第1話 パンとの出会い 2

(全く私が何故こんな事をしなければならないのだ)

不満げに眉を寄せるが、猫は頼んでも帰ってくれそうにない。一刻も早く食い物を与えなくては。

そこで、私の視界の端に夏色をした野菜が三本程、鍋の中に寄りかかっているのが見えた。それは茹で上がったトウモロコシだった。猫がトウモロコシを食す所は見た事がないが、これならいけなくなさそうだ。

私は鮮やかなその夏野菜を一つ手に取ると、青いプラスチック製の皿の上に乗せて床の上に置いた。

「頼むから食えるものであってくれ。こんな所で死んでもらったら困る」


私は独り言を呟きながら神頼みを口走った。するとそれは警戒もせずに皿の元へやってきて、トウモロコシを食べ始めた。余程腹が減っていたのだろう。がぶりつくように、トウモロコシを胃袋へと収めていく。私は距離を保ったまましゃがみこんで、その様子を眺めた。


「まずくても文句は言うなよ。私の家に来てしまったお前が悪いんだから。それから何度も言うが、食ったらちゃんとうちから出ていくんだぞ」

しばらくしてそれがトウモロコシを食べるのをやめると、ようやく腹が満たされたのが分かった。それは、にゃぁと一つ鳴いた。ご馳走様とでも言いたいのだろう。私はそれが食べ残したトウモロコシを皿ごと拾い上げて立ち上がった。

「食い終わったか。よし、じゃあもう帰る時間だ」

だが、それはいつまで経ってもその場を動かない。また甘えるような両眼で私の事をただただじっと見つめているのだ。

「ほら、どうした。お代わりはもう無いぞ。分かったらさっさと行け。行けったら」

私はそれを追い出そうと語尾を強めた。すると、

「ご馳走さまにゃ!」

確かに、そう声が聞こえたのだ。私は一瞬気が付かずに「はいはいお粗末様でした」と返答をして、何かの違和感に気づいた時には言葉を失った。だが聞き間違いに違いないと思った。頭を使う仕事をしていると、どこかの拍子で頭が壊れる事がある。きっとそれもその不調に違いないと思った。そう思い込もうとした。

だが、それは私の期待を裏切って、次にこう宣った。

「聞き間違いじゃないにゃ、吾輩は目の前にいるアンタに喋っているにゃ」


開いた口が塞がらないとはこの事を言うのだろう。私は恐ろしい出来事に驚きを隠せず、目を見開いてそれを見たまま、喉奥から震える声で発した。

「お、おおお前…本当にしゃ、喋っ」

「不躾に訪問したのにも関わらず、美味しいご飯を食べさせてくれてありがとうにゃ。しかしこの家の台所は凄く広いにゃ」


それは台所を見渡すように、その場を少し徘徊した。私はというと、恐怖のあまり額から汗を滲ませていた。体の血が一気に冷めていくようだ。そうしてついに体は勝手に勢いよく後退さり、洗い場へ衝突した。がしゃりと大きく音を立てる。ついでに手の中の皿も床に落としてしまった。


「しゃ、喋った!ね、ねねねね!ねね、猫が、本当に喋って」

「何にゃ。猫が喋るのがそんなに珍しいのかにゃ?」

それは飄々と言いながら、私の方を見ている。


(ついに私は頭がおかしくなったぞ。これは薬の副作用か。幻覚か。なんて事だ。私は病気に違いない)

