第10話 パンへのご褒美

月夜さんの助言で、私は猫が喜ぶおやつを手にとった。あいつの正体が猫なのかは未だに解明できない謎ではあるが、150円ぽっちで喜んでくれるのかどうかは少々心配であった。

その隣にリッチバージョンと100円お高めの同じ種類のものがあった。私には全く違いが分からなかったが、悩んだ末にあいつに選んで貰おうと両方を手に取った。誰かの為に買い物をするという事自体、初めてであったが、その初めてがまさか猫になるとは誰が想像しただろう。しかし余り悪い気分ではない。

私と、月夜さんは二人並んでパンを迎えに行く。空に昼時の太陽がしがみついている中、私は心地良い疲労感に包まれていた。


焦れったい夏の予兆は、今や不快には感じられない。例の施設の中へ入ると、受付に告げてパンを引き取った。私はパンの無事な姿を見るなりほっと安堵に胸を撫で下ろした。パンはすぐに私の足元へ来て、小さく丸い頭を擦り付けてきた。

「はは、何だ。寂しかったのか?」

パンは何も言い返さずに、みゃぁとだけ鳴いた。ああ腹が減って話せないのか。私は帰ったら早く片手に握りしめている土産を渡そうと決めた。


パンと月夜さんと並んで、商店街の方の坂道へ引き返した。もう既に辺りは薄暗い。夜になるとまだ肌寒さが居残る。

「アサヒ先生、今日はありがとうございます」

「いえ、それは、私の台詞ですよ」

「楽しかったな。またアサヒ先生とあんな風に出かけたいです。あ、でも……そんな事をしたら恋人さんに妬かれちゃいますね」

月夜さんの誤解の言葉に、私は坂道の途中で足を止めた。そして袋の取っ手を握り込み、唇を一度結んでからもう一度開いた。

「あの、恋人はいません」

「え?」

月夜さんは、目を丸く見開いて私を見た。もしかして、見当違いの言葉だったかとすぐさま後悔が胸を打つ。

「だから妬かれる心配は、ありませんよ」

「そう、だったんですね。てっきりデートかと……」

数秒の間が、気まずくて仕方がなかった。私は保身を選び、帰り道へ逃げる為足を一歩踏み出そうとした。

「すみません。紛らわしくて。月夜さん家はこの辺――」

「じゃあ、私と今度デートして貰えますか?」


どくりと一瞬で心臓が脈を打つ。思わず私は、えっ?と情けない声を漏らした。

「デートって、あのデートですか?」

いかにもへんてこな返しである事は、思い返してみても自覚している。だがこの時ばかりは、私よりもへんてこなのは月夜さんの方だと思っていた。多分、猫が喋った時よりも驚いていただろう。

「その服、勿体無いじゃないですか。折角買ったのに。だから、その服を着て私とデートをしてくれませんか?」

私はあんぐりと唇を開けたままで、小さくはい、と返事をした。


どくりと一瞬で心臓が脈を打つ。思わず私は、えっ?と情けない声を漏らした。

「デートって、あのデートですか?」

いかにもへんてこな返しである事は、思い返してみても自覚している。だがこの時ばかりは、私よりもへんてこなのは月夜さんの方だと思っていた。猫が喋った時よりも驚いていた。

「その服、勿体無いじゃないですか。折角買ったのに。だから、その服を着て私とデートをしてくれませんか?」

私はあんぐりと唇を開けたままで、小さくはいと返事をした。

そうして月夜さんはふふ、と吐息混じりに笑うものだから私は暫くの間、足と視線が縫い付けられたまま動けずにいた。その後の帰り道の事は何一つ覚えていない。景色も、パンの鳴き声も、すれ違う人の声も。唯一覚えているのは、坂道を下り終えると十字路で別れた月夜さんの、笑顔で手を振る姿だけであった。


玄関の扉を開くと、花谷さんが出迎えて私の顔を見るなり、大袈裟に手を口元に覆いながら、両方の眼を大きく開いたので、私はそういえば美容院に行ってきたのだと思い出した。

