第5話 アサヒのコンプレックス
とある朝に私は珍しく早起きをして鏡の中の自分の顔を眺めた。
(天然パーマに無精髭、不細工、三十代後半、おまけに足が短い。それに比べてあの子は、優しくて美人、私よりも歳は若いし、こんな私に気を遣ってくれる)
私の脳内で彼女は微笑んだ。辺りは春の陽気に満ちていて一面の花と水色の空が清々しい。だがその編集されたかのように綺麗過ぎる想像が一層、私を卑屈にしてくれるのだ。洗面台のへりに両手をついて、溜息をついた。どう足掻いても、私と彼女は不釣り合いだと。
その溜息を盗み聞きして、奴は心配そうに声をかけてきた。
「どうしたにゃ?アサヒ。浮かない顔をして」
「ああ、何だお前か。別に何でもない」
「悩み事なら吾輩に相談するにゃあ。ほれほれ、遠慮する事ないにゃ」
奴は猫の手で私の脛を突っついた。私は思わず足を上げた。
「触るなって!こら。ったく、いちいち私の行動を監視するな」
「目に入るのにゃ。猫はこう見えて観察力と洞察力が鋭いのにゃ」
「お前は猫じゃないだろう」
「猫にゃ!」
「まあいい。何でも構わん。猫に私の気持ちなんて分からないだろう」
「アサヒの気持ちなんて分かる訳がないにゃ。そう、吾輩は猫である。にゃから人間の気持ちなんて到底分かりっこないのにゃ」
と、随分強気に言い放ちながらそいつは鼻を鳴らした。
「なら私に構うな。放っておけ」
私は洗面台を出ようとした。だが足元を塞ぐように奴はうろちょろして邪魔をする。私は踏み場を探るように右足を右往左往させるが、奴もそれに合わせて動くので、結局定位置に足を戻す羽目になった。
「嫌にゃ。恩を返すまでは放っておく事は出来ないにゃ」
「しつこい奴だなあ」
「アサヒも相当頑固にゃ。いいから騙されたと思って一回お試し相談でもしてみるにゃ」
私は項垂れて、どうやったら奴をここから追い払う事が出来るかを考えた。だが何も浮かんでは来なかった。仕方なく、猫相手に下らない苦艱を打ち明ける事にした。
「悩みと言うよりも、これは染み付いているとのだから今更どうという事も出来ない。第一私は好かれる人間では無いのだ。これは生まれながらにしてそうなのだから、もうどうしようもない」
「アサヒは、自分の事が好きじゃないのにゃ?」
そう問われて、内心どきりと突き刺さったが、私は極々平静に言葉を紡いだ。
「人間、自分の事を本当に好きになれる奴なんてそうそういない。自分を好きと謳う人間ですら、心の奥深い所ではコンプレックスや闇を抱えてるんだ」
「アサヒにもあるのかにゃ?コンプレックス」
「ああもう、五月蝿い。質問ばっかりするな」
私はぶっきらぼうに言い返した。それでも奴は構わずに話を続ける。
「コンプレックスがあるから、あの子に自分の気持ちを伝えるのを諦めるのにゃ」
私は何も言えなかった。ただじっと、どこでもない空間を見詰めていると、肺から黒い靄が競りあがる気がして、喉が詰まるような感覚を覚え、非常に嫌な気分に襲われる。私は喉から絞り出すように言葉を放った。実際、いつものように無視をしていれば済む話だったが、何故だか私はそうしなかった。多分相手が猫だったからに違いない。
「いい歳こいて、ちゃんとした職にもついてないようなおっさんにアプローチされても彼女が困るだけだ。それに、こんなちりちりの髪の毛で、無精髭で、不格好な男に迫られたら、彼女だって嫌がる」
「そんな事ないにゃ。アサヒは十分いい男にゃ。ただちょっと汚くてネガティブで、ひねくれてるだけで」
「ナチュラルに悪口を言うな。作家は汚くったって問題は無いんだよ。作家の顔なんて知りたがる奴は居ないんだから」