頭の中で、目の前の状況を処理する事に精一杯だった。しかし、それが一歩私の元へ近づいてくると、私の腰は一瞬にして抜け、いわゆるパニック状態に陥った。

「ひい!そこから動くな!化け猫め」

「そんなに驚かにゃくても。吾輩は人間に危害など加えにゃい。にゃんだか顔が真っ白だにゃ、アンタ。大丈夫かにゃ?」

私の忠告を無視し、それは一歩一歩近づいてくる。生物的な防衛本能で私は近くのおたまを取り、それに向かって構えた。

「よ、寄るなバカ。この幻覚め!私の頭は正常だ」

「初対面の猫にバカとは礼儀のなっていにゃい人間にゃ。吾輩はバカという名前じゃにゃい。吾輩にはパンという立派な名前があるのにゃ。それに幻覚でもないにゃぁ」

「幻覚じゃなかったら、お前は誰なんだ。ね、猫が喋るなんてどう考えてもおかしいじゃないか!現実では許されんぞ。こんなフィクション」

「人間はおかしな事ばかり言うにゃぁ。猫が喋らないなんて一体全体どこの誰が決めたにゃ?」

それは尻尾をゆらゆら揺らしながら、こちらの出方を伺っている。

「知るか、そんな事」

「吾輩は幻覚にゃんかじゃにゃい。吾輩は猫である」

聞けば聞く程、不気味で、奇怪で、奇天烈であった。私はどうにも信じる事が出来なかった。

「お前の罠には引っかからんぞ。第一何故猫が喋るんだ?」

私は幻覚であるか確かめる為、恐る恐る、それの頭をおたまで突っついた。しかし、確かにそれの感触はそこに存在している。幻覚ではないと知ると、より一層奇異である。私の頭は恐怖よりも、今度は気持ちの悪さが勝った。それは続けざまに喋る。


「全くコンクリートみたいに頑固な頭をしているにゃ。どうしたらこれが現実だって分かってくれるにゃ?」

「知るか。百歩譲って幻覚じゃなかったとして、何故猫が人の言葉を話せるんだ。――待てよ、分かったぞ。お前、もしかしてエイリアンだろう。猫に化けたエイリアン。そして私の脳を食って寄生するつもりだな。それとも地球侵略、洗脳か」

「やれやれ、人間ってのは何でも知っているものに当てはめたがるにゃあ。吾輩は喋る猫。ただそれだけの事にゃ」


それは頑なに自分を猫と言い張る。私は怯えながらも、じっくりとその不思議な生き物を観察してみる事にした。姿形、仕草などについては猫そのものであるが、人間の言葉を話す猫など見た事がない。それは猫らしい動作でもった、前足を舐めて、毛繕いをしている。私はゆっくりと立ち上がって、とりあえず落ち着こうと蛇口を捻り、コップ一杯の水を飲み干して、袖で口元を拭った。

「納得がいかん。というより、ナチュラルに気味が悪い。さっきまで普通の猫だったんだぞ」

「アンタ、本当に失礼な奴にゃ」

そう言ってそれは、作業台の上に軽やかに飛び乗る。私はそれの一挙一動に情けなくびくと反応をする。

「さっきは空腹で喋れなかっただけにゃ。困った事に、ここ三日くらいろくな食べ物にありつけなくて死ぬかと思ったにゃ。アンタのおかげで助かったにゃ。美味しいご飯をありがとうにゃ」

「いや、私は別にそんなつもりじゃ。というか猫に礼を言われる筋合いはない」


人間の慣れというものは怖いもので、私は徐々に呼吸も安定し始めそれを認識し始めようとしていた。一体何と話しているのかという疑問さえ、考えないように努めた。

「それで、さっきの質問の答えにゃけど」

「さっきの質問?」

「そうにゃ、何故猫が喋るかとアンタは聞いたにゃ」

「答えがあるのか」

「答えというよりかは真理にゃ。言葉を喋る猫は吾輩以外にもいる。というか案外皆喋っている。人間が猫に耳を貸さないだけにゃ。まあ、猫の中にも人間の言葉が分からにゃい奴もいるが…。人間だって英語が喋れない奴もいるにゃろ?それと同じにゃ」


猫が人間の言葉を喋るのと、人間が英語を喋るのとは訳が違ってくると思うが、私は何も言わずにおいた。私は握ったままのおたまをそっとシンクの上に置いた。それにしても随分と口達者な猫である。それから少々気位が高い。もしかして中身は人間なのかもしれない。どこかでそんな物語を読んだ事がある。それは児童書で、挿絵には可愛らしい猫の絵が描いてあった。実際に生身の猫が喋るとなると、得体の知れない感情が沸き起こる。

「猫が普段から喋っていたとは知らなかった。本当に皆喋っているのか?」

「喋っている。少なくとも人に飼われる猫は皆喋っている。一つ賢くなったにゃ」

「そうか、だが、ここに居座られても困る。私はお前を世話する事が出来ないんだ。もう腹もいっぱいになって気が済んだだろう?出口はあちら側だ。さようなら、不思議な猫。私は仕事に戻るとするよ」


