第12話 初舞台

 数日が過ぎるのはあっという間で、月夜さんとのデートの日は思ったよりも早く訪れた。初夏を超えたといえど、日曜の午後に顔を覗かせた太陽はまだ、そこまでの本気を見せていなかった。今年の夏はどうやら焦らすのがお好きらしい。ゲージにパンを入れて、家を出た。私は太陽に向かって、心の中で声をかけた。

(おいお前、今日はよく晴れてくれたな。よくやった)

 以前、月夜さんに買って貰った洋服で外を歩いた。彼女に選んで貰ったものを身につけていると、私は木々の音や、人の話す声も、吹いてくる生暖かい風も、何者も怖い気がしなかった。


原宿の表参道口には多分、人生で初めて降りる。坂を下った駅舎の隅で突っ立って、彼女が来るのをじっと待っていた。待ち合わせ時刻は午後十三時だったが、私は念の為に三十分も早く家を出たから当然の如く彼女の姿は見つからなかった。

デートという語感は、猫じゃらしで喉元を擽られているような感じがする。こういった男女交際は本当に久方振りなのだ。私は、この前月夜さんにイオンモールで選んで貰った、とーたるこーでぃねーとに身を包んでいた。出かける前にもした事だが、もう一度私は自分の胸元から、革靴の爪先に出来た丸い艶に至るまで見下ろして、ゲージを持ち上げるなり密かにパンに尋ねた。

「この服、似合っているか?月夜さんに褒めて貰えるかな」

パンは一言も喋らなかった。人の気も知らず呑気に欠伸などをしている。

月夜さんが来るまでの間、私は人間観察をする事にした。インプットが大事だのなんだのとまた猫にお説教をくらって溜まるものか。

駅から外へと抜けていく人々を目で追っていく。西洋のドレスを身に纏った若い女性の二人組が目の前を通り過ぎる。その後も、緑色に髪を染めた外国人などが前を通り、かといえば生真面目そうなスーツ姿の男が歩き、じゃらじゃらとした金属類をぶら下げる大きめのサイズの服を身に纏った男もいた。原宿という街は、私の住んでいる街よりかはどうやら多種多様な人間が多く歩いているらしかった。

けれども、この人達も私と同じく自分の生活を送っていて、 一人一人にこれから先訪れる物語が違うのだと考えれば、怖くもあり、寂しくもあり、何より途方も無かった。一瞬の間、私は瞳に景色の外側を浮かべた。誰でも、他人事に映っていた舞台がふとした人生の節目で、その舞台の上に立っていたと気づく瞬間があるのだろう。私にとって、今日がその初舞台だった。

「あっ、アサヒ先生」

思考から一気に現実へと引き戻される。私は顔を横に向けた。

「月夜さん」

少し小走りで近寄ってくる彼女はいつもと雰囲気が違かった。何だかいつもより輝いて見える。服装なのか、化粧のせいなのか。あまり女性と接する機会のない私には分からなかったが。長い髪は途中で編み込んで後ろに結ってあり、薄桃色の紅が白い雪の上に咲いた小さな花のように可愛らしく、白のワンピースから華奢な足が覗いていた。彼女は素敵としか言いようがなかった。私にとっての初舞台は、一気に彼女が主役となった。


「こんにちは。遅くなってごめんなさい。待ちましたか?」

「いえ、そんなに」

「パンちゃんもこんにちは」

月夜さんは体を屈めて、ゲージの中のパンに挨拶をした。

「今日は無理言ってごめんなさい」

そう言って私に頭を下げた。

「そんな、気にしないで下さい。パンも家で一人でいるよりはいいだろうし」

「どうしてもパンちゃんと先生を連れて行きたい場所があって。あ、先生。その服着てくれたんですね」

彼女は瞬きを数回して私の服を眺めた。私は自分の服の生地を掌でさすって見下ろした。

「どうだろう。似合っているかな」

「お似合いです。何だか嬉しいな。私が選んだ服を着てもらえるなんて」

彼女の言葉が照れ臭く、私は首裏を意味もなく触って俯いた。

「それで、今日はどこに連れて行って貰えるのでしょうか」

「まだ内緒です。私についてきて下さい」

 

 二人は表参道のメイン通りへと歩き出した。洒落たビルや歩道に、背の高い緑の陰が美しい模様を描いていた。その中を歩いていくというのは、自分が絵画の一部になったかのようで何とも心地が良い。他愛のない雑踏の声すら映画のBGMのようにうって変わる。道というよりかは、人の歩く影を追って私達は歩いた。


