第7話 パンのスパルタ特訓

「あらま!旭田先生、いやだ、それは私のお仕事です」

私は立ち止まって、既に若干行きを切らしながら花谷さんの顔を見上げた。

「いや、いいんだ。たまには運動不足を解消しないとと思っていてね」

私の言葉を聞いて、花谷さんは鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をした。

「いえ、そんな困ります。私がやっておきますから、先生はお休み為さって下さい」

「ほら、これも小説のネタ作りの一貫なのだから。いいからここは私に任せなさい」

「それじゃあ……すみません、先生ありがとうございます」

花谷さんは深くお辞儀をして、戻っていった。それでもどこか思い残す事のあるように、ちらちらと私の方を途中何回か振り返りながらだった。それに比べて、パンの奴は端っこの方で体をまるまるとさせながら寛いでいる。私はその様を見て無性に腹が立って言ってやった。

「おい、少しは猫の手を貸せ」

「手伝ったら意味がないにゃ。これはアサヒ自分一人の手でやり終えるにゃ」

「もう十分綺麗になっただろう」

すると、パンは欠伸をひとつ漏らして身体を伸ばすと、私の方へ悠々近づき床へ鼻を擦りつける程の距離で見つめてから言った。

「まだまだにゃ。埃がまだついているにゃ」

「そんな所、一体誰が見るっていうんだ」

「猫が見るにゃ」

「見るだけじゃなくてその猫の手を貸して貰えないか」

「アサヒの目は節穴かにゃ?吾輩は今、大事な昼寝という日課をこなしている所にゃ。これは猫にとって大事な大事な仕事なのにゃ」

と、鼻につく言い方でパンは猫らしい仕草で前足をぺろぺろと舐めている。

「こんな下らない事に付き合っているのは馬鹿馬鹿しい」

私はその場に胡座をかいて、頭を垂れて怠惰を露わにした。パンはその太股へ断りもなく乗って、あろう事か私の顔に猫パンチをお見舞した。

「アサヒ立つにゃ!しっかりするにゃ!」

「いたっ、いたっ!よせ、止めろ。私はもう歳なんだ。そりゃあ猫の身体能力ならこんなのは朝飯前だろうが、こちとら人間うん十年やっているとそこら中ガタがくるんだよ」

「だらしがないにゃあ。月夜ちゃんに好かれたくないのにゃ?」

全くこの猫は、相変わらず悪魔だ。私の微細な心情を巧みに操作してこようとする。そして私はその猫の企みにまんまと乗ってしまうのだ。前まではこんなに単純な人間ではなかったはずなのに。

「お前、ずるいな」

私はパンを恨めしそうに見て、もうひと踏ん張り頑張ってやろうと、ほぼ内底の負けん気を奮い起こして、雑巾に手をかけた。私が四つん這いの状態で構えると、パンはその背中に乗って指導をした。

「ふれーふれー、アサヒ」

私は小馬鹿にされているような気持ちで、悔しさいっぱいに表情を歪めた。

(いつか覚えてろよ)

それでも月夜さんの笑顔を思い浮かべて何とか最後までやり切った。足腰が痛く、息が持たず私はその場にへたった。

「はは、どうだ。やりきったぞ。ざまあみろ」

私は誰かに向けて勝ち誇った笑顔を浮かべた。

「よしよし、やれば出来るにゃ。汗をかいたらシャワーを浴びるにゃ。きっと気持ちいいにゃ」


パンのスパルタ特訓その2、自分を磨く事は自分への最大のご褒美。自分の体を清潔に保つ事。

まず私はパンの言う通り、洗面台で歯を磨き、顔を洗った。それから何日か……いや、何週間ぶりかのシャワーを浴びた。疲れきって、塩分の抜けた体に鋭く当たる水滴の群れは、心身の淀みを全て洗い落としてくれるかのような、心地よい爽快感を与えてくれた。

私はたまたま、水に濡れた自分の茂みへ目をやった。それを見ると、昔の哀れな自分と、同級生達の笑い声が蘇ってくる。ああそうか、それで分かった。私がシャワーを浴びるのが嫌で堪らないのは怠惰からではなかった。いっそそこも剃り落としてしまおうか。などと思い至ったが、それもまた彼らに屈したようで何だか口惜しい。結局私は見ない振りをして、浴室を出た。


さっぱりした後に着る着物は、いつものように馴れ馴れしく張り付いてこない。体にゆとりが出来たとでも言えばいいのだろうか。とにかく乾ききった産毛が空気を避けるようで、清々しかった。

