第11話 父

花谷さんは依然としてにっこりと微笑んでいた。そこには嘘のない顔があった。父が私の本を。その言葉に動揺と疑心で体が硬まった。そこで花谷さんの優しげな声が私の筋肉を緩和してくれた。

「皆が寝静まった頃、私はたまたま見てしまったんです。破れたページを繋ぎ合わせた息子の処女作を泣きながら読んでいる姿を」


私は想像をした。生まれてから一度も見た事のない父の泣く姿を。いつも厳格で眉間には筋を携えている。低いテーブルに背を丸め、肩を震わせながら声を殺して泣く父の姿。「ごめんな、ごめんな」と小さく声を漏らす父の姿。


花谷さんは続けて言う。

「陽一さんは翌日直した本を持ってきて、私が修復したのだと貴方に言うように頼んだの。あの人も貴方に似て、頑固な所があったのよ」

不器用に直されたそれを一枚一枚捲った。今読むと文法も言っている事も滅茶苦茶だった。最後のページを捲ると、見覚えのない赤い文字で何か書かれていた。それを見るなり急に熱く抑えきれない感情が込み上げてきて、ページに小さな水溜りを作った。

そこには花丸と、父の字で「面白かった」と書かれていた。私はその上に何滴も水滴を落とした。


「陽一さんはいつも貴方の事を心配していました。私にはそれがよく分かっていました。自分が死んだら陽二の事を頼む、と。何度も何度も私に頭を下げたんです。貴方の事を心から愛してらっしゃったんですね。お父様は」

「父さん……」

私はついに顔をぐしゃぐしゃにして、両腕で父の代わりに本を抱きながら止めどなく泣いた。パンが心配そうに私の方へやってきて、そっと膝の上に柔らかな手を置いた。

「でも、パンちゃんがいてくれて本当に良かったわ。旭田先生、パンちゃんが来てから凄く楽しそうですもの。もしかしたら、お父様の生まれ変わりなのかもね」

私は袖で涙を拭って言った。

「いや、それは無いな。父は大の魚嫌いだった」

「うふふ、そういえばそうでしたね」

花谷さんは少女のように微笑って、立ち上がると皿を片付け始めた。私は何やら思いついて声をかけた。

「ああ、明日」

「はい?」

「留守にする。それで、教えて欲しい事がある」

「何でしょう」

「父の――」


私は多くの事を花谷さんに教えて貰った。するとおかしな事に、まるで十年来の友人のように父が頭の中で、私に語りかけてくるのだった。しかもその父の顔はどれも温かく、優しかった。いつからか忘れていた、父と緑豊かな場所で散歩をした記憶や、父の腕の中に収まる私。


夜は涼しげに鳴いていた。風は時折寂しそうに窓を揺らす。その夜を越えれば、明日はどんな朝になるのだろうか。いずれにせよ、今日はこの夜を抱いて朝日へと跨ごうではないか。迎える準備はもう出来ている。



何時もよりも白く眩しく見える朝が私の瞼を撫でる。布団から起きた私は直ぐに身支度を整えた。滅多に着ないシャツに袖を通し、髭も剃った。朝食も済ませ、パンと一緒に仙香行きのバスへ乗った。パンはケージの中で大人しくしていた。というよりも、今日は朝からずっと大人しかった。私はといえばバスに揺られながら、ぼんやりと思考に浸る。移ろいゆく一瞬の景色の中にも、どれ程の物語があるのだろうか。そう考えるとたちまち、私の見えている世界が映画のワンシーンに思えてくる。そのどれもに脚本も台本もない。私達には白紙の本が与えられ、ページ一枚一枚どう執筆するのかは個人の自由なのだ。


約一時間程の距離を跨いで駅に辿り着く。そこからはタクシーに乗って、長閑な景観を眺めた。そうしてようやく到着したのは、父が眠っている墓地だった。

敷地内に入る前に一つ深呼吸をする。石畳を踏んで進んでいくと「石川陽一」という名の掘られた墓が目に入った。父の墓はとても立派だった。数十年振りに訪れたというのに父の墓の周辺はとても綺麗に手入れをされていた。それで、花谷さんがいつも父の命日になると留守にしていた事に気づく。この掃除は全て花谷さんがやってくれていたのだろう。

パンをケージから出すと、私と一緒に足を揃えて父を見詰めた。目を閉じ両手を合わせて、深く頭を下げた。それから私は菊やスターチスといった花達と、30歳前半で初めて賞をとった小説を、父の墓の前に供えた。そうして再び、父と会話をするように両手を合わせて長く頭を下げた。


