第4話 恋
帰り道の坂道はやけに静かに思えた。私の心臓が爆音を奏でていたからだろう。
「完璧にイカれてしまった」
「何だか嬉しそうにゃ」
奴は私の隣をぴったりとついて歩いている。
「嬉しい?そんな風に見えるか?」
「アサヒ、あの子に惚れたのにゃ」
私は思わず咳払いをした。タイミングよく商店街の活気盛んな商売文句がすぐ横で聞こえてきた。
「何を言ってるんだ。大体お前が私の魚を盗むから…。というか、魚はどこにやった」
「あの魚なら食べたにゃ。アサヒにとられる前に」
「あれは元々私の魚だぞ。もう二度と人の魚を盗んだりするんじゃないぞ。分かったか」
「あの子にまた会うのかにゃ?」
「ナチュラルにシカトをするな。人の話を聞け。さあな、多分もう会わないだろう」
「何でにゃ?会いたいなら会えばいいにゃ。人生の中の一日なんてほんの一瞬に過ぎないにゃ。だから一日くらいアサヒの好きにすればいいのにゃ」
本当にこの猫から出る言葉は、猫らしくないそればかりだ。いや、猫なのかどうかもまだ分からないが。私は言葉を呑み込んだ。沈みがちの瞳でコンクリートを見下ろす。そういえばまだ裸足だったのに今気がついた。汚れた足を見ると、彼女がくれた絆創膏を袖の人形から取り出して眺めた。
「私はもう歳だ。恋をするには臆病な年齢なんだよ。それに私のような人間なら尚更」
「不安なら吾輩もついていくにゃ。思い切り振られるのも人生の一つにゃ」
「振られる前提か」
私は少しばかり吹き出した。
自宅の前に着くと、声の大きなマダム二人が弾丸のように話している。私は存在を消しながらその横を通り過ぎようとしたが、駄目だった。マダム二人に見つかると、急に声を密やかにし始めた。私の噂でもしているのだろう。それも、おおよそ見当がつくような余りいい噂とは違う。
私は直ぐに門を開けて、敷地内を数歩、自宅へと帰った。少し距離が離れた所でもマダム二人の高笑いが聞こえてくる。私は玄関を開いた。すると花谷さんがばたばたと忙しく廊下を走って駆け寄ってきた。
「旭田先生、大丈夫ですか?すみません、私がきちんと見てないばっかりに」
「大丈夫大丈夫。無事に猫も見つけてきたし」
「パンちゃん見つかったんですね、よかった。あれは先生の焼き魚だから、とったらダメよ。パンちゃんのは別に焼きますからね。先生のも、また焼き直しますね」
花谷さんは申し訳なさそうに私を見つめた。しかし私は焼き魚の事など、とうにどうでも良くなっていた。
「いいよいいよ。気にしなくて。私は今胸がいっぱいだから」
私の台詞に、花谷さんが数回瞬きをし、驚いた顔をしていた。私は廊下を歩いて自室へと向かった。猫が後ろからついてくるのも、気にならない。自室の小物箪笥を開いて、彼女から貰った絆創膏をしまった。例え二度と会えなくとも、私はその日久々に、少年時代へ帰った気持ちだった。
*
夢の中で、私は魘されていた。ひどい悪夢を見たからだ。私は何度も首を横に振り、眉間に皺を寄せて呻く。
そこは底無しの暗闇で、私は一人突っ立っている。周りを取り囲むように、何匹もの猫の鳴き声が聞こえてくるのだ。にゃー、にゃー。にゃー、にゃー。私は両耳を塞ぐが、それでも猫は鳴き止まない。にゃー、にゃー。にゃー、にゃー。
すると今度は猫の怪しく光る目がいくつも私を睨んでいる。私はやめろ!と叫ぶが、猫の黄色く光る目は私の周りを乱舞し出すのだ。にゃー、にゃー。アサヒー、アサヒー。猫の騒がしい声は徐々に大きくなり、私は飲み込まれていくようだった。猫の毛に埋もれて息が出来なくなると、助けてくれと心の中で叫んだ。
「アサヒ、お前を吾輩が食ってやるにゃぁ」
私は咄嗟に起き上がった。
「はぁ!!」
汗で前髪が額に張り付いている。私は掌でそれを拭うと、真っ先に自然の光へと視線を向けて頼った。窓から見える庭はぼやけた朝の気配を示すように白かった。名も知れぬ鳥が小さく歌っている。