「さっぱりしたにゃ?」

「ああ。少しはな」

「それじゃあ、次はもっとさっぱりしに行くにゃ」

「どこに行くんだ?」

「美容院にゃ」

「美容院?」

私は聞き馴染みのない単語に復唱して、ついでに眉間に皺を固めた。恐らく私のような人間は、美容院という単語がどうにも受け付けられないのである。何もしていないのに檻に入れられ、見世物として晒される気分だ。私は反射的に拒否をした。

「嫌だ」

「行くにゃ」

「嫌だ」

「いいから行くにゃ」

「嫌だったら嫌だ。お前がついてきてくれるなら考えてやる」

この際、自尊心とやらはどうでもいい。私は子供のように駄々を捏ねた。

「吾輩は猫である。美容院なんて場所に行ったら、やれ不衛生だとか言われて苦情の種になるに決まっているにゃ」


私は心底嫌で堪らなかった。パンが行かなければ私も絶対に行かないと、頑なに両腕を結んでそっぽを向いた。するとパンが溜息を吐いた。猫にも溜息というものが吐けるのか、と今は感心している場合ではない。

「吾輩が昔、この辺の商店街を散歩した時に、確か猫のいる美容院を見た事があるにゃ」

「美容院に猫が居るのか?」

「吾輩が扉の前を通った時に、そこのお店の人が吾輩におやつをくれたにゃ。あれは何とも甘くてそれでいて香ばしくて――。話を戻すにゃ。とにかく、その時お店の人が言っていた話にゃ、うちにも猫がいると言っていたにゃ。それで吾輩は窓の方へと視線を移してみたにゃ。すると、確かに灰色の猫が吾輩の方をじいっと見ていたのにゃ」

「だが、猫を連れて行っていい店かは分からないだろう」

「行くだけ行ってみるにゃ。失敗したって、今日世界が破滅する訳じゃないにゃ」

パンは私に尻を向けて、長い尻尾をゆらゆら揺らしながら、前足を一歩前に出した。私は覚悟を決めて、その美容室へ行く事にした。だが、美容室へ行くのは人生で初めてだ。その為、緊張でどうも体が冷たくなってしまった。胸が圧迫された感じがして、どうにも行きたくなかった。まず、外へ出る事さえ億劫で仕方が無い。しかし、先刻の掃除と身体の洗浄によって、それも幾分か救われてはいた。

だから私は財布だけを部屋に取りに行き、懐に仕舞い、パンの誘導に添って外へ出かけた。


外に出るや否や、既に夏の湿気った空気が周囲を纏っていた。押し迫るような気候に馴染めず眉をひそめた。どうやら私だけ置いてけぼりのようらしい。敷石に落ちた、アカマツの陰を踏んで歩くパンの後を続いた。そこら中に虫に食われた葉が何枚か落ちているのを見て、安心した。ああ、夏の情緒とやらに屈してしまったのは私だけではなかったようだ。まだ蝉は鳴いていない。それもまた私を安心させた。


門を出るのが一番の難関だった。何故ならあそこには、暇を持て余しているご近所の主婦がたむろしているからだ。私はどうにも人の噂というものが、それが自分に対してのものではなくても、苦手であった。その癖昔から耳だけはいいのである。どんなに騒がしい場であっても、決まって悪口や噂話は流れるように耳へと入ってくる。もしかしなくとも、それを塞ぐ為に本を読むのかもしれない。本を読んでいる間は本当に何の音も聞こえずに済むのだから。


しかし、今まさか本を読みながら門を出る訳にも行くまい。おかしな話だが、私は離れて歩くパンの、尻を見て安静を保った。猫や獣といった類は、あんなにも自然な格好で、私だったら恥ずかしくて出来もしないような格好で、悠々自適に歩いている。それを見ると、何だか莫迦莫迦しく思え、ついでによく分からないがおかしかった。


パンのお陰で私は門を無事に出る事が出来た。家の通りの前に、やはり主婦二人がそこに居た。そうして、私の方へ視線を向けられたと思えば、これもやっぱり噂話をしはじめた。私は本を読む時と同じように、パンの尻に集中をした。意外にも簡単に、耳を塞ぐ事が出来た事に驚いた。私は少し誇らしくなって、いつもより胸を張って歩いた。


さて、パンの目指す場所についていくと、そこは商店街だった。この日は平日だったから、人もそんなに居なかった。魚屋の店主も、コロッケ屋のおばさんも皆が皆、やる気を起こさずずっと静かだった。私が居ないように扱ってくれると思うと返って居心地が良く、これがまさに平穏だと思った。パンにそれを言ったらネガティヴと称されるのだろう。