「あの店です」

指を差した先には、黒板を模した看板に白い手描き文字で「本の猫」と描かれており、それに黒影の猫のイラストがくっついてあった。その上に小さく追記されている文字に私は口元を歪めた。

「あの、月夜さん……ここって」

「どうしてもアサヒ先生を連れて行きたくって。ここの猫カフェ、飼っている猫も連れて来られるし、しかも本も読めるんです。だから猫好きな愛読家さんに今人気のスポットなんですよ」

へえ、そうなのか。と淡々とした相槌も喉から出なかった。ただ呆然と看板を眺めて私は立ち尽くす。どだい猫カフェなどという響きなどが恐ろしいのだ。私は人間である。食事の時は無論衣服に身を包むし、四つん這いになって皿に口を寄せて食したりもしない。それなのに奴ら獣ときたら、いや特に猫は、飄々とそれをしてのける。パンが来てから大分頭がおかしくなっていたとは思ったが、未だ私の頭は正常に機能しているらしい。やれ猫が人間よりも上だとか、人間と同類だとか、私から言わせてみれば至って戯言に過ぎない。

 月夜さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「どうしたんですか?どこか具合でも悪いですか?」

はは、と乾いた笑いを返し「いや、何でも」と芸のない台詞を返した。

(今すぐにでも帰りたい)

しかし心の願いは虚しく。

「そうですか。ならいいんですけど」

月夜さんは残酷な程に無邪気な笑顔を浮かべて、地獄の門を開いた。

月夜さんは残酷な程に無邪気な笑顔を浮かべて、地獄の門を開いた。広々とした店内は暖みのある照明で私達を迎えた。向こうからやってきた店員は照明にも負けない暖かさを散りばめた笑顔で、何やら説明をしてくれたが私には一切の言葉も耳に届かなかった。壁に掛かっている有名な画家が描いたであろう猫の絵が、私を見下している。油断していたら餌と一緒に喰われてしまいそうだ。


私はゲージを持ち上げ、パンに耳打ちをした。

「おい、お前。確か人生アドバイザーなんだろ。こういう時に何とかしろ」

しかしやはり、パンは私の言葉を無視している。全く、どうしようもない。私は仕方なくこの事態を何とか自ら抜け出す手段を思案した。

 店内の奥へと誘導されると、確かにそこには図書館とカフェが一体になったような、だが余り違和感の感じさせない憩いの空間が広がっていた。明るい色調の木材はそれを狙っての事だろう。隅には猫だけが悠々と寛げるスペースまで作ってある。そして人間達は猫と戯れたり、コーヒーを啜ったり、読書をしたりとこれまた悠々と自分の好きな時間を過ごしている。

 私達はソファーのあるテーブル席に腰を掛けた。ゲージからパンを出すと、パンは私の隣ですぐに丸くなった。月夜さんはメニュー表を手繰り寄せて、私にも見えるように両面を開いた。看板と同じく黒板調のメニュー表にはチョークで猫用menuと書かれていた。私が驚いたのは、その写真の中に映っている猫用のケーキが、人間が食べるそれと全く同じような細工だった事だ。

「あ、これ可愛いですね。人間が食べるケーキみたいで」

一体このケーキは何で出来ているのだ。考えれば考える程その代物が不気味に思えた。だが、実生活で自分が口にしている食べ物も、見方によっては不気味とも言える。私の知っている猫の食べ物といえば、殆ど魚だった。アニメなどでケーキを咥えている猫など見た事がない。

「鰹節や、魚はないのか」

「あっ、先生。高級猫缶がありました」

そういうものでいいのだ。ご馳走なんか食べさせた日にはうちの猫は腹を壊すに違いない。

「それを頼もう」

「アサヒ先生は何にしますか?」

「私はとりあえず、ホットコーヒーを頂こう」

「じゃあ、私はカプチーノにしようっと。すみません、ホットコーヒーとカプチーノ、それからこの猫ちゃんのリッチマグロ缶っていうのを一つ。以上でお願いします」

かしこまりましたと、店員がお辞儀をして掃けていく。私と月夜さんは本を探しに席を立った。パンは相変わらずソファーで大人しく丸まっていた。締め切りやパンの事で騒がしい日々を過ごしていた為、ここの所落ち着けて読書をしていなかった。私は、数億の道が枝分かれする出発地点立っている。周りの景色はまだ何もなくただ真っ白であるのに、不思議と私の心は浮かれている。本を手にすればどこにでも行けるのだ。大海原へも、大空へも、宇宙へも。過去へも未来へも。


