第6話 アサヒのコンプレックス 2

「そうなんだ。猫、可愛いのに。でも、そういう人もいるもんね。触らせてくれてありがとう」

日向優里は立ち上がって、私の方へと近づいた。

「昔から苦手で……、理由は分からないけど」

「ふーん。私にも、怖いものあるよ」

「何?日向さんの怖いものって」

「ふふ、それはね。教えない」

唇の前に人差し指を添えながら悪戯っ子のように笑って私を追い越すと、彼女は坂道の前で髪を揺らしながら振り向いた。

「あのね、私。――くんの事が、好き」

「え?」

交差する蝉の鳴き声が、私の心音で掻き消された。私と日向優里は、暫くの間何も言わずに見つめあった。そうして、日向優里は少し俯いた後に、いつものような笑顔を浮かべた。

「あ、私こっちなの。また明日学校でね。それじゃあばいばい!」

手を振って坂道を下っていく。長い黒髪を私はいつまでも目で追った。先程の言葉が頭に響いてずっと離れない。景色の中に一人取り残されている今が、何とも心地よく感じられた。


あの時ばかりは、蝉の合唱もそれ程耳障りではなかった。私はきっと彼女に恋をしてしまったのだろう。こんな気持ちは生まれて初めてだった。私の歩く道だけが、春の陽気に包まれているようだった。

そして、そんな青い感情を胸の奥にしまったまま、私と日向優里は何事もなく学校生活を送った。少し変わった事といえば、私にとっての景色や世界が、日向優里になったという事。私は何度も彼女の横顔に視線を奪われた。白い光が肌を滑って産毛が浮き出ている様が、とても綺麗だった。彼女は私の方を時折向いて、目が合うと緩く手を振ってくれた。白昼夢を見ているように、その時間が何よりも幸せだった。


そして青い感情を胸の奥にしまったまま月日が経ち、私の人生で最も忘れられない日がやってきた。放課後の帰りに靴箱を開いた時、はらりと薄く白い紙が足元に落ちてきた。それを拾い上げてみると、それは何も書かれていない白い封筒だった。私はシールも貼られていない封筒を開いて中の手紙を読んだ。


――くんへ。放課後、この手紙を読んだらすぐに屋上まで来て下さい。話したい事があります。

ひなた


手紙を読んで、私は心は単純にはしゃいでいた。既に頭の名は、日向優里の事でいっぱいになり、屋上で待っている彼女の姿を思い浮かべると、直ぐに向かわずには居られなかった。階段を踊るように一段飛ばしてかけ昇る。長方形の扉についた窓が、暮れかけた太陽を吸い込んで私を出迎えた。辿り着くと、一度立ち止まって深呼吸をしてから、ドアノブを掴んだ。伺うように開いたドアの隙間から日向優里が佇んでいるのを見て、顔がつい綻んだ。屋上に足を踏み入れる私に気がついて、日向優里は笑顔で手を振った。

「あ!あの、話があるって手紙に書いてあったから」

と、彼女は言った。私は一瞬硬直した。すると、日向優里は私の前に、白い封筒を差し出してきた。それは私が貰ったものと全く同じものだった。

嫌な予感が巡る間もなく、後ろから拍手が聞こえてきて、振り返った。塔屋の横から、にやけ顔を浮かべた西島達がやって来たのだ。


「ひゅーひゅー、ちん毛がこれから告白するぞー」

「早く告白しろよ。あいつの事が好きなんだろ?」

西島達は、三人で私の周りを囲んだ。私は縮こまって、何も話せなくなった。

「あなた達。これ、あなた達の仕業なの?」

「は?だったら何だって言うんだよ。俺達はこいつの告白を手伝おうとしただけだぜ。俺達は友達だもんな?」

と、西島は私の頭を抑え込んで、調子よく言った。

「やめなよ!」

日向優里が止めようとすると、西島は不機嫌そうに眉を寄せて、

「そんなにこいつの事が好きなのかよ!」と叫んだ。

「あなたみたいな人が嫌いなだけ」

日向優里がそう言うと、西島はとうとうキレたのか、勢いよく地面を踏んで日向優里に向かっていった。日向優里は怯えた顔をしていた。その顔を見て、私は小さく震えるような声で言った。