程なくして、パンの話していた美容室らしき店が見えてきた。一見ただの美容室だが、一目で例の店だと分かった。何故なら、パンの言う通り本当に灰色の猫が窓をじっと眺めているからである。しかもその猫は私が想像していたのとは随分容姿が違って、目つきは悪いし、でっぷりと太っていた。


私は店の前で立ち止まり、深呼吸をしてからパンを見た。パンも同じく頭を上げて私を見詰めた。

「吾輩がついてるから大丈夫にゃ」

私はパンの言葉を胸に刻み、伽羅色のアンティーク調の扉のドアノブを固く掴んで、店のベルを鳴らした。その途端、私の体は硬直してその場から動けなくなってしまった。

しかし、店の奥からその様子に気づいた若い女性の店員が、私に近寄って営業マニュアル通りの笑顔を携えた。

「いらっしゃいませ。ご予約はされていますか?」

「あ、いや.......」

私は分かりやすく挙動不審に瞳を左右へ放った。

「それではこちらへ.......あら?この猫ちゃん」

と、店員がパンに目線をやった。私は助かったと言わんばかりに、都合のいい言葉を連ねた。

「あの、実はその猫、私が飼っている猫でして」

「え、そうだったんですか?前にもこの店の前に来てくれたんですよ」

店員の笑顔がさっきよりも、自然なものに変わったのが分かった。

「それでは席の方に案内致しますね」

「あ、あの。猫は、外で待っていた方がいいですよね」

「いえ、大丈夫ですよ。うちも猫を飼っていますし。外は暑いだろうから店内に居て大丈夫です。他のお客さんも今はまだ居ませんので」

「はあ……」

私はほっと胸を撫で下ろして、店員の誘導のままに席に座った。天井からぶら下がる照明は暖かい光をぼんやりと放っており、壁際には観葉植物が飾られ、木調の床にバランスが良かった。もっと気取った場所を想像していた為、肩の力が抜けた。何よりパンが傍に居てくれるのは安心だ。

首に白い布が巻かれ、体ごと覆われた。まるで実験体か何かのようだ。パンは隣の椅子に乗って、鏡の自分をじっと見つめていた。

後ろから店員がやってきて、声をかけてきた。


「今日はどんな感じにしますか?」

「えっ?」

曖昧な質問に、私はどう答えるべきが迷ってしばらく沈黙が生まれた。

「もし何もないようでしたら整える感じにしますね」

「じゃあそれで.......あっ」

「あ、何か考えつきました?」

「芥川龍之介風にして下さい」

「芥川龍之介?あの、小説家ですよね。ちょっと待って下さい。どんな髪型だったっけな」

店員はエプロンのポケットからスマートフォンを手にして、何やら調べているみたいだった。それで「あっ!」と声をあげたかと思えば、画面をこっちに見せてきた。恐らく一番有名であろう一枚の白黒写真があった。

「この人ですよね」

「はい」

「分かりました!近づくように頑張ってみますね」

そうして店員は私の髪を一束そっと取って、施術を始めた。そういえば、さっきから何だかいい匂いがする。そう、これはきっと花の香りだ。恐らくアロマというものだろう。私は段々と心身がリラックスをし、眠たくなってきた。


私は普段から思考がとっちらかって、今日も施術を受けている間、窓際の猫の事を考えた。あの灰色の太った猫は、何となく老猫のような印象を受けた。

もしかしてパン以外の猫の言葉も分かるのか?と、一瞬考えたが、太った猫は今の所にゃぁともすんとも言わず、人間の言葉はおろか猫の言葉でさえ喋らなかった。それどころか、あそこの窓際から置物のように一向に動かない。私は瞼を閉じて、段々と思考の渦に飲み込まれていった。


暗闇が私を抱き込み、心地よく浮遊している。この世から視覚と聴覚が消え、私は真の私になる。心の声だけが永遠とさまよう世界。他者とは隔離された本来の自由。だがそこには確かな孤独も存在するのだが、他者がいない孤独はかえって私には居心地のいいものでしかなかった。


だが、暗闇の渦の中には時々記憶が混ざっている。あれは父親の姿だ。私に向かって怒りを露にしている父親。

「お前は本当にダメな奴だ。何でお前みたいな息子が生まれてしまったんだ」

私は再び闇でそれを閉ざそうとする。あるいは他の思考を試してみるが、一度姿を現すと父はなかなか消えてくれないのだった。

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