第2話 奴は悪魔だ


四畳半の畳の一室は、小さな箪笥やテレビ等、必要最低限のものが置かれているだけで質素であった。そこは花谷さんの部屋だ。

私と花谷さん、その間に例の喋る猫が居る。先ほどの一連の騒動など忘れたかのように、それは前足を呑気にぺろぺろと舐めている。

「あらやだ!泥棒かと思ったら、なんて可愛い猫ちゃんなんでしょう。先生が拾われたんですか?」

花谷さんはまるで少女のように手を叩いてはしゃいだ。

「拾ってはいない。そいつが勝手に私の家に土足で上がり込んできただけだ」

「へぇそうなんですか。猫ちゃん、こっちにおいで。よしよし」

それは小さく甘えた声を出して、花谷さんの手元に擦り寄った。

「にゃぁ」

私は何だか不満げに、猫らしく振る舞うそれを見下ろした。本当は猫ではない癖に、花谷さんはまんまと騙されている。

「不法侵入と、タダ飯食らいだぞ」

花谷さんは、膝の上にそれを乗せた。猫のようなそれも安心しきった顔でそこに座っている。花谷さんは心底嬉しそうに、それの頭を撫でた。

「そう、お腹が空いていたのね。もう大丈夫でちゅかー?」

「心配するな。すぐにそいつは出て行くから」

「出て行くだなんて、そんな可哀想ですよ。そうだ、私が面倒を見るので、この家で飼いましょう。ね、旭田先生。いいですよね?」

(ああ、ほら。やはりな!冗談じゃない。これからずっとこの猫が私の生活の中にちらちらと目に入るというのか?考えただけでも発狂する)

私はそれを睨みつけた。

「馬鹿な事を言うんじゃない。悪いことは言わないから、やめておきなさい。 そいつは地球侵略をしにきたエイリアンだ」

「エイリアン……?」

「おい、何か喋ってみろ、さっきみたいに。おい!あー、あー、ほら。どうした」

しかしそれはおすまし顔で座っているだけで、私の言葉には一切返答をせず、「にゃあ」とだけ鳴いた。花谷さんは私の頭を心配しだした。

「また先生の妄想ですか?猫が喋るだなんて、絵本では読んだ事がありますけど」

「本当に喋ったんだ。私の頭は正常だぞ」

「はいはい。それにしても野良猫なのに随分人懐っこい猫だわね。どこかで飼われて捨てられたのかしら?」

「さあな」

「きっとそうですよ。ほら先生、見て下さい。この猫ちゃん、私の事が好きみたい。ねぇ旭田先生、お願いします。先生のお手を煩わせないようにしますから。私が責任をもって世話をします」

こう言い出したら花谷さんは何が何でも私の言葉を聞きやしない。私は苦渋の決断を迫られた末、渋々と小さく頷いた。


「洗脳されても知らんからな。それから、私の部屋には一切それを入れないと約束しろ」

「いいんですか?ありがとうございます。もちろんです、先生の部屋には入れないように気をつけますから」

「ならいい。よっこいしょ」

私はゆっくりとその場から立ち上がった。すると腰にびきびきと痺れるような痛みが走り出した。

「あいたたた」

「旭田先生、大丈夫ですか?今湿布を貼ってあげます」

「いい。これくらい平気だから」

「もう、ダメですって。ほらお着物を脱いで下さい」

花谷さんは、後ろの小箪笥から湿布を一枚取り出した。私は少々面倒臭い気持ちだったが、花谷さんに背中を向けて座り、着物の裄を脱いで上体を晒した。湿布の匂いが鼻を突っつく。花谷さんは慣れた手つきで私の腰に湿布を貼っていく。心地の良い冷たさが、熱を持った箇所を包み込むと、少し気が楽になった。

「そうだ、うちの子になるからには名前をつけないとダメね。何にしようかしら。ミケなんてどう?それともクロ?」

「いや、別にその猫、黒くはないだろう」

「いいのよ。こういうのは雰囲気だから。はい終わり」

勢いよく腰をぱんと叩いて、処置を終えた。私は湿布の上から腰を軽くさすり、衣服を整えた。

「迷うわねぇ」

「そいつにはもう名前があるみたいだぞ」

どうでもいい事のはずなのに、私はつい口を挟んでしまった。

「え、どんな名前?」

「……パン」

「パン?」

私の言葉に反応して、それはしっかりと鳴いた。

「にゃぁぁ」

「あら、パンって呼んだら返事をしたわ。じゃああなたの事はこれからパンって呼ぶわね。パンちゃん、我が家へいらっしゃい。ねぇ旭田先生、この子オスかしら、メスかしら?」