このまま話していても埒が明かない。私は台所から出て自分の仕事部屋へと戻る事にした。だが、私の行く道にそれが立ち塞がった。私は喉をひくりと鳴らし、一歩後ずさった。

「何だ、そこをどけ。もう要求には答えただろう」

それが小さな前足で一歩一歩、私に近づく度、こちらも一歩一歩後へ引き下がる。

「そうはいかないにゃ。吾輩は借りた恩はきっちり返さないと嫌なタイプでにゃ。アンタに恩返しをさせて欲しいにゃ」

「恩返し?いらん!間に合ってる」

「まあまあ、そう言わずに。吾輩はこう見えても幸運を呼ぶ猫なのにゃ」

「幸運を呼ぶ猫?」

「その通りにゃ」

「幸福を呼ぶ猫なのか何なのか知らんが、こっちはお前が来た事でもの相当なストレスを感じている所だぞ」

「アンタって奴は悲観的な人間だにゃあ。生きてて楽しいのかにゃ?」

「猫なんかに言われたくない!いいからそこをどけ」

「はい、と言うまで離れないにゃ。吾輩の言う事を信じても損はないにゃ。アンタの人生アドバイザーとして毎日を楽しく過ごせる術を教えてあげるにゃ」


猫の人生アドバイザーなど馬鹿げている。当然断るのが普通である。しかしこの猫、一向に私の目の前から退いてくれる気配がしない。それどころか、長細い尻尾をくねくねと揺らしながら私の足元に擦り寄ってきた。私は一気に背中にぞわぞわと震えが走った。これ以上耐えられる自信のない私は、本意ではないが、適当にその場をやり過ごそうと、気のない返事をした。

「ああ、分かった分かった。だから一旦離れろ」

それは大人しく私の元から離れた。私はすぐさま洗い場に置かれていた布巾で、足首を拭った。


「吾輩を汚いもの扱いするにゃ。いくら猫でも傷つくにゃぁ」

「汚いだろう。お前らは平気で虫を咥えるし、どんなバイ菌がついているかわかったもんじゃない。それで、何だったか。確か人生アドバイザーだったか?」

「そうにゃ。特別に今回はタダで、吾輩がアンタに人生を楽しく生き抜く術を教えてあげるにゃ」

タダでも、小判が何枚かかろうとも、私はごめんだ。うんざりと眉を寄せながら、私は足元のそれに言った。

「猫の人生アドバイザーなんて聞いた事もありゃしない。第一、猫に教えて貰う事なんて私には一つもない。そもそも悲観的で何が悪い。猫には分からんだろうが、人間の人生とは基本的に暗いものだ。どんな陽に照らされきらきらと光って見える水面でも、潜ったそこに澱んだ深い影が潜んでいる。皆はそれに気づかないが、私は気づけているだけ良い方だ」

それは一瞬黙って、納得したかのように思えたがすぐに口を開いて、

「本当に面倒臭い事ばっか考えてるにゃぁ」

「うるさい。分かったら出て行け。私には幸運なんていらないから。今この人生で満足しているんだ」


そう言って、手の平でしっしとそれと追い払おうとする。そして、ようやくそれが背中を向けて出て行くかと思った時、廊下から、外気の纏わりついた花谷さんの声が聞こえてきた。

「ただいま帰りました。旭田先生、誰かそこにいらっしゃるんですか?」

「まずいっ。花谷さんだ。一先ず隠れろ」

私は慌てて、それを作業台の下へと誘導した。それは私の言う事を聞いて素早く作業台の下の影に身を隠した。買い物袋の乾いた音がすぐそこまで聞こえ、のれんから花谷さんが顔を覗かせた。


「旭田先生?台所にいらっしゃるの?」

私は咄嗟に不自然な笑顔を作った。

「少し小腹が空いてしまって」

「すみません。私が魚を買い忘れたばっかりに。今回はきちんと忘れませんでしたから」

花谷さんは台所の中に入ってくると、作業台の上に買い物袋をどさりと置いた。

「タイムセールをしてたから、色々と買っちゃいました。私ったら、とことん運がいいわぁ」

朗らかに笑いながら、スーパーの袋から生魚や、その他にも何十パーセント引というシールの強調された食品類を次々と出して、冷蔵庫にしまい始めた。中身があんな状態なのに、よく入るものだと私は感心した。