「あらま!本当にアサヒ先生?随分と色男になって帰ってきましたのねえ」

「いやはや、似合っているかどうか自分では分からなくて……」

私はどこか照れ臭く、新しい髪の毛先を指先で軽く触れながら笑みを溢した。

「お似合いですよ。近所の奥さま方にもモテてしまいますね」

「またまた、大袈裟な」

「あら?買い物をしてきたんですか?」


花谷さんは目敏く、私の手に持っている見慣れぬ袋達に視線をやった。

「デートの服と、パンの土産だ」

「ええ!?で、デート?」

もう一度同じように目と口を見開く花谷さん。

「ああもう、いちいちうるさい」

今まで出不精だった為、その反応は分からなくもないがだからと言ってそんなに騒ぎ立てる事でもあるまい。私は唇をへの字に曲げた。

「先生どうしちゃったんですか?でも、デート。私も嬉しいです。ああだから最近、そんなに変わったんですね」

「変わった?私がか?」

「変わりましたよ。あ、風呂入るなら沸いていますので、どうぞごゆっくり。パンちゃんにはご飯をあげますからね」

パンはにゃぁと鳴きながら花谷さんの後ろをついていった。花谷さんはせかせかと廊下を歩く。あの人の足音はいつも、ずっしりと弾んでいる。

私はパンに土産を差し出し忘れたが、後で渡せばいいだろうと、取り敢えず風呂へと入る事にした。


少し熱めの湯気だった浴槽に入る。一日の疲れが溶け出るような感覚に思わず喉から唸る。私は今日の出来事を振り返ってみた。風呂の温度のせいではなく別の理由で逆上せた私の口角は自分勝手に持ち上がった。

「ふふふ」

と、誰が聞いても怪しい笑い声を漏らす。

それでも何か目に見えぬ力に動かされたように表情筋が吊り上がるので、その顔面いっぱいに、湯を掬った両掌をばしゃりと被せた。透明に揺れる湯の中を不意に覗き込むと、懐かしさを覚える光景があった。ゆらゆらと揺れる水草を見ても、私の心は至って平常心であった。同級生達の笑い声も蘇らない。というよりも思い出せないようだった。

いっその事、声を上げて笑ってみた。まるで歌でも歌っているような心地で、笑ってみた。あははは。するとより一層何ともおかしな気持ちが胸に沸いて、今度は笑いでは治らずに、仁王立ちして立ち上がり、不格好な様で両腕を高く上に高く突き出した。

あははは、よっしゃあ!


そのまま踊り出してしまいそうだったが、湯冷めをしてしまいそうな為、止めておいた。

風呂に上がると、私はパンの教えに従いドライヤーで髪を乾かしてから書斎へと行った。

書斎はとっ散らかっており、本棚は鮨詰め状態で息苦しそうに書物が酸素を欲している。机の上も読みかけの本や参考資料などが嵩張り酷い有様だった。机の上のみならず、机の下までもが惨状と化している。前は気にならなかった筈が、今は既に片付けの手順を考え出してしまっている。花谷さんがあんな顔をするのも納得だ。


近寄って、窮屈そうに飛び出している細い本を引っ張った。無理くりにやったので、その他の本まで雪崩れ落ちていく始末だった。くそ!と私は叫んだ。が、手に入れた本を見て、その声は慎ましく喉へ帰った。下手くそな表紙の絵は手描きによるもので、ヒーローのような格好をした少年が長剣を持っている。それから、鉛筆でこれもまたヘタクソな字で大きく「宇宙ヒーロー ソラ」と記されている。その本は痛々しく、引き裂かれた傷を直すように真ん中にセロハンテープが貼られている。


それを眺めていると、どこか胸の内が痛くなり、私は暫くその本を離せなかった。

「アサヒ」

と、呼ぶ声にようやく振り返る。そこにはパンの姿があった。

「何を見てるのにゃ?」

「ああ、これか……何でもない。飯は食ってきたのか」私は咄嗟に本を机の上に置いた。

「花谷さんは吾輩の健康を考えて、猫用のものしかくれないにゃ。やっぱりアサヒの朝食が一番美味いのにゃ」

「馬鹿を言うんじゃない。自分の飯があるなら、人のを盗るな。お前のせいで、魚に味がつけられないじゃないか」

「吾輩とアサヒの仲にゃ」

ふてぶてしく、パンは床の上に仰向けで寝転んだ。私はここで土産の存在を思い出し、先程買った袋を手繰り寄せると、パンの傍に放った。パンは起き上がって早速興味津々な風に、その袋へ鼻先を寄せ、すんすんと動かした。