「さあ…自分の目で確認してみたらどうだ?は、はっくしょん!何だか目が痒いな」

「え?どれ、見せて下さい。あらま!先生の目、真っ赤ですよ」

花谷さんが私の目を覗き込んできて言った。実は先程からずっと、両方の目が痒くて仕方なかったのだ。

「先生、もしかして……猫アレルギーですか?」

「はっくしょん!猫アレルギー?はっくしょん!」

自覚をしてからは、一層くしゃみと痒みが治まらず、鼻水まで垂れてきそうだった。

「そうよ、絶対そう!私の友人の相田さんも先生と同じ症状だったもの」

「何だと、はっくしょん!はぁ、もう我慢出来ない。そいつを絶対に私に近付けるなよ!」

私はそれを指さして、強く言い残し部屋を出て行った。廊下を早足で歩き、仕事部屋へと戻り、きっちりと襖を閉め切った。あいつが入ってこないように。

私は机に戻り、腕を組んでなるべく集中しようと試みた。しかし、今し方腰をいわし、アレルギーの兆候が体を蝕んで、なかなか集中が出来なかった。私はとにかく筆を掴んで、思いついた文字をマスへ埋めて行った。


急かすように夏の兆候が訪れ始めたとある日、不思議な猫が私の元にやってきた――。


書いた後に私ははっとして、すぐさま原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸め、その辺に捨てた。

「何を書いているんだ。私は」

私はげんなりとして、項垂れた。

「何をそんなに難しい顔をしているにゃ?」

そう声をかけられ、いつの間にか、生暖かい感触が股座に乗っていたのに気づいた。恐る恐る下を見てみると、あの不気味な生き物が座っているではないか。私はびっくりして後ろに仰け反った。

「わあ!!出た!化け猫!どうやって入ってきた!確か襖は閉めたはずなのに」

「襖?あの紙がそうなのかにゃ?」

それが視線を向けた方へ、私は顔を向けた。一番下の右から二番目の枠の障子が無惨に破られている。

「私のプライバシーは全面的に無視か」

「これは何にゃ?」

「人の話を聞け」

それは猫の手で原稿用紙に触れた。私は思わず怒鳴って、原稿用紙を脇に寄せた。

「こら!それはダメだ。大事なものなんだ。全く、これ以上私に構わないでくれ。迷惑だ」

「ただの紙に見えるが、大切なものなんだにゃぁ」

「何も書かなければただの紙だ。だがこの筆で、一つ一つ文字を繋いでいけば、こんなただの紙でも一つの、いや多くの人生を与えられる。…って、猫にそんな話しても分かる訳がないか」

