第9話 月夜さんと買い物

そうして微睡みに身を委ねていると、店員に声をかけられて私ははっと目を覚ました。


「終わりましたよ。こんな感じでいかがでしょうか?」

私は目に入ってきた鏡の中の自分を見て吃驚した。そこには私ではない私がいた。残念ながら希望通り太宰治のような髪型には近しくなかったが、以前の天然パーマがこれ程真っ直ぐに、しかも艶やかに伸びている。歳も幾つか若く見える。一体どんな魔法を使ったというのだろう!私は新しい自分が珍しく、しばらく鏡を見つめて、言った。

「いい、ですね」

店員はにっこりと気のいい笑顔を浮かべた。私は前髪や毛先を好奇心のままに触れてみたりした。それから会計を済ませにレジへと立った。パンが後ろからついてくる。報酬を払い、店を出る間際、窓辺に座る灰色の猫と目が合った。私はじっくりとその猫の眼を見つめ返し、小声で話しかけてみた。

「何だ。何見てる。お前も話したいのか?」

しかしやはり、猫はにゃんともすんとも言わない。私は訳の分からぬ落胆を抱いて、外へと出た。店員の朗らかなありがとうございましたを背に受けて。


「喋るのはお前だけなんだな。やっぱり私がおかしくなったのではなかった」

「あの猫の事にゃ?あの猫はもうおばあちゃんなのにゃ。吾輩には話しかけてきたにゃ」

「何て話しかけてきてたんだ?」

「みゃぁー」

と、パンは一声鳴いたので、私は瞳に疑問を浮かべてパンを見た。

「猫語にゃ」

「日本語に訳してくれ」

「日本語でどう言ったらいいか分からないにゃ。これは猫だけの共通認識の言語にゃ。知りたければ猫語を勉強するにゃ」


猫語を勉強しろとはまたおかしな事を言う猫だ。大体我々には、猫の声など全部にゃあにしか聞こえない。昔確か、猫や犬の鳴き声を日本語に翻訳するという機械があったが、人間には分からぬ微細なアクセントなどがあるのだろうか。

私とパンは帰り道の坂道を登った。すると後ろから、誰かに声をかけられた。「あの。アサヒ先生?」

振り返るまでもなく、その穏やかな声色に私の心臓は勝手にはしゃぎだした。それから、顔をその人の方へ向けると、懐っこい笑顔を向けてくる、月夜さんが立っていた。

「つ、月夜さん」

「あ!やっぱり。アサヒ先生だった。髪型が違うから別の人かと思ったんですけど、服装がいつもと同じだったので。パンちゃんも一緒だったんですね」

「にゃあー」

「どこか二人でお出かけですか?」

「いや、さっき美容院に行ってきてそれで」

「ああ、だから雰囲気が違ったんですね。その髪型も素敵です」


私は褒められて照れ臭く、挙動のやり場が見つからないまま髪を搔いた。

「あ、分かりました!もしかして」

と、月夜さんは声を明るく弾ませた。

「デートですね!?」

聞き慣れない単語に私は分かりやすく動揺した。

「いやあの、デ、デートでは……!」

「じゃあアサヒ先生のデート服を選ぶの、私が手伝いましょうか?」

「え?月夜さんが?」

私は返答に迷って、一度パンを見た。目的は何であれ少しでも月夜さんと時間を過ごせるのならば、想像しただけでも心臓が跳ねる想いだった。私がまごついているのを見て、パンはにゃあと一つ鳴き声を漏らす。そう、私に行けと言っているのだ。

「すみません、迷惑でしたよね。それにアサヒ先生も忙しいのに」

月夜さんは、眉を下げて笑いながら言った。私はその仕草を見て、彼女の言葉を全力で否定するように、声を張り上げてしまった。

「そんな事はありません!」

暫く二人の間に沈黙が流れ、月夜さんは目をぱちぱちと開閉させていた。それからふと柔らかく微笑みが浮かんだ。

「良かった。じゃあ行きましょうか。駅の方のイオンモールなら、猫ちゃん預かってくれる場所もありますし」

月夜さんは、何故か楽しげに声を弾ませていた。その様子を見ると私も同じく心が陽気に満たされていく気がした。そうして私達は駅の、少し人の多い通りへと歩いていった。正直、人が多い場所は苦手だ。すれ違う人は相変わらず私の方を見ている気がする。だが、今日は普段よりも周りの目が気にならなかった。