すると奴は私の足元へ鼻先を寄せてすんすんと匂いを嗅いだ。
「アサヒは野良猫よりも酷いにゃ」
「何だと?失礼だぞ」
「ちゃんと風呂には入ってるかにゃ?」
「勿論入ってる!最後に入ったのはそうだな……」
私は指折りを数えた。しかしなかなかに思い出す事が困難で、言い渋った。
「一刻も早く風呂に入るにゃ。身体を洗えば気持ちも変わるにゃ」
「風呂に入っただけで芸能人並に格好よくなれたら苦労はしない。例え磨いたとしても二枚目にはならん。時間の無駄だ」
「自分を過小評価しすぎにゃ。勿体ない事をしているにゃ」
「はっ、猫にお世辞を言われるなんてお終いだ。なら聞かせてくれ。その有難いお言葉を。今まで女性に、というか他人に好かれた事もない私にどう希望を持てと言うんだ」
今まで幾度か自分にも縁というのが訪れた事もあった。愛というものに溺れてみようと、女性と付き合った事もある。だが数日もしないうちに、私という性格に愛想を尽かして去っていく。段々と向こうから好かれる事にも、何か正体の知れぬものを食わされているような不安感がつきまとい、結局私から去る。私には元来、人付き合いなどが向いていないのだ。貴方には孤独が似合うと、何度言われた事だろう。
私は段々と言い合いするのが莫迦らしくなってきて、早くこの話題を終わらせたい一心で息を巻いて言った。
「吾輩に任せるにゃ」
猫は、たったその一言だけ告げて、猫の手を軽く挙げた。
「吾輩の言う事を聞いて、これから毎日を過ごせば間違いないにゃ。大事なのは自分に自信を持つ事なのにゃ」
そんなの猫に言われなくても分かっている。そう言おうとしたが私は先程の弁で疲れきって、「私には無理だ」と小さく呟いた。
「アサヒは何をそんなに怖がっているのにゃ?吾輩に言ってみるにゃ。猫に話した所で、誰にも話していないのと同じ事にゃ」
私はとうとう、その場に座り込んだ。そして、両手を軸に楽な体勢をとると諦めた風に猫の顔を見た。
「全く、お前は――。昔の事だ。だから心はとうに痛まない。だがそこにずっとあるように、私にいつも存在を知らせてくる。学生の頃、私は同級生からいじめにあっていた。よくある子供じみた悪戯だよ」
「どんなイタズラにゃ?」
「変なあだ名を付けられたり」
「あだ名。なんてあだ名を付けられたのにゃ?」
私は一瞬口ごもった。いくら相手が猫とは言え、言いづらい。それでも幾分かの羞恥心と屈辱を飲み込み、小さく言葉にした。
「……ちん毛」
しかし、それを聞いて奴は笑わなかった。それどころかきょとんとして、私の顔を見つめるままだった。
「その単語は初めて聞いたにゃ」
そういえば猫はそこら中全部毛で覆われているのだった。私は「人間はここの所に」と、股間の部分を指差して説明をしようとしたが、止めた。
「とにかくあの時の事は思い出したくない。あれは夏の日差しが酷く校舎を照りつける。そんな日だった」
どこまでも広い青さが続く空に、浮かんだ雲と雲の隙間から、白い太陽が爛々と下界を覗き込んでいる。猛夏を謳歌するかの如く、蝉は幹に止まって互いに短い命を叫んでいた。
そんな様子を一望出来る、一番後ろの窓際の特等席が私の席であった。退屈な授業を乗り切る為に、私はいつも外の景色を見て妄想をするのだった。
丁度昼食を食べ終えた時分、私は愛読書である太宰治の人間失格を読んでいた。この本はもう幾度となく読んだ。おかげで本の表紙は指の摩擦で一部擦り切れていた。私の父は金持ちだったが新しい本を買おうという気にはならなかった。何故だかこの本が気に入っていたのだ。
