第3話 月夜

風もなく、少しばかりの涼し気な空気が、部屋へと循環していくようだった。だからどうという事も無いのだが。私にとっては今は何より目の前の焼き魚である。ようやくありつけるのだから。私は焼き魚へ箸を向かわせた。すると、奴がまた――やらかしてくれた。

「何をするんだ!」

私の焼き魚を咥えて、それは私を見てまるでにやりと笑っているようだった。私は我慢の糸が切れ、憤怒のままに立ち上がった。

「こいつ!それは私の魚だぞ!そいつを離せ」

しかしそれは私の顔を見つめるだけで魚を離す気配もない。

「このっ、おい!聞こえてるだろう。その魚を今すぐ皿に戻すんだ。さもないと――」

「にゃぁぁ」

とひと鳴きして、それは庭の方角へと走って行った。

「ああ!こら待て。どこに行くんだ!戻ってこい!このバカ猫」

私の叫び声は虚しく、それは振り返りもせずにブロック塀の隙間から、体を細くして出て行った。何てことだ。私の好物が、あろう事かにっくき猫に盗まれた。

「もう今度こそ本気で怒ったぞ。許さん!」

じっとしていられず、私は玄関の方から回って、奴を追いかける事にした。靴を履くのも忘れて住宅街を走る光景は異様だったらしく、すれ違う人々はまたひそひそと噂をしているようだったが、こちとらそれどころではない。

「こら待て!このっ泥棒猫。私の魚を返せ」


まるでコントもいい所。角を曲がる所にあれの尻尾の先が見えて、私は追いかけた。私の歳で相当きつい鬼ごっこだったが、諦めず、息を切らしながらあれの姿を追いかけていった。

そしてあれが公園へと逃げていったのを見ると、私はとうとう追い詰めるぞと意気込んで、早歩きで公園の中へと入っていった。グラウンドには野球をしている少年達がいたが、それの事で頭がいっぱいな私は野球ボールが飛び交う中を、つかつかと歩いていった。


グラウンドの隣のスペースの、奥のベンチの下に奴はいた。

(もうおしまいだ。私から逃げられると思うなよ)

奴は今、私に背中を向けている。私は確実に捉える為一気に距離を詰めようと、忍び足で近づいてからそれを捕まえようとした。


「みゃぁぁ!!」

バリバリバリ。

顔中に焼けるような痛みが走る。だが今度こそは私も慌てずにそれから手を離さずに捕まえようとした。

そこに、私の頭上から、少女と大人の境目かのような声が聞こえてきた。

「その子、あなたの飼ってる猫なんですか?」

私は顔を上げ、声の主の顔を見た。優しそうに笑う、髪の長い女性の姿がそこにあった。どことなく、服の色がちぐはぐに見える。上は黄色、下は丈の長い紫のスカートを履いている。お世辞にも、風景に馴染んでいるとは言えなかった。最も、私が他人の事を言えた義理ではないが。

しかし彼女の周囲だけが、水面が陽に照ってきらきらと光り輝いているような光景に見えた。私はしばらく見とれ、口も開けずにいると、ようやく現実に戻されうわ言のような声を発したのだった。


「は、はい。……私の猫です」

「そう、野良猫さんなのかなって思ったけど、ちゃんと飼い主さんが居たんですね。良かった」

「いやあ……はは。飼い主というか、なんというか」

「あれ、足」

と、彼女は私の足を指さした。

「え?」

「裸足なんですね」

私はすっかり自分の今置かれている状況を忘れていた。そう直接指摘されると顔が熱くなってしまう。彼女は心配そうに続けた。

「顔も傷だらけだし……大丈夫ですか?」

「大丈夫です。今自分を鍛えている所なので」

「あ、じゃあこれ、もし良かったら」

彼女は鞄の中からポーチを取り出すと、その中から絆創膏を数枚手にして、私に差し出した。

「え、いいんですか?」

「はい、もちろん」

「それじゃあ、いただきます……」

私は絆創膏を静かに受け取った。

「鍛えるのはいいですけど、程々にして下さいね。ガラスとか刺さると危ないので」

「は、はい」


まただ。どうやら完璧に私の頭はどうかしてしまったらしい。彼女の周りが、日中の水面の如くキラキラと輝いた。それに彼女が微笑むと、時間の速度がゆっくりに思えたのだ。私はその不可思議な体験に気を取られ、また脳内に蜂蜜でも垂らしたかのような甘ったるさを覚え、永遠と彼女を見つめていたかった。しかし、そんな心地よい感覚を、奴はあっさりと壊してくれた。