頭の中で実に色々な話をした。今の自分がかろうじて執筆業で生活を出来ている事。育ててもらった感謝と、父の期待に添えずいい息子でなかった事の謝罪。そしてパンの事。


パンと私はその間、一言も喋らなかった。墓参りが終わり、パンをケージに戻し帰り路を行く。

「陽一」

と、パンは父の名を呼んだ。

「何だ、お前。よく父親の名前が読めたな。本当に猫なのか?」

私は少しからかいがちに笑いながら、話しかけた。

「名字、アサヒじゃないのにゃ」

「あれはペンネームって言っただろう。私の本名は石川だ」

「普通の名前にゃ」

「うるさいぞ。お前のパンって名前も、普通だ。名前なんて何でもいいんだよ。どう生きるかが問題なんだ」

そう言って、その言葉がかつて誰かから教わった言葉だったと思い出し、しかもそれが目の前にいる猫の言葉だったと思い出すと途端に気恥ずかしさが湧いて、暫く口を噤んで視線を宙に向けた。

 錆び付いた下町は詫びしさというよりも、返って人々の懸命な暮らしが如実に現れているようで、都会よりか寂しさを感じない。

その中で一つだけ誰にでも降り注ぐ太陽や、建物の隙間から覗く空の色だけは、どこにいても同じ姿をしている。もしも人間の故郷がそれだとするならば、だからこそ私達はどこにでも行けるのだろう、と歩きながら思った。


それから二週間後の事だった。初夏はとうに過ぎ去り、本格的な夏が景色を明るく彩り始め、私はといえば相変わらず眉根に皺を寄せていた。先日、編集者の方からわざわざ私に会いに来て「先生もうすぐ締め切りです」と言ってきたものだから、パンが来てから少しずつ筆を進めていった物語を読ませた所、その女は目ん玉丸めて「先生、どうしちゃったんですか?」と聞いてきた。

それで「猫が喋るなんて子供騙しの作品、先生らしくないじゃないですか。私は先生にもっと核心のついた、人間臭い話を書いて貰いたいんです」

要はつまらない、と言えば済むのだろうが人間というのは本音と建前がある面倒な生き物なのだ。

「先生、猫嫌いでしたよね?」

「ああ、今でも嫌いだ」

「それじゃあ、その猫は一体何なんですか?その猫が喋る猫のモデルなんでしょう」

「だったら何だっていうんだ。大体、私はこの十数年書きたくもないものを書かされてきたんだ。少しは息抜きに書いたっていいだろう」

「それはプロじゃありません。私達はプロの仕事を頼んでるんです。もしも書けないようなら、担当を外させて貰います」

「それは脅しか?なら私も、書いてやるもんか」

「はあ?とにかく、もう時間がないので集中して取り組んで下さい!猫と遊んでる暇があるなら、真面目に作品と向き合ってください。また来ますからね」

「もう来なくていいぞ!」

私は部屋を出ていく編集者に大声で言った。そして勢いよく扉を閉めた。

「頭の固い奴め」

私は苛々して、体を畳に投げると横を向いて不貞腐れた。そう一人で呟いていると、パンがそろそろとやって来た。

「アサヒ、今の人は誰にゃ」

「今のか、あの人は私の担当の編集者だ。どうやら私の作品がつまらんらしい」

私は苛々して、体を畳に投げると横を向いて不貞腐れた。

「なかなか簡単にはいかないもんなのにゃ」

「作品を世に出しても読まれなければ意味がない。これは自分の持っている信念と折り合いをつけなければいけない問題なのだ」

「アウトプットが出来ないのはインプットが出来ないからにゃ。自分の世界に凝り固まらずに行動するにゃ。漕がずに動く自転車なんてないにゃ」

「だが、一体何をすればいいんだ。私はこの通り出不精だし。いくら見た目を変えたってやっぱり本質は変わらないのだよ」

私は諦めたように溜息を吐いた。言いながら、そんな自分に嫌気がさしているのをひしひしと胸の内で感じる。

「あの子をデートに誘うにゃ」

私は顔を振り返って、パンを見た。

「月夜さんを?しかし、私から誘って気持ち悪いと思われないものか」

「あの子も待ってるにゃ。ほら、前にも言ってた事を思い出すにゃ」

「あれは多分、営業トークのようなものだと思うが」

すると今度はパンの方が、呆れたように溜息を吐いた。猫も溜息など吐けるのか。と、無駄な関心を浮かべている隙に、私の顔の前に鼻先が当たる距離まで飛んで近づいてきた。

「外見を変えたのは、何か行動を起こせば見えるものの変化が分かりやすいと思ったからにゃ。何事にも順序というものがあるのにゃ」

喋る度に、髭が擽ったく当たる。そのむず痒さにくしゃみをしそうだったが堪え、パンの言葉に耳を傾けた。

「行動を起こせば変わるにゃ。いい方向か悪い方向か、分からにゃいけど、失敗のない成功なんてありえないにゃ。弱気ににゃるな!アサヒ。失敗したら吾輩のせいにしていい。そうすれば気持ちも楽なはずにゃ」