「これ、何にゃ?」

「さてな。たまたま通った店でたまたまた買っただけだ」

「アサヒが、吾輩の為に……すぐに開けて欲しいにゃ」

パンは急かすように、猫の手でぐいぐいと袋を私の方へと寄せた。

「まあそう焦るな。今開けてやるから」

私は促されるままにその袋を手に取り、開封してやった。中から渋い鰹の香りが漂ってくる。

「アサヒが食べさせてにゃ」

「何言ってんだ。その位、自分で食え」

「お願いにゃぁ」

と、猫撫で声を上げる。私は溜息を吐き、鰹のおやつをパンに与えた。パンは最初の一口こそ控えめだったものの、味が大層気に入ったのか、その後はがつがつと食べ進めた。それで、一気に一本150円のおやつはパンの胃袋へと消えた。

「ふぅ、美味しかったにゃ。ありがとうにゃ、アサヒ」


「もう一本、買ってあるが」 

「今はお腹がいっぱいで食べられないにゃ。明日また食べるにゃ」

パンは、口を大きく開いて欠伸を漏らし、その場でごろんと丸まった。柔らかく滑らかな毛に、私は思わず指を伸ばしてしまった。そして、その毛先に触れようとした瞬間、コンコンと部屋を叩いて「先生、先生」と花谷さんが呼ぶものだから、どうぞと言うと扉を開いて言った。

「あ!やっぱりパンちゃんこんな所に。もう、先生の邪魔をしちゃダメって何度も言っているのに」

花谷さんの両手にはお盆が乗せられており、その上には小皿に夏によく映えるオレンジ色をビワが、食べやすい状態で盛られていた。

「ああ、いいんだよ。もう気にしなくて」

「こちら、良かったら頂いたので旭田先生にお裾分けです」

「ほう、ビワか。私の好きな果物だ」

花谷さんは、私が胡座をかいている傍にその皿を置いた。爪楊枝を指で摘み、水水しい果肉を拾い上げると唇へ運ぶ。甘く澄んだ味が舌の上で蕩けた。私は小学生の頃に、このビワというものを初めて食べた。これを食べる度に、夏の学校の庭にぶら下がるへちまと、その横で育てられているビワを思い出す。

途端に砂っぽい香りが頭の中へ駆け巡る。と、花谷さんは机の上の古びた本を見て言った。

「その本、確か旭田先生の」

丁度二つ目を拾おうとして、皿に戻した。そして、机の上の不細工な本を手に取ってみた。

「私の処女作だ」

パンはこちらを見た。


「そうそう、懐かしいですね。先生が小学生の頃に、自由ノートを切って作った手作りの小説」

私は苦く笑いを溢した。

「ああ、捨てたと思ったんだが」

「この本を書いたから、今の旭田先生がいらっしゃるんですものね」

「そんなにいいものでもないさ」

 私は埃のついた、ぼろ紙のしわを親指で撫でた。急に、胸の内が僅かに軋んだ。

「この本の事は思い出したくないんだ」

花谷さんは反対に、くすくすと思い出し笑い始める。

「ふふ、先生小さい頃、この本を書いてお父さんに見せたら、俺の息子がこんな下らないものを書いて恥ずかしい!って怒鳴られていましたものね」

「父は私の事を嫌っていたから。父の会社を継ぐ事の出来ない駄目人間だと。だから父は、私の前でその本を破ったんだ」

今の今まで、頭の隅からも消していた記憶が、先程のビアの時のように鮮明に思い出される。

浮かれた足取りで、廊下を跳ねた子供の私。巨大に見えた父。決して歪みを損なわない厳格な瞳。期待に乾く喉を鳴らし、胡座をかいた父が私が書いた本を両手で持って読んでいるのを、緊張と喜びで目が離せなかった。一頁、捲った太くかさついた親指の、その後の想像をした。きっと私の頭を撫でて、よくやったと褒めてくれる。私は父が読み終わるまで真剣に待っていた。父は途中で本を閉じた。それから立ち上がって私を見下ろすと、目の前で本を真ん中から引き裂いた。「こんな下らないものを書いて、恥ずかしくないのか!お前のような息子を生んだ事は私の最大の恥だ」

そう言って、父は部屋を出て行った。残された私の前に残ったのは、無惨に破けた駄作とも呼べぬ何かだった。その紙と私ごと、部屋から消えればいいのにと、思った。


 私は思い出しながら、喉に何か詰まるような苦しさを覚えた。

「今思えば、何て恥ずかしい事をしたのだろう」

すると、花谷さんは穏やかな表情をして言った。

「旭田先生、ご存知ないんですか?」

「何が」

「それを直したのは私ではなく、お父様なんですよ」

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