友達のいない私にとって、文学が唯一の友達であった。文を追うごとに、他人の人生に足を踏み入り、まるで私はここに居ない、誰でもないただの容れ物になって、とうの私はその時代の生活に潜り込んでいるのだ。だから、本を読んでいる時はなかなか他人の話が耳に入らない事が多い。そんな中、同級生の一人である西島と、西島にくっつき虫の田中と安藤が私の机の側にやって来た。西島は生徒からも先生からも評判の悪い男だった。いつも大人しくクラスのはみ出し者だった私は、西島達に目をつけられた。
「おい!ちん毛!何読んでるんだよ。俺にも見せてくれよ」
西島の大きくよく通る声は、集中している私の耳にも届いたが、無視をした。すると西島は私の本を取り上げて上に持ちあげた。私は思わず「あっ」と声をあげた。
「人間失格?……ふーん」
と、西島は頁をぺらぺらと捲り始めた。私は小さな声で反抗をした。
「か、返して」
「は?何だって?聞こえねえなあ」
意地の悪いにやつきを浮かべて、西島は言った。奴はクラスの中でもだんとつで体格が良かった。威圧感に、私は完全に萎縮して情けなく肩を縮めた。そんな私を見て西島は更に調子に乗って、クラスの皆に聞こえる位の大きな声で叫んだ。
「おーい、ちん毛が人間失格を読んでるぞ」
クラスメイト達は一気に私に注目をした。クスクスと笑う声や、莫迦にするような声が湧いて聞こえてきた。私は身を縮こまらせてどこかへ消え去りたかった。田中は楽しげに「ちん毛!ちん毛!」と手拍子をしていた。
私はそれでも、本を返して貰おうと西島に手を伸ばした。
「頼むから返して」
「ちん毛なのに人間様に逆らうのかよ」
西島は私のシャツの胸ぐらを掴んだ。しかし私は腹立たしさと悔しさでいっぱいな感情を表情に浮かべた。それに気づいた西島は不機嫌に眉を寄せた。
「何だよその顔は。何か文句あるのか?気に食わねえな。そうだ。いい事を思いついた」
と、西島はまた気味の悪いにやにや顔をした。
「ここでズボンを脱いで本物のちん毛を見せてみろよ」
「お、それ楽しそうじゃん」と、田中と安藤も頷く。私は早くこの時間が終わってくれないかと心で祈った。
「ほら早くしろ。この本破れちまうぞ」
西島は私の本を広げて見せると、表紙の端っこを小さく指で裂いた。
「やめろって!」
私は声を大にして言った。西島から全力で本を奪い返そうと立ち上がった。だが圧倒的な体格差で呆気なく押し返され、私は無様に床に転げてしまったのだ。西島は優位になって私を見下ろす。
「破られたくないなら言う事聞けや」
何くそ!私はちんこ位見られたって別に構わない気がしていた。それであの本が返ってくるなら、簡単なものだ。ズボンのベルトに手をかけて、チャックを降ろそうとした。本を読む時のように、私はここに居ないのだと妄想をした。ズボンを降ろしかけたその時、クラスメイトの女子の一人が声を上げた。
「やめなよ!」
西島、田中、安藤、そしてざわついていた周囲は一瞬でしん、となった。立ち上がって声を上げた生徒は、このクラスのマドンナである日向優里だった。
「そういうの子供っぽいよ。可哀想じゃない」
「うっせーよ。お前には関係ないだろ」
西島はバツの悪そうな態度で、しかもいつものような強気ではない声で言った。それから西島は本を床に投げ捨て、「行こうぜ」そう言いながら田中と安藤を引き連れて教室を出ていった。
残された私は床に乱雑に投げ出された本へ手を伸ばした。すると上履きの青い爪先が目の前に止まり、顔を上げて見てみると日向優里が優しく、私に向かって微笑んでいた。そうして本を拾いあげ、私に差し出した。
「気にしなくていいから。その本、私も好きなの」