(何だ夢か)
安心して、私はもう一度目を閉じて、本格的に眠る事にした。
(そうだ。夢に決まっている。猫が喋るなんて事、現実にある訳が無い。あれも全て夢だったのだ)
再び夢の中へ沈もうとして、手を臍の部分へ置こうとした時、生暖かい感触が伝った。それは生物の生暖かさで、私はぞくりと悪寒が走り、恐る恐る手の方へと顔を向けてみた。
「アサヒ、おはようにゃ。いい加減に起きるにゃ。もう朝だにゃ」
嫌な声に、私は勢いよく起き上がると、家の外まで響くと思う位に大きな声で叫び声を上げた。私の平穏は一体どこにあるのだろう。どだいこの世には存在していない気がしてきた。
しばらく経って私の心持ちが落ち着いてきた頃、そいつは言った。
「落ち着いてきたかにゃ?おはよう、アサヒ」
「夢じゃなかったのか。というか、まだ朝の七時だぞ」
「早起きは三文の徳という言葉を知らないのかにゃ?それよりおはようの挨拶をきちんとするにゃ」
私はため息をついた。
「何故猫に挨拶をしなけりゃならんのだ」
「吾輩だけでなく、おはようは大切な挨拶にゃ」
そこに、花谷さんが廊下から話しかけてきた。
「先生、また何かございましたか?物凄い悲鳴が聞こえてきましたけど」
私は理由を話すのも面倒になって、奴の事は黙っておいた。
「……何でもない」
「朝食はお食べになりますか?それとももう一眠りしますか?」
「もう少し寝る」
「分かりました。それではゆっくりお休みになって下さい」
私は布団を被り、この悪夢のような現実から逃避しようと二度寝を試みた。だが当の悪魔は私の髪を猫の手で何度も叩いて起こそうとしてくる。
「アサヒ起きるにゃ、外は気持ちのいい天気にゃ。散歩でもしようにゃ」
「うるさい、あっちに行け」
私が手でしっしと払い除けると、奴は諦めたらしくにゃぁと一声鳴いて向こうへ行った。悪魔が去り、安心して眠りについた。今度は夢は見なかった。ただ呆然と気の許すままに暗闇を泳いだ。そして起きた頃にはしっかりと昼の時分となっていた。
私は悠長に起き上がり、起き抜けの小便を済ませ、仕事部屋へと向かった。まだ何も書かれていない原稿用紙が私を鬱々とさせる。
「失礼します」
花谷さんの声だ。恐らく昼食を持ってきたのだろう。私はあの悪魔が居ないかと咄嗟に視線をきょろきょろと揺らした。
どうも居ないらしい。ほっと胸を撫で降ろした所で、花谷さんが昼食の煮物や焼き魚や茶碗等を机に置いた。
「先生、昼食を持って参りました。よく眠れましたか?」
その質問には私は気難しげに眉を寄せた。
「これがよく眠れた顔に見えるのか?部屋に入れるなと言っただろう。何度言ったら分かる」
「ごめんなさい。少しでも目を離すと、居なくなるんです。それで旭田先生の所に行くんですよ」
「おかげで猫の悪夢を見たぞ」
「先生は好かれてるんですね、パンちゃんに」
「猫に好かれたって嬉しくない」
私は箸を持ち、まっ先に焼き魚目掛けて手を伸ばした。しかし寸でで箸先を止めた。どこからか奴の視線を感じたからだった。
「あいつがいる!」
「え?あいつって?」
「あの悪魔だ!」
「悪魔……ああ、パンちゃんの事ですか。今ここには居ませんよ」
「いる」
花谷さんは困惑した表情を浮かべた。私は障子の方へ視線を移す。やはりな。障子の穴からこちらの様子を伺っている猫の目に気づいた。私は大好きな玩具を独り占めしたい子供よろしく、焼き魚の乗った皿を片手に持って立ち上がった。
「これはやらんぞ。私のだからな」
きっと側にいる花谷さんは、旭田先生がついに変になってしまったと思う事だろう。だがそんな事は関係ない。これは奴と私の闘いなのだ。
奴は私に近づいてこなかった。私の戦略を見て、怖気付いたのだろう。悪魔に勝利をしたのだ。私は嬉しさを隠せず、表情筋が緩む思いだった。