私は本の集まる場所は決まって、過去の文豪達に敬意を払って慎重に床を踏む。新しい本よりも、気に入った本を何度も読むのが癖だった。その為この時、私の手には宮澤賢治の銀河鉄道の夜と、夏目漱石の本を数冊。それからもう一本、今の心境と似つかわしい題の本を手に取って席に戻った。

私は先程から全く無口を極めている隣の猫に話しかけた。

「なあおい、今日はどうしてそんなに無口なんだ?変なものでも食ったか?」

頭を垂らして声を掛けてもパンは私の方を見向きもせず、欠伸を一つかました。私は諦めて本を開く事にした。読み始めてすぐに文字の世界へ入り込んでいると、隣に月夜さんが戻って来た事に気づいた。テーブルの上にはいつの間にか頼んでいたものが置いてあった「先生、本を読む時はとても集中するんですね」


「ああ、済まない」

高級マグロ缶とやらは皿の上に綺麗に盛り付けられていて、それっぽい見栄えとなっていた。ソファーにいるパンの方へ皿を寄せると、鼻先をくんくんと微揺させて近づきすぐ様食らいついたので、私は少しだけ安堵し視線を書物へと落とした。

「何を読んでるんですか?」

「この本を読むのは初めてなんだ」

私はわざとらしく、彼女に本の表紙を見せつけた。

「抜け出したい」と、私の心境そのもののタイトルを口にした。

「新しい本なんですかね」

「知らんが、退屈だ。別のを読む事にしよう」

かくて浅はかな作戦は失敗に終わり、私はなるべく息をしないように努めながら他の本へと手を伸ばした。月夜さんの前で猫アレルギーが発症しようものなら、とんだ痴態を晒してしまう事になる。それは避けなければならない。ふと、テーブルに置かれている数冊の本へ目が移った。それは月夜さんが攫って来た本であったが、その題名には見覚えがある所か、見飽きる位だった。「狂海」と書かれた死んだ海の底のような色の本。私が三十代半ばで書いた本だ。月夜さんは私の視線の矛先に気付いてにっこりと笑った。そこには死んだ海も狂った海もない。寧ろ静かな南国の海の浅瀬のようだった。

「目の前で読まれるのは何ともいたたまれない心待ちになる」

私は笑顔といえるのか分からぬような何とも不思議な表情を浮かべた。それに対して月夜さんは小さく風と戯れる波のような笑顔を浮かべて、ページを捲った。

「この本のね、好きな所があるんです。ここの一節。波は狂ったように死と生を奏でていた。しかし私の耳には全くの無音だった。妻はどうだかは知らなかったが、彼女の死んだような蒼白い顔を見て言わずにはいられなかった。〝生きよう!〟暗闇の中で彼女の顔に雲の切れ間から射す月明かりが灯る。その時初めて荒れ狂う海の音色が怖かった」

「成る程」

罪を犯した夫婦達が、荒れ狂う海で自殺をしようとするシーンだった。

「寂しくて、愛しくて、苦しくて、絶望的なのにどこか希望を感じるんです。でもきっと、それも含めて人生は狂気と愛に満ち溢れているのかもしれませんね」

「絶望か。私は今それの真っ最中だが」

と、私はどこか上の空で言った。そんな中、最悪の事態が起きた。少し肌寒い店の空調のせいか、薄く立っていた湯気もしらけた一杯のコーヒーを飲み終え、お代わりを頼もうと呼び出しベルを押す。時間はその時に起きた。


「にゃぁ」

喉を震わせた、間の抜けた鈴のような鳴き声が足元から聞こえ、私は恐る恐る下を見る。予想するよりも先に赤の他猫が、無遠慮に私の足首へ擦り寄ってきた。全身に栗肌が立ち、思わず私は勢いよく立ち上がり叫んだ。

「何だ!!こらっ、おい!あっちに行け」

丁度やってきた店員と、月夜さんの双方から居心地の悪い視線を受けたのに気付き、私は冷静を振る舞い、咳払いを一つしてゆっくりと腰を下ろした。

「――と、猫を邪険にする人間はけしからん」

「先生って本当に猫がお好きなんですね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る