パンの激励を聞きながら、その小さな顔にある存在感の強い宝石に似た瞳の色を初めて意識をした。アンバーの中に黒い裂け目が一つ。獣特有の特徴を持つ瞳なのに、何故かパンの瞳の中には優しさや経験といったものが感じとれるのだ。私は今までそんな猫を見た事がない。その瞳を見ていると、気持ちが絆され何となく言う事を聞いてみようという心待ちになってしまうのだ。なんて猫だ。


「分かった。誘うだけ誘ってみる。けど私は女性をデートに誘った事がないんだ。どう言ったらいいか……」

そもそも、表情の分からない声だけの会話というのは苦手なのだ。もしも私が一日中電話番をしろと頼まれようものなら、いっそ荒川に飛び込んでしまう事だろう。この携帯は、いつか花谷さんが私に何かあったら大変だからと、無理を言って持たせたものである。確か、らくらく、何とかと言う名称だった気がするが定かではない。今の今に至るまで全く使用した事がないのだから。


私は起き上がって、着物の帯から携帯を取り出した。以前、交換しておいた電話番号を押そうとして、親指は止まる。喉が詰まり、緊張で全身が冷蔵庫か何かで冷やされたかのようだ。唇をうの字にして息を吐く。今度は深く息を吸って、震える指先でボタン一つをやっと押す。と、今度は長い着音が耳に届き、私の心臓は今にも爆発寸前まで昂った。着音が収まると、彼女の声がした。

「もしもし、アサヒ先生?」

「は、はい。月夜さんですか?」

月夜さんは、電話越しでくすくすと笑い始めた。

「はい、月夜です」

「ああ、良かった。ごめん、急に電話をして」

「いえ。今丁度色々片付けて落ち着いた所なので。先生から電話、びっくりしました。でも嬉しかったです」

「なら、良かった。それで……」

私はその後の言葉がなかなか出てこず、暫く沈黙をしてしまった。いけないと、顔を振って喉を絞ると、「あの!」変に大きな声を出してしまった。

「今週末、空いていますか」と、あからさまに落ち着いた声で聞く。

「今週末ですか?……はい!日曜日なら丁度空いてます。あ、もしかしてデートのお誘いですか?」 

何故か先に越されて、どきりとした。

「まあ、はい。でも嫌だったらいいんです」

「私もアサヒ先生とデートしたいです」

「本当?」

私はようやく、先程の緊張が解れ安心して胸を撫で下ろした。

「はい。どこに行きましょうか。先生が行ってみたい場所って、ありますか?」

「いや。あまり思いつかないな」

「じゃあ、私がとびっきりのオススメの場所、連れて行ってあげます」

 彼女は声を弾ませながら言った。オススメの場所、と聞いて私も少なからず浮かれた。いや、正直に言うと相当に浮かれていた。何故なら、彼女の日常や、物語や世界といったものに、私などが入る事が出来るのだから。

「よろしく……、お願いします」

「もちろん、任せて下さい。あ、パンちゃんも連れてきて下さいね?時間と場所はまた後で電話しますから」

「わ、分かりました」

「それじゃあ、また」

「はい」

彼女の声が途切れてから、今しがた頭を捻って会話を頭の中で繰り返してみた。パンを連れてきて、と彼女は言っていなかったか。何故、パンを。私は携帯電話を握り締めたまま、パンの方をじっと見詰めた。

「上手くいったかにゃ?」

私は何処か疑問を残しながらも、こくりと頷いた。

「それは、良かったにゃ」

パンは尻尾を上に伸ばして、ゆらゆらと揺らしている。猫に限った事ではないが、常々何故にあんな風に尻尾を動かす必要性があるのだろうか。私が眉間に皺を刻みながら首を傾げていると、早速パンが私の表情に気づいて顔を覗き込んできた。

「どうしたにゃ?」

「いや、彼女がお前も連れて来いだなどと言ってくるもんだから」

「にゃるほど。アサヒ一人じゃ心配だからにゃ。吾輩も一緒ならアサヒも安心だにゃ。そんな事よりお腹が空いてきたにゃ。何かおやつを頂戴にゃ」

と、パンはごろごろと喉を鳴らして仰向けになりながら、猫の手を私に向かって伸ばした。私はその手を無視して、テーブルに両肘をついて頭を抱えた。それでもパンはしつこく私の膝の上に手を置いた。私は何度か溜め息を吐いた後、前に買っておいた焼き鰹リッチバージョンの存在を思い出し、立ち上がった。

パンにそれを食べさせる間も、私は週末のデートの事で頭がいっぱいだった。

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