地下を潜り抜け、駅方面へ。建物の合間から突出した、イオンモールErioの文字が見える。

保育園、公園、専門学校といった施設に沿って歩道を歩いていくと、やがてペットホテル安田という看板が見える。私はパンを預けるのは不安だった。何故ならパンは私にしか知らない秘密を持っている特別な猫だからだ。そんな猫を普通の施設に預けて大丈夫なのだろうか。いや、決して寂しい訳ではない。私の心配事といえば、パンが私の留守の間に何か特別な力でも発揮して、猫らしからぬ能力でも使って、危ぶまれ、政府の実験体にでもされやしないだろうかという一点のみで、寂しいという生温い感情などではないのである。

私の心配を察してか、パンは足元で話しかけてきた。

「吾輩は大丈夫にゃ。せっかくのチャンスなのにゃから、頑張るにゃ」

それだけ言って、パンは自ら施設の方へと歩いていった。

「あれ、パンちゃん先に行っちゃった」

慌ててパンを追いかけ、私もその後に続いて施設へと入る。部屋の中は落ち着くアロマの香りがして、綺麗だった。ここならパンがおかしな事をされる心配はなさそうに思えた。受付を済ませて、パンと別れた後私達は施設を後にした。

二人きりとなった状況は、正直な話嬉しいというよりも戸惑いの方が大きく、私は何を話せばいいのか分からずに唇を無駄に開いたり、やっぱり閉じたりを無意味に繰り返していた。月夜さんは独り言のように「今日は暑いなぁ」と言っていたが、それに対しても私は反応に惑い、小さく相槌を打つに留めるばかりで、結局、二人会話のないまま隣り合う足がErioに吸い込まれていった。


平日だとはいえ、夕暮れ時な為か、人がそこそこ居た。特に学校帰りの学生がちらほら見受けられた。彼女達の手には、黒い点々の入っている飲み物が握られているが、あの飲み物は一体何なのだろう。私だけが異世界からやってきたかのような錯覚を覚え、明る過ぎる人工的な照明を反射させる床に、急に異次元に繋がる穴でも開いて呑み込まれるのではないかと勘繰った。隣にいる月夜さんのお陰で、その正気は何とか保てているのだが。


「あれ、何が太宰治っぽい」

横切った女子高生の高い声が耳に届く。やはり世の中ではこの格好はどうも浮くらしい。私は私の事を言われるよりも、傍で歩いている月夜さんが恥を覚えまいかと心配した。しかし、そんな私の心情を跳ね除けるかのように、月夜さんは私の服の裾を引っ張ってエスカレーターの方へと誘導した。

異世界から、月夜さんの世界へと引きずり込まれた。それはとても優しく安心感を覚えるものだった。私は段差の一つ上にいる月夜さんの耳や髪といった細部を眺めていた。それから裾を握る指の小ささや、爪の形を。爪の形は深爪くらいに切りそろえてあり、ところどころささくれがあった。それに髪は艶があるというよりは、少しだけ乱れている。どれも懸命に生活をしている女性の形だった。

(それにしても、パンの奴は大丈夫だろうか)

私は目の前の光景を眺めながら、何の意識もせずにあいつの事を考えていた。


二階に上がると、雑貨屋やファッションといった類の店が隙間なく埋まっている。エスカレーター横の、シンプルな服屋へと月夜さんは足を向けた。深緑の看板に、白の筆記体で

『Gideon Mart』と書かれていた。世のファッションというものには疎い私は、何を選べばいいのか皆目見当がつかなかった。マネキンに飾られている服はやけにお洒落で、あの頭身だから似合うのではないかと思わざるを得ない。それに、店に貼られているポスターはどれもすらりとした外国人ばかりで参考にならない。子供の頃祖母に連れて行って貰った事のある、商店街のブティックの方が私には馴染み深く思えた。

月夜さんは慣れた様子で店内を歩き進んでいくと、目に入った洋服を一着手にとってみせた。業界では何色と呼ぶかは知らないが、一般的に言えば、それは紺色のYシャツであった。

「この黒いシャツとか、良さそうじゃないですか?」

どうやら月夜さんにとっては、黒と呼ぶらしい。私は正直な所、着られるのなら何でも良かったので適当にうんうん頷いていると、月夜さんは眉をきつく上げながら「駄目ですよ、そんな適当じゃ。大事なデートなんですから」と言った。