「お礼くらい言うにゃ、アサヒ」

「へ?あっ、ありがとうございます」

「いえ、いいんです。人の世話をしたりするのが好きなので」

「はあ、そうなんですね」

私は凝り固まった笑顔を浮かべながら、何度か頭を下げた。正直、何を話していいのか分からなかった。鼓動の脈打つ際限が達すると、私はその場から逃げ出したくなる衝動に駆られた。


「それじゃあ、私はこれで」

と、私はその場を去って帰ろうとした。だが、奴はまたとんでもない愚行をしでかした。何と彼女の膝の上にひらりと飛び乗ったのだ。

「おいコラ!何をやってるんだ!スカートが汚れるじゃないか!バカっ」

「いいんですよ。人懐っこいんですね。この猫ちゃん」

彼女は優しく微笑みながら、膝の上の猫の頭を撫でた。私は皮肉っぽい口振りで言った。

「こいつなんて、猫被りなだけです」

「え?」

「いえ、何でも」

「あ、もし良かったら、飼い主さんも座って一緒に話しません?」

彼女は、少し横にずれて、空いた箇所を小さく叩いた。

「え、いや、でも」

「私今暇してるので、少しだけ付き合ってくれるとありがたいです。ダメ、ですか?」

「ダメ、じゃないです。じゃあ……お邪魔します」


女性の隣に座るのなど、何年ぶりだろう。ついぎこちない動作で、私は彼女の隣に腰を下ろした。

(猫……いや、魚を追いかけにきただけのはずなのに、私は一体ここで何をしているんだ)

「好きなんですか?」

「え!?」

私は素っ頓狂な声を発した。

「いや、そんな好きだなんて!まだ、出会ったばかりですし……」

「猫」

「あ……猫、ですか」

「私、凄く好きなんですよ、猫。動物は皆好きだけど、特に猫が一番好きで」

私には全く理解出来ない趣向だった。あれのどこが好く要素があるというのだ。古くから猫は妖怪の類と扱われているように、私も猫に対して一種の不気味な想いを感じるのだ。

「どこら辺に惹かれるんですか?その、猫の」

「だって長く揺れる尻尾とか、耳の形とか、目とか全部可愛いじゃないですか」

「うーん」

私は、彼女の膝の上に居座っている、猫と名乗るそれをじっくりと観察してみた。

(無造作に動く尻尾、細い道でも通れる伸びる体、縦に筋の入った目、やすりのような舌。どれをとっても私は恐怖しか覚えん)

そんな事は口が裂けても言える訳がなく、私はとうとう感情を抑え込んで、黙りこくってしまった。


沈黙の中、彼女から口を開いた。

「それにしてもいい天気ですね」

「ええ本当に…」

またもや沈黙。私は耐えられず貧乏揺すりを始めた。

「何か話すにゃ、アサヒ」

「何かって何を。こういうのに慣れていないんだぞ、私は」

私は声を潜めながら、話した。

「その子の趣味とか聞くにゃ」

「趣味?ベタすぎないか?それは」

「いいから聞くにゃ!」

奴はにゃぁっと声を漏らした。


「あの」

と言ったのは彼女と同時だった。私は気まずそうに先を譲った。

「ああ、すみません。先にどうぞ」

「えっと、じゃあ…すみません。もし違かってたら恥ずかしいんですけど、あの、作家さんか何かですか?」

「え、どうして分かったんですか?」

「だって、独特の格好をしているから。まるで昔の小説家さんみたいな」

私は自分自身の格好を改めて眺めた。確かに、昔の日本の有名作家の服装を真似ていないといえば嘘になる。

「これは……お恥ずかしい。一応、書く事を生業にはしています」

「やっぱり!凄いですね。作家さんだなんて。私なんて、文章が下手っぴだから。読書感想なんて、いつも赤ペンだらけで」

「はは、そうなんだ。私もあれは苦手だったよ」


「自分の事ばかり話すなにゃ」奴は言った。また私は声を鎮めて。

「分かってるよ。――あの、ご趣味は?」

そう聞いてから私ははっとした。

(待てよ。今の言い方、何だかお見合いっぽくなかったか?)