「や、やめろ……日向さんに迷惑をかけるな」

西島は立ち止まって、私の方を見た。

「はあ?今何か言ったか?聞こえなかったな」

私は唇を強く噛み締め、両方の指に力を込めて拳を握った。しかしそれ以上は何も言えなかった。西島は私の髪を掴むと、耳元に唇を寄せて大声を放った。

「おい!早く言えや。言ったらすぐ帰してやっから!」

そうして西島達は楽しげに手拍子を始めた。

「言ーえ!言ーえ!」

頭の中で、世界がぐるぐると回る。早くこの暗闇から抜け出したかった私は、彼女の顔を見て口を開いた。

「ぼ、僕は日向さんの事が」

三人はにやにやと私を見ている。日向優里は心配げな顔をして、私の言葉を待っていた。私は勢いに任せ、喉をぐっと絞る。

「僕は日向さんの事が好――」

途端に、ばしゃりと爆発的な冷たさが頭上に降り掛かった。目の前は黒い暖簾に覆われて、視界がフロストガラスのようにぼやけた。昔子供の頃に遊びに行った事がある、従姉妹の部屋の二階にあった小窓を思い出した。ぽたぽたと水滴が、石板の濃くなった灰色に吸い込まれていく。すぐに雄叫びのような笑い声が上がった。


「ちん毛が海に還って昆布になっちまった」

私はとても顔を上げられなかった。傍目に、日向優里が横を駆けて通り去っていくのが分かった。取り残された私の頭の中は、これ以上ない暗闇の中に彼らの醜い笑顔と笑い声が何度も何度も繰り返し輪舞して、止まなかった。


「これが、私のトラウマだ。あの日から私は誰かを好きになる度に、彼らの笑い声がずっと頭の奥で響くんだ」

と、私は続ける。

「人は私を嘲り笑う。父親にさえ駄目人間と言われてきた。唯一優しかった母は、ずっと幼い頃に死んでいる。分かっただろう?私は孤独の宿命なんだ。時々思う。私も猫だったら、少しはまともに生きられたろうか。悩みもなくその辺をふらついて気ままに生きられたのだろうか。明日の事も考えずに、空模様と一緒に生きていく。どうしようもない自分はこれからも、ただどうしようもなく生きていく。そう思うと、いっそ死んでしまいたい」

そう言ううちに、私の目の奥は熱く圧迫された。それを堪えるように目頭に力を加えた。猫の前で、こんな弱みをさらけ出すなど、みっともない。そうして今まで静かだった、パンはようやく声を出した。

「アサヒ」

私は、顔を動かす事が叶わず、そいつの顔を見られずにいた。

「こっちに来るにゃ。吾輩の方に、ほら早く」

「何の必要がある」

「いいから来るにゃ。顔をこっちに寄せて」

「はあ、……分かったよ」

私は溜息をついてから、奴の言う通り正面にしゃがみこんで見せた。すると、猫は手を伸ばしてふわりと私の髪に肉球を乗せた。その優しい感触に、心が解けていく感覚がした。

「今までよく頑張ったにゃ」

そう耳に響くと、硬く石化していた心臓が柔らかく動き出す気がして、ついに堰き止めてていた筋肉が緩み、瞳から大粒の涙が垂れた。そうすると、次々に我も我もと感情が忙しく涙が零れ落ちて、もう収まりがつかなくなった。

「何、猫の癖に気を遣ってるんだ。私は平気だ。今日の今日まで何一つ辛くない」

私は言いながら鼻を啜り、着物の袖口で不用意に流れる、塩辛い雫を拭き取った。それでもパンは私を撫でるのを止めなかった。

「じゃあその涙は何の涙にゃ」

「ふ、これか?これはお前と居るから。猫アレルギーなんだって言っただろう」

私は自身の自尊心の為に誤魔化した。

「辛い時は辛いって言ってもいいにゃ。それも含めて全部アサヒにゃ。アサヒはアサヒのま

までいい」

「何だよ、お前さっきは変われって言った癖に」

「さっきのアサヒは本当のアサヒかにゃ?本当の自分として生きているならそんなに苦しむ事はないにゃ。アサヒは本当は太陽みたいな人間なのにゃ」

「私が太陽.......」

聞き慣れない言葉にどこか擽ったさを覚える。自分を例えるならば私はこう言うだろう。薄暗く湿った地の底にあるような、何かよく分からない本当に小さな微生物。しかもそれは発見されても何ら役には立たないので、ただ影を這って生きているだけの存在なのだ。そんな私を太陽と表現するこの猫は、一体どんな世界で私を見ているのだろうか。しかし、別段嫌ではなかった。

「どんなに弱くても、不器用でも、人と違っても、上手く生きる必要はにゃい。そんなアサヒのダサい所を見ても傍に居てくれる人が必ず現れるにゃ。だから大丈夫にゃ」

猫に優しく語りかけられると、心の縛りはもうほとんど解けきっていた。その為、私はもう溢れ出る涙を耐える事を止めて、めいいっぱいに流してやった。顔をくしゃくしゃにしながら、みっともなく。

