

「もしかしてパンちゃんは、先生を幸せにしにきた神様の遣いだったりして。なんてね」

月夜さんは茶目っ気たっぷりに言葉を弾いた。


外へ出るともうすっかり日が落ちていた。辺りは薄暗く涼し気な空気が心地良かった。月夜さんは公園の前まで私達を見送りにきてくれた。

「今日はありがとうございました。アサヒ先生。とても楽しかったです」

彼女につられて私も頭を下げる。

「ああいや、こちらこそ」

「アサヒ先生、本名は石川さんだったんですね」

「石川だと普通だと思ってな。旭田という名前もそれ程好きではなかったが、今は少しばかり気に入っている」

「嫌いな名前をつけるなんて先生らしい」

月夜さんは口元に片手を添えてころころと笑った。その後、何か言いたげな顔を浮かべて私を見つめた。

「あの。今度から石川さん……って呼んでもいいですか?」

「ああ勿論。名前なんて後からついてくるものだ。何と呼ぼうが構わない」

「ふふ。石川さん。今からはそう呼びますね。あーあ、今日はもう終わりなんですね。また遊んで下さい」

本名を呼ばれた為なのか、彼女との間にあった垣根が取り除かれていく錯覚を覚えた。私は鼓動を誤魔化す為に月を見上げた。それで分かった。夏目漱石が、月が綺麗ですねと訳した意味が。

この世は何て尊いのだろう!彼女がそこに見える。彼女がいるからこそ、私は世界に色が見えるようになった。だけれどこの感情にラベルを貼る事は不粋なのだ。


私が月を熱心に見つめていると、彼女の顔が目の前にあった。私はそのか弱い顎先を掬って唇を重ねた。その一瞬は柔らかく熱く甘かった。月夜さんは瞳を伏せた後、月に照らされた顔が仄かに赤らんで唇を結んでいた。

「今夜は月が綺麗ですね」

彼女はそう言って月に視線を反らした。私は静かにその指先を握り、二人一緒に月を眺めた。


*

ここ数日間、私の体調や周りの環境は変わりつつある。私の前の生活が基準ならば、この事態は不調とも言える。私の思考癖が鈍った代わりに、今までの分を取り返すかのように心臓が働き出した。これは今までにない感覚だ。無意識にため息が零れ落ち、一人で浮ついた笑みを漏らす事もある。私は一日中、月夜さんの事ばかりを考えていた。彼女の笑顔を思い出すと不思議と筆も捗るのだ。

だが、一つ気がかりな事がある。あのデートの日からパンは一言も人間の言葉を発しない。

いつものように私の仕事部屋の縁側で、陽を浴びながら微睡んでいるパンの背中を見て私は思いついたように近寄った。月夜さんの祖母の言葉だ。

「他に囚われず、猫の言葉に耳を澄ませる……」

生暖かい呼吸を繰り返す口元に私は耳を寄せた。だが一分も経たぬうちに、やりながら段々と莫迦らしくなって私は諦めてそこに胡座をかいた。

「大体猫が喋る方がおかしな話じゃないか」

私は自分にそう言い聞かせて薄く笑った。


その時襖の向こうから花谷さんの声がして、開いた隙間からひょっこり顔を覗かせて言った。

「先生、郵便が届いていましたよ」

「ありがとう。そこに置いておいてくれ」

私は暫くパンの事を観察していたかった。襖が閉じ、花谷さんの気配が無くなると机の上に一枚の葉書が置いてあるのに気づいた。石川陽二様。宛名にはそう書かれている。私は葉書を手に取って内容に目を通した。その葉書は同窓会の出席確認であった。

一瞬にして昔の嫌な体験が蘇る。ぐるぐると目が廻る笑い顔や声。水の冷たさと心臓の痛み。

「なあ、パン」

と、言いかけて口を閉じた。そうだ。パンは今は話さないのだ。私は胡座をかいて紙面の「出席する 出席しない」と、じっとにらめっこをした。それから葉書を持って徐に立ち上がるとパンの隣に立って刺すような太陽を、瞼を細めながら見上げた。

(なあお前、お前ならどうする?わざわざあんな嫌な連中に会わなくたっていいだろう)

太陽は答えてくれなかった。反して、蝉の連なる声達は相変わらず無神経に騒ぎ立てる。

私は彼等の顔をもう一度頭の中で思い浮かべてみた。しかし二度目に思い出した時は不思議と穏やかな心持ちだった。私は再びゆっくりと机の前に腰を据えて葉書と向き合った。そこで深呼吸を一つ吸ってから万年筆で、出席するに丸をつけた。


当然ながら、当日パンを連れていくのは不可能だろう。一人で本当に大丈夫なのだろうか。不格好な丸を見てすぐさま不安が胸中から沸き起こったが、打ち消すように何度も呼吸を意識した。

私は少しだが変わった。微かな自信と、過去を覆したい気持ち、複雑な想いで当日までの間は同窓会の事ばかりで頭がいっぱいだった。パンにアドバイスを貰えない為、月夜さんにアドバイスを貰おうとも考えたが、そんな事を頼める仲なのだろうかと不安になり、結局当日の服装から様々な相談事は花谷さんに頼んだ。


催しは八月半ばに開かれた。花谷さんが選んでくれたカジュアルな白のシャツに、茶系のカーディガンを羽織った。この年齢なら落ち着いて見える服装だった。髪や顔も身支度を整え、緊張感を解す為に鏡の前の自分に言い聞かせた。パンがいなくても大丈夫だ。自分はやれば出来る男なのだ。と。

廊下を歩いていた花谷さんがこちらを見て明るい声を上げた。

「あら!いい男ねえ」

「いや……あまり着慣れないものだから」

私が不安気な笑みを落とすと、花谷さんは近寄って、私の襟を両指で摘むなり一番上のボタンを一つ外して整えた。

「こうした方がもっと男前よ」

何故だか花谷さんは自信たっぷりな笑顔を浮かべていた。私もそれにつられて少しばかり余裕が生まれ、鏡の前の自分に満更でもない笑みを浮かべてみせた。

「パンちゃんは私が見ておきますから。今日は安心してお出かけ下さい」

「ああ、頼みます。台所にパンの好きな鰹のおやつが置いてある。それを食べさせてやってくれ」

「ええ、分かりました」

「それじゃあ行ってくる」

私が玄関へ向かうと、後ろからにゃあとか細い声声がして思わず振り返った。

「あらあら。パンちゃんも先生をお見送りしたいみたいね」

そう言って花谷さんはパンを軽く持ち上げて、猫の手を緩く握り手を振る真似事をした。

「行ってらっしゃい、旭田先生」

「……行ってくる」

パンがもう一度鳴いた。私はそのか細い鳴き声を耳にした後、振り向かないように直ぐ様靴を履いて勢い良く扉を開けた。

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