花谷さんは呆れたように首を横に振って、空のお盆を持ってその場を立ち去ろうとした。しかし奴はそれを狙っていたのだ。
何と、狡賢い奴は真っ先にこちらへ駆けてきたと思うと、テーブルに飛び乗ってから、花谷さんの持つお盆へ飛び乗り、そこから私の手の中の焼き魚をくわえて綺麗に着地をしたのだった。
「まあ!パンちゃん」
真っ先に花谷さんの驚く声が聞こえた。
「出たな、この悪魔め」
「パンちゃん、それは先生の焼き魚よ。パンちゃんのは今朝食べたでしょう?ダメよ、返さなきゃ」
「私の魚が欲しいんだろう。だが窓は閉めてある。どこにも行かせやしないぞ」
しかし奴は平然と背中を向けて、焼き魚をくわえたまま廊下へと出ていってしまった。
「まさか」
「あら、向こうの窓は開けっ放しだわ。どうしましょう」
「なんだと。また奴が逃げるじゃないか」
「だって、空気の入れ替えをしないと、悪い気が滞るでしょう?」
花谷さんはあっけらかんと言った。私は奴を追いかける為に廊下を出た。後ろから花谷さんが、
「先生、魚ならまた焼いてあげますから!」
と言ったが私は、
「あの魚じゃなきゃ嫌なんだ!私は!取り返しに行く」
と返して、今度は裸足じゃなく玄関から靴を履いて外へ出た。
奴を追って着いた先はまたあの公園だった。もしやと思って、公園の奥のあのベンチを見ると、月夜さんの姿があった。「あ!」と私は声を出した。膝の上に、パンの奴が乗っていたからだ。
私はなるべく大人の振る舞いをしようと、手で髪を撫でつけて、ゆっくりと月夜さんの元へ近づいた。
「アサヒ先生!」
と、月夜さんは私に手を振って笑顔を向けた。その顔を見るともうダメだった。私は怒る気力も失い、それどころか春の陽気のような生暖かい感情が、胸の奥から湧き出てくる。
「どうも、月夜さん」
「こんにちは。来ると思っていましたよ。また逃げ出されちゃったんですね」
ふと、奴の方を見てみると私の魚はくわえていなかった。私はきょろきょろと辺りを見回した。
「私の魚、どこにいった?」
「魚?」
「ああ、いや、何でも。すみません、いつもいつも、こいつが迷惑をかけて」
「そんな、迷惑だなんてこれっぽっちも思いません。私、猫好きだから嬉しいんです。あっ、今日は靴、履いてるんですね」
彼女は私の履く下駄を指さした。
「はは、この前のような裸足で出歩くのが日常という訳ではないからね」
「ふふ、そうですよね。アサヒ先生も隣に来ますか?」
月夜さんは、隣の空いた座面を掌で一度叩いた。私は少し遠慮がちに腰を下ろす。
「すみません、失礼します」
「それにしても、パンちゃんはどうして逃げ出したりするんでしょうね。どこかお出かけでもしたいんでしょうか」
「こいつは食い意地がはっているだけですよ」
私は、ぬくぬくと膝の上で呑気に微睡んでいる奴を睨んだ。猫というだけで、彼女の膝の上を独占出来るのだ。何とも世は不公平だと思う。
「パンちゃん、そんなによく食べるんですか?」
「人のものばっかり食べたがるので、こっちは参ってるんですよ」
「人間の食べ物は美味しそうに見えるもんね」
月夜さんは、奴の頭を優しく撫でた。
「だが人のものを取るのはいかがなものだろう」
「それはあんまり良くないですね。でもアサヒ先生に構ってもらいたいだけかもしれませんよ」
花谷さんも言っていたが、何故口を揃えて奴が私に好意を持っている事にしたがるのだろうか。この世で奴の正体を知っているのは私のみで、奴の正体が実は得体の知れぬ化け物だという事を、生涯私だけが抱え、味方など一人も居ない。ああ、私はまた孤独だ。孤独には慣れているから、別段騒ぐ事でもないが。
「あの、アサヒ先生。実は…」
「どうしましたか?」
「えっと、あ、やっぱ何でもありません。大した事じゃないので」
「そこまで言われたら気になりますね……」