「趣味ですか?私、多趣味で。色んな事に興味が湧いちゃうんです。でも、全部平均点くらいで。器用貧乏っていうんですかね、こういうの」

「沢山趣味があるのはいいね。私には本を読む事しか無いから」

「一つの事にそうやってのめり込めるのって凄く尊敬します。でも最近ハマってるのは料理なんです」

「料理、するんだ。いいね」

「はい。でもまだ少し失敗したりするんですけど……」


「何をしてるにゃ。この子の名前を聞くにゃ」

「うるさい、いいからお前は少し黙ってろ」

私はつい声を荒らげてしまった。

「え?何か言いましたか?」

「あ……いえ、何でも」

「名前を聞くにゃ。名前を」

彼女は不思議そうに私の顔を見ている。この猫のせいでまた私は変人という烙印を押されてしまうのか。

「そ、それで、そのー、貴女の名前は何ていうんですか?」

「私の名前ですか?ちょっと変わってるんですけど、笑わないでくれますか?」

「もちろん」

「私の名前、月夜って言うんです」「へえ、月夜。綺麗な名前だね。本名なのかな」

「もちろん!苗字が月夜なんです。珍しいですよね。なかなか聞かないですし」

「確かに珍しいけど、私は好きだな、その名前」

「え、本当ですか?」

「うん。私は太陽より月の方が好きだから」

「へへ、嬉しいな。褒められると。えっと……貴方のお名前も聞いてもいいですか?」


私は一瞬躊躇った。名前というのはどうも名乗るのに気が引ける。迷ったあげく、私は作家家業で名乗っている偽名の旭田陽一……ではなく、何故か猫に名付けられた名前を教えたのだった。


「私の名前は……アサヒ」

「アサヒ…へえ。何だか私たちの名前って似てますね」

「え?」

「月夜とアサヒ。朝と夜で、対になってるじゃないですか」

「本当、ですね。そういえば」

「もしかしたらこれって運命かもしれませんね。なんて」

私は少しばかり、彼女のいう運命という言葉が照れ臭く、俯いた。

「う、運命。でも月と太陽は永遠に交わる事は無いからなぁ」

そう言うと、彼女は天を見上げて。

「そうかもしれませんね。でも、月と太陽はお互いが無くちゃならない存在なんですよ。月は、太陽がいないとあんな風に存在を示せないんです」

その時、私は月夜さんと一緒に空を見上げた。太陽は白く濁って、雲の流れなどどうでもいいと言わんばかりにそこに居座っている。


「もうそろそろ行かないと」

と、月夜さんは立ち上がろうとして、パンの奴が膝の上から降りた。

「えっ、ど、どこに行くの?」

「家に帰って、おばあちゃんの面倒見なくちゃいけないんです。すぐそこのアパートなんですけど。私が居ないと大変だから」

「そっか。気をつけて帰って下さい」

「アサヒ、また会えるか聞くにゃ」

この生意気な猫は、また余計なアドバイスをしてくれる。

「いいから黙れって」

「早く聞くにゃ」

「ああもう!」

彼女は去ろうとして、私の声に振り向いた。

「え?どうしたんですか?」

「いや。また、会えるかなって。ほら、絆創膏の礼も致したいですし。……って、変な日本語になっちゃったな、今」

月夜さんはくすくすと笑いを零した。

「もちろんです!月曜日と週末のこの時間には大体この公園に来てますから、良ければまた会いましょう」

「はい、是非」

「それじゃあ、また」

と、月夜さんは最後にもう一度振り返り。

「アサヒ先生!今度はアサヒ先生の小説読ませて下さいね」

手を振りながら去っていった。

「は、はい」


私は彼女の後ろ姿が、見えなくなるまで手を緩く振って、見送った。

「あんな素敵な人がこの世に存在するなんて知らなかった」

私は彼女がまるで、朝の太陽にも挫けない程に輝く月のように思えた。ぼんやりと、余韻に浸っていると、分厚い衝撃が顔に当たる。野球ボールが直撃したのだ。青臭い坊主の野球少年が駆け寄ってきた。

「すみませーん!」

あの猫が来てから災難続きだ。私は何も言い返せず、ボールを地面から転がして、野球少年へ返した。



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