私は分かりやすく筆を持って説明をしていたが、ふと相手が猫だという事に冷静に気がつけば、何だか阿呆らしくなった。

「ふんふん、にゃるほど。という事は、アンタは神様みたいなものにゃ」

「神様?そんないいものじゃない。結局読まれるものを書かなきゃ意味が無いからな。どんな人生でも……」

「ふーん、吾輩も読んでみたいにゃ。アンタが書いたもの」

「文字も読めるのか?」

「少しだけ分かるにゃ」

「読んでも猫には理解出来ないだろう。それに猫の感想なんかいらないぞ」

「まあまあ、そう堅いことを言いにゃさんな。そういえば、まだアンタの名前を聞いてにゃかったにゃあ」

「……生きてて猫に名前を尋ねられる日が来るとは思わなかった。私の名前など、知ってどうという訳でもないだろう」

「吾輩は名乗ったんだから、あんたも名乗るのが筋にゃ」

「それは……お前が勝手に名乗っただけだろ。というか喋りかけるな。集中が出来ん」

私は、べらべらとうるさく喋る猫を無視し、原稿用紙と向き合った。

「そういえば、あの女の人はさっきアンタの事を旭田先生と呼んでたにゃあ」

「覚えていたのか。旭田は本名ではない」

「名前なんてどうでもいいにゃ。名前なんて、生き方を変えさえすれば、後から偉大にも最低にもなるにゃ」

「そうかもしれないが、猫に言われると何故か腹が立つな」

「旭田先生、アサヒダ…、分かったにゃ。今日から吾輩は、アンタの事をアサヒと呼ぶにゃ」

「アサヒ?適当だな」

「人間ばかり猫に適当に名付けるのは不公平にゃ」

そう言って、そいつは鼻をふんと鳴らした。

「猫はいいんだよ。猫なんだから。まあ、面倒だからアサヒでも何でも好きなように呼べ」

「分かったにゃ!アサヒ、アサヒ」

「まだ何か用なのか?いい加減一人にしてくれないか。またくしゃみが出そうだ」

私は鼻の奥のむず痒さを思い出し、鼻をさすった。

「だから、吾輩はアサヒに恩返しをしたいのにゃ」

「はいはい。その話は後にしてくれ。今はこれを書かないと」

いよいよ、それの対応に鬱陶しさを覚えると、私は背中を丸めて、それをなるべく視界に入れないようにした。すると、それはいきなり原稿用紙の上に飛び乗った。

「おい!お前、何が何でも邪魔をする気だな?」

「そんなにじっと紙と睨めっこしても、何も出てこないにゃ」

私は深く溜息をついた。

「分かった、話を聞くだけだぞ。だけど猫に何が出来るって言うんだ。猫の手でも貸してくれるのか?」

「貸すのは手じゃないにゃ」

「じゃあ何だ。前足か、後ろ足か?」

「そうじゃにゃくて、ここにゃ、ここ」

それは前足をひょいと持ち上げたと思うと、私の額にそっと柔らかな肉球を乗せた。

「ちょ、おいっ。コラ、やめなさい!」

「吾輩はアサヒに知恵を貸すのにゃ。アサヒがもっと生きやすく、毎日を幸せにする為の知恵をにゃ」

「さっきも言ったが、私はこの生活に満足している。あえて幸せを考えるならお前が私の前からいなくなる事だから、この部屋からさっさと出ていってくれ」

「素直じゃないし、とんだ捻くれ者だにゃあ、アサヒは」


私は嫌悪感たっぷりな顔で、首を横に振って、猫の手を払い除けた。

「捻くれ者で悪かったな。どうしても出ていかないというのなら、無理矢理にでも出て行かせるまでだ」

人間と猫ならば、人間が強いに決まっている。私はテーブルの上のそれを両手で捕まえようとした。しかしそれは、軽やかに私の手を避け、床に着地をした。そう来るのならば、私も負けじと立ち上がり、戦闘態勢をとった。


「吾輩とやる気かにゃ?猫に人間が勝てると思ってるのかにゃ?」

「人間様を怒らせると怖いんだぞ。この部屋から出て行ってもらうまで私は諦めないからな」

今度こそ私は本気であった。沈黙の中、互いに出方を伺う。妙な緊張感が流れ、私は機会を待った。そして、タイミングを見計らうと一気に相手に詰め寄った。だがそれは再び身を翻し、私の手をすり抜けた。ついでに私は机の脚に、小指をぶつけ、その衝撃に身悶えるまま、片足でけんけんをした。

「いたた!いたた!」


その隙を狙ってか、奴はテーブルに飛び乗り、そこから私の顔面を狙って飛びつくと猫の鋭い爪先で思い切り引っ掻いた。皮膚の裂ける痛みに私は情けなく騒ぎ倒した。人間と猫の対決は呆気なく、人間の敗北で幕を閉じた。

すっかり意欲の削がれた私は猫の前でげんなりと正座をした。

(ちくしょう、何故私がこんな目に……。ああ何で猫などに負けるのだ)

「アサヒ、泣いてるにゃ?」

それは心配そうに私の顔を覗きこんだ。負けた身分で猫に心配されるなど、なんと情けない事だろう。顔を上げるのも恥ずかしくなった私はしばらくの間は俯いていた。

「失礼します」

と、そこで襖の向こうから花谷さんの声がした。私は背筋を伸ばし、腕を組み直すと、疲れきってげっそりと返事をした。

「ああ、……どうぞ」


襖が開くと、花谷さんがやってきた。両手にはお盆を持ち、その上に表面がこんがりと良い具合に焼き色のついた焼き魚の乗った皿と、湯気の立った湯呑みを乗せてある。それらを持って部屋へ入ってきた花谷さんは、私の顔を見て仰天した。

「あら!先生、その顔どうなさったの」

私は仏頂面で、

「私の部屋へ入れるなと言っただろう」

文句を言った。

「ごめんなさい。パンちゃんのおやつを探そうと目を離したら、いつの間にか居なくなっていて。その顔の傷ももしかしてパンちゃんに?」

「ふん、そいつは猫でもエイリアンでも無い。悪魔だ」

「まあ。パンちゃんダメじゃない。先生の邪魔をしちゃ。そこも手当をしないと。今救急箱を」

「もういい。それより、一人にさせてくれ」

花谷さんは黙りこくって、焼き魚と茶をテーブルの上に置いた。その後で、私の食べかけの昼食のお椀を片し始めた。

「すみません。私がちゃんと見ていないばっかりに。パンちゃん、先生は今大事なお仕事中なんですから、向こうに行きますよ。あら先生、また窓を閉め切って」

花谷さんは一旦お盆を床に置くと、つかつかと窓の方へ歩き、私の了承も得ずに窓を大きく開いた。

「虫でも入ってきたらどうする」

「私の母がよく言っていたんです。窓を開けると、同時に良い気も入ってくるって。だからしばらくの間は、こうして開けとくといいんです」




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