「は、はい」

その気合に押されて、縮こまってそう返事だけをすると、月夜さんはマイペースに店内を見渡し、今度は印象の違う赤色のTシャツを手に取った。少し攻めた選択だと思いながらも、月夜さんはそれを抱えながら一人納得するように頷いている。それから茶色のチノパンを選んで、私は流されるようにそれらを購入した。驚いた事にそれらの服は全額で一万以上はした。普段、買い物や贅沢をしない私にとっては払える金額ではあったが、これは驚くべき値段ではないだろうか。いや、世の中には無駄というものに最も価値があるのだ。無駄というものは、手軽に自分を自由にしてくれる代物だからである。


私にとっては無駄な代物だった。しかし紙袋の持ち手を持つ手指に込めた力は、まるで壊れ物のように、もっと言えば宝物のように扱った。それは他の誰でもなく、月夜さんが選んでくれたものだったからだ。


 私と月夜さんは、買い物を済ませて店を出ようとした。パンがお腹を空かせていないか、私は心配だった。一階へ降りると、食品類の店が立ち並ぶ中、焼きたてパンという文字に思わず視線が向かう。何を思ったか、私はそのまま出口へ向かわず踵を返した。

「え、アサヒ先生?どうしたんですか?」

「ちょっと、行きたい店があって」

「行きたい店?いいですよ。見ましょうか」

私は先程エレベーターへ向かう時に目に入ったペットショップへと足を向けた。月夜さんは声を明るくして言った。

「ああ!パンちゃんにお土産ですね」

「はあ……まあ。けど、猫が喜ぶものなんて、私には分からないから」


ペットショップの店頭には、ガラスケージに入れられている小さな犬猫達が商品として展示されていた。何だか複雑な心持ちになりながらも、本能的に可愛いと感じてしまうのは人間の業の深さなのであろう。

「可愛いですね」月夜さんは目を細めて言った。

「私には可哀想に見えるのだが……」

「あの子達にとってはあそこがまだ胎盤の中で、これから先の幸せな出会いのチャンスなんじゃないですか?って人間の身勝手な解釈ですかね」


月夜さんは、私と比べていつも前向きだった。想像の矛先というのは百人いれば百通りあるものなのだろう。私は今まで自分一人の想像の世界に居た。丁度あの犬猫のように、随分狭いケージの中で想像を尽くした。ケージの外へ出た時、あの犬猫の未来はようやく開けるのだろう。そうなった時、私は月夜さんの意見に頷きたくなった。それは同時に無責任な願いではあるのだろうが。


 私は思考を止め、それに背を向けて、ペット用品のコーナーへと移った。棚の上には多彩な玩具や餌などが販売されている。

猫用の玩具や寝床なら、花谷さんが最初のうちに多数用意した為に、家にいくつかある。とは言え、大体パンは興味を示さずに何かと私の仕事場や書斎に会いに来て、過去の思想の宝とも言える文学達に興味を示すものだから、どれも新品同様だった。

 いっそ、猫のものではなく、昔の劇作家のような丸眼鏡を買ってやったらどうだろう。とは言え、猫用の眼鏡など売っているはずもないし、第一あの耳にどう引っ掛かるのかが問題であった。下らない一案は頭の中で直ぐに却下を下した。

「パンちゃんが好きなものとかありますか?好物とか」

月夜さんの質問に、私は難しい顔をして思い起こしてみた。

「そういえば、あいつ。私の魚をよく奪うんです」

「魚ですか?」

私は頷いて「猫に人間のものを与えるのは余り良くないから、花谷さんが今は注意しているが、どうも奴は魚が好きらしい」

「猫に魚。納得のいく組み合わせですね。魚なら、焼きカツオのおやつなんてどうですか?」

「そんなものがあるんですか」

「猫はカツオが大好きだから」

月夜さんはそう言いながら、どこか思い出の陰りが瞳に滲んだ。

「月夜さんは、昔猫を飼っていたんですか?」

「え?ああはい。子供の頃ですけどね。とっても可愛がっていた猫がいて。寿命で死んじゃったんですけど、でも凄く懐いて可愛かったんですよ」

月夜さんは鞄の中から、携帯を出して私に写真を見せてくれた。種類は分からないが、あどけなく真丸な目が特徴的な灰猫が映っていた。私はその写真を見て思った。

(猫にも幸せな表情というものがあるものだ。きっとこの猫は月夜さんに愛されて最後の瞬間まで幸せだったに違いない)

月夜さんは携帯をしまった。

「女の子で、名前はミクって言うんです」

「へえ、可愛がっていたんですね」

「もう、メロメロでした。あ、今はパンちゃんの事でしたね。それで、ミクがこのカツオのおやつを見ると真っ先に飛びついてきて、だからパンちゃんもきっとハマる事間違いなしだと思います」

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