「お前、猫の癖にどんだけ人生を語るんだよ」

「猫の人生も侮れないものにゃ」

「私の事を見てくれる人間なんて居るのか」

「まず、目の前に居るにゃ」

パンは自分を指、いや手で指した。

「お前、猫だろ」

私は思わず突っ込んで、小さく吹き出す。

「猫だからいいにゃ。猫の視界は人間よりも色が少ないし、それにぼやけていているけれど吾輩はアサヒよりも視野が広いのにゃ。吾輩は吾輩の見えるものに誇りを持っているにゃ」

そう言って、パンは鼻の頭をつんと上げ、髭を揺らした。まるで有名な学者のように、いつも胸を張って語りかけてくる。

「アサヒ、重要なのは自分が今の自分を好きかどうかにゃ」

「……今の自分、か」

私は再び立ち上がり、洗面台の縁に両手をついて鏡の中を見詰めてみた。予想通り、顔面は酷い泣きっ面で、髪はぼさぼさ、目は真っ赤でとてもいい男とは言えない。けれども、何故か不思議と、先程よりかはそんな自分の姿が嫌と思えなかった。足元でパンは言う。

「アサヒ、愛は自分を愛する事から始まるにゃ。これは、吾輩にとっての人生の先輩からのお言葉にゃ」

「お前の人生の先輩って、一体誰なんだ?」

「それは秘密にゃ」

未だ何の為に、このパンという猫が私の元へ訪れたのかは分からない。だが、私の腐り切って放置していた心には、パンの言葉が深く澄み渡っていった。

(それで、どうする?猫の言葉を信用するのなんて馬鹿馬鹿しい)

私はそう鏡の中の自分に、話しかけた。それからパンの方へ向いて、言った。

「なあパン、恩返ししてくれるんだよな?」

「もちろんにゃ。吾輩が責任をもってアサヒの事を最後までサポートするにゃ!」

こうして、私はこの日からパンの言う事を何もかも聞いてやろうという決意をした。これはほとんど半信半疑で試してやろうという心持ちであった。だが決して自棄(やけ)などを起こした訳では無いと誓う。


そして早速、この日からパンのスパルタ指導が始まった。その1、部屋は精神の現れである。隅々まで掃除をする事。

私は一度も訪れた事のない、掃除用具入れのある物置部屋へと、パンと向かった。扉を開くと中は酷かった。埃っぽくて物と物がごちゃごちゃに不整頓な有様で、とてもではないが部屋の中に足を踏み入れる事は困難であった。幸い、掃除用具入れは扉を開けたすぐ横に設置されてあった。私は暗い部屋の中へ少しばかり前屈みになって手を伸ばした。息を吸うと、鼻と喉の粘膜にダイレクトに塵が飛び込んできて、辛抱たまらず大きなくしゃみを一つ放つ。何とか取手を掴んで用具入れを開いて、中から箒やちりとり、雑巾といった類のものを取り出した。


「はぁ、なんて汚い場所なんだ。それに何故私が掃除をしなくてはならない。話が違うぞ」

などとぶつぶつ愚痴を連ねていると、パンは呆れたように言った。

「アサヒは息を吐くように文句を言うにゃ。つべこべ言わず吾輩の言う通りにするにゃ」

「掃除をしてもどうせ汚れるんだぞ。時間の無駄だ」

「だから毎日掃除をするにゃ。花谷さんは毎日面倒な事をしているのにゃ」

「それは私が報酬を支払っているからだろう」

「口を動かす体力があるなら、手と足を動かすにゃ」

私は悔しさから言い負かしたい衝動に駆られたが、唇を結んで我慢をした。パンは私よりも先にさっさと歩いていってしまった。私はうんざりとした調子で後をついていった。


深く渋みのある広葉樹の木床へ、雑巾をかけるべく私は四つん這いになった。雑巾をかけるなど中坊以来では無いだろうか。広く真っ直ぐに続く廊下は、汚れなどなく本当に時間の無駄だと私は思うのだが、傍で見ているパンを一瞥すると、猫の手でくいっくいっと促してくる為、仕方なく片足の爪先に力を加えて踏み出した。前に体重をかけて一気に押し進む。床が大人の重量で軋んで、騒がしかった。その音を聞いて、駆けつけてきたのだろう。花谷さんが、私の愚行を見つけて急いで近づいてきた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る