「あ、いや…アサヒ先生の本、すぐそこの書店で買って読んでみたんです。ただ、それだけです」
「え、本当ですか?」
「まだ途中なんですけど、感情が色で表現されている部分が好きで」
「ああ、絵の具少女の話ですか」
絵の具少女とは、私が一昨年に書き上げた短編集の中の一つにある話だった。
「はいそれです。少女は幼い頃から母親に閉じ込められていて、唯一自分が感じられる世界は、12色の色だけ。彼女は色で感情を表現するの。愛も憎しみも。思わず泣きそうになっちゃって」
彼女の瞳はそれを語る間、空を跨いだ遥か遠くへと行っているようだった。
「読者の意見を聞くことってなかなか出来ないから、私もそれを聞けて大変嬉しく思います」
「私、もっと先生の作品を読んでみたいなって思いました」
「お恥ずかしい。月夜さんは何か書いたりはしないんですか?」
「私、ですか?私なんて先生と比べたら凄くド下手な文ですから!ほら、前にも言った通り、読書感想文の話……」
「確か、赤ペンだらけだったって」
「ショックですよね。一生懸命書いたのに、結局内容についての評価じゃなくて、直されるのは文法とかその辺りの事ですもん」
「私も最初はそうだったよ。だから国語の授業は大嫌いだったんだ。正解がないと点数が付けられないから仕方ないけど、私は正解がない事が文学の正だと思う。文学はルールのない純粋な世界でなくてはと思うんだよ」
すると彼女の反応に少し間が空いたので、私は変な事を言ってしまったのではないかと、つい先程の言葉を早々に後悔した。しかし、彼女の口からは意外な台詞が出た。
「アサヒ先生って、面白い」
「え?」
「文学にルールは要らない。そんな事考えた事もなかったので。私、小学校も中学校も、高校も、点数とることだけに必至で。先生みたいな風に考えていたら学校生活もきっと楽しかったんだろうな」
「そうだろうか……」
学生の頃の事を考えると、私は少し顔を曇らせた。あまり思い出したくはないのだ。私みたいな物静かで、かと言って勉強嫌いで成績の悪い生徒は同級生のみならず先生からも疎まれる存在だった。その為か否か、いや多分関係はないのだろう。少なくとも私の友は文学だけであった。
ふと、この前よりも静かに黙り込んでいる猫の顔の方を見た。どうやら気持ちよさそうに眠っているらしかった。月夜さんは腕時計を見て言った。
「あ、そろそろ時間だ。おばあちゃんの昼食作らないと」
「毎日偉いですね」
「いえ、たった一人の大切な家族ですから。じゃあね、パンちゃん」
と、月夜さんが奴の頭を撫でて声をかけると、パンは大きく欠伸を漏らして膝の上から飛び降りた。
「アサヒ先生も、また」
月夜さんが立ち上がる。私はその時、何故だか分からないが咄嗟に声をかけてしまった。
「あの!」
「はい?」
「次はいつ会えますか?」
月夜さんは、目を丸くして私の顔を見た。私は唇を結んで答えをじっと待つしかなかった。
「また週末になれば同じ時間にここに居ます」
「そうですか。もし嫌ではなければ、また会いに来ても、いいですか?」
私は伺い立てるように尋ねた。
「はい!私もアサヒ先生とパンちゃんに会えるのが楽しみですから。それじゃあ」
月夜さんは深くお辞儀をしてからその場を去っていった。
私は今まで散々莫迦らしいと思ってきた小さな期待を胸に蓄えて、息を吐いた。こんな呑気な感情に浸れるのは、奴のおかげだろうか。なんて、一瞬は思ったものの焼き魚の件を忘れる訳にはいかない。私が奴を見下ろしていると、奴も私の顔をじっと同じく見上げていた。その視線がどうにも居心地が悪かったので、私はベンチを立って奴に言った。
「帰るぞ」
奴はにゃぁと猫らしく返事をした。
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