私は本を受け取って、埃を払いながら元の席に戻った。日向優里は何事もなかったかのように自分の席に座って、本を読んでいた。クラスは蝉の声に負けぬ程、また騒がしくなっていたが私は耳に入らなかった。頁を捲り、続きから文を目で追うが、気がつくと私の視線は日向優里に向けられてしまう。読書をしながら他の事を考えるのは、初めての事だった。
*
日向優里は、クラス一の美人だったのに、口数は少なく、親しい友達がいる様子ではなかった。肌は白く、すらりと細く、髪は透き通ったような黒さをもって肩甲骨を過ぎた辺りまで長かった。成績優秀で、スポーツも出来、誰からも悪い噂は聞かなかった。休み時間にはいつも本を読んでいる。ただし、いつも決まって同じ本を読んでいるのだ。
夕暮れの放課後。橙に染まった斜陽は名残惜しそうに窓を覗き込んでいる。クラスメイトはほとんど部活へと繰り出していた。私は帰宅部だった為、鞄に授業中貰ったプリントや予習用の教科書などを詰め込んで、帰り支度をした。その時、隣から声を掛けられた。
「ねぇ、一緒に帰らない?」
顔を上げて見ると、日向優里がにっこりと笑っていた。
私は心臓が驚いて、舌がもつれながら「う、うん。いいよ」と返事をした。
私と日向優里は並んで校舎を出て、帰り道にある土手を歩いた。私は内心、ドキドキと少しの不安感を抱いていた。近くで見る日向優里の肩は華奢で、改めて女の子なのだなと実感した。女のきょうだいのいない私にとっては初めての感覚だ。私は景色などまるで見ていなかった。ただ、目に見えぬ時間が、風と一緒に一刻一刻と過ぎ行くのを何故か感じた。私は風を鷲掴みにして引き止めておきたかった。
「家、この辺なの?」日向優里は聞いた。
「うん、君も?」
「うん。私もこの近く。この辺って、なーんも無いよね。過ごしやすいけど」
「確かに。……あのさ」
「ん?」
「夏目漱石好きなの?」
私の問いかけに、日向優里は一瞬黙ってから「あー」と声を出した。
「どうしてそんな事聞くの?」
「その、前に読んでいたのを見たから」
私がそう言うと、日向優里はまた間を空けてから言った。
「……好きだよ。特に、あの、吾輩は猫である!」
「僕もその本好きなんだ。芥川龍之介の河童は読んだ事ある?」
「ううん。面白いの?」
「うん。世の中の価値感って、作られたものでしかない。何が普通で、何がおかしいかなんて、そもそも物差しが存在していないから決められないんだ」
「……」
「って、ごめん。熱く語っちゃって。退屈、だよね」
「そんな事ない。今度その本貸してくれる?私も読んでみたいな」
日向優里は、私の目を真っ直ぐ見ながら微笑んだ。私はその笑顔に十分に癒されているのを感じて、頷いた。
「うん、いいよ」
すると、ゴルフ場にしている河川敷の近くで日向優里は急に立ち止まった。不思議そうに私も一緒になって立ち止まると、日向優里は緑が生え茂っている斜面をぼうっと見ていた。
「猫ちゃんがいる」
日向優里は斜面へと大きく歩いていって、茂みに隠れている灰色のシマシマの猫を見つけてしゃがんだ。私は少しだけ離れた所で立っていた。
「可愛いね。野良猫なのかな」
猫はにゃぁと小さく鳴いた。日向優里は猫の頭をゆるゆると撫でて私の方を振り返った。
「触ってみる?」
私は日向優里に好意的に思われたかった為、この返答には数秒惑った。しかし私の体はその場から硬直して動けなかった。
「あ……僕は、大丈夫」
「どうして?ばっちいから?」
「というより、猫があんまり得意じゃなくて」
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