「先生、魚は直ぐに焼いてしまいますか?」

「いや、今は…いい。後でいただく」

「そうですか?でもさっきお腹が空いたと仰りませんでしたか?」

「……急に、お腹が痛くなって」

「え!?お腹が痛いって大丈夫ですか?ストレスかしら。奥から薬を持ってきましょう」

「いや、いい。直ぐに収まる」

「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。あまり心配するな。私は子供じゃないんだぞ」

花谷さんはそれでも、私の方を心配そうに見つめている。私は何とか平静を装う為、必至に表情を緊張させた。

「ならいいですけど、無理はなさらないで下さい……あら?」

花谷さんが、くんと鼻先を辺りに向け始めた。その仕草に私は動揺した。

「どうした」

「何か匂いません?」

「いや、私には何も匂わないが」


全く、普段私について察しが悪いくせに、何故こういう時に限って勘がいいのだ。

(頼む、作業台の下の猫には気づかないでくれ)

私はそう願った。すると花谷さんは何かに気がついたように床を見つめた。

「あら?何でこんな所に皿が落ちてるのかしら」

(しまった!隠すのを忘れていた)

私は私自身の詰めの甘さを呪いたくなった。床の上には先程、私が驚いて落とした皿と食べ残したトウモロコシが落ちている。花谷さんは両手でそれらを拾い上げると、眉間に皺を寄せて首を捻る。

「トウモロコシ……?これ、先生がお食べになったんですか?」

「え?ええまあ。ほらさっきお腹が空いたって言っただろう」

「台所で……ですか?」

私は咄嗟の言い訳が思いつかず、つい黙りこくってしまった。そうしているうちに、花谷さんが閃いたように言った。

「分かったわ。この台所に」

緊張しながら、花谷さんの次ぐ言葉を待っていた。

「泥棒がきたのね!」

ほっと胸を撫で下ろした。花谷さんはそれから甲高い声を出して。忙しく台所の周辺を見た。

「もうやだぁ。何も盗られてないわよね。先生はご無事でしたか?」

「ああ、私は大丈夫だ」

「すみません。私が留守にしたばっかりに」

「いいから、花谷さんは少し向こうで休んでおいで。ここは私がやるから」

「え、先生今何て……?」

花谷さんはお化けでも見たかのような表情を浮かべた。

「ここは私がやるから、休んでいなさい」

「先生に任せるだなんて悪いですから、私がやっておきます」

花谷さんは作業台に近づいていく。途端に、それの鳴き声が作業台の下から聞こえてきた。

「みゃぁぁ」

「あら?今の声は何かしら」

「今のは私の声だよ。にゃぁぁっとね。最近猫に関する話を書こうと思っていて、それで猫の物真似をして、深く猫の気持ちを探ろうとしている所なんだ」

「ああ、そうだったのですね。良かったです。書きたい題材が見つかって」

「そう。だから気分がいいんだ。今は。たまには私も善行をしたいと思っていてね」

私の言葉に花谷さんは、笑顔を浮かべて皿を洗い場に置き、食べ残しのトウモロコシを三角コーナーへ処理し、蛇口の水で手を洗ってからその微笑みを私に向けた。

「それなら、たまにはお願いしましょうかしら」

私は気が変わらぬうちに、花谷さんの肩を掴んで押し、速やかに台所から立ち去って貰おうとした。だがそこで、事件が発生した。作業台の下からそれが勢いよく飛び出してきたのである。花谷さんは驚きの余り悲鳴を漏らした。それは獣の本能剥き出しで何かを追っているようだった。その相手を一瞬だけ捉えると、どうやらそれが追っているものは小さな蜘蛛のようだった。それは一心不乱に、蜘蛛を追って台所を滅茶苦茶にした。花谷さんは口をぽかんと開けてその状況を見ている。流石にこの状況には私もお手上げで、何も言う事が出来なかった。

「ああ、全く…」

「先生、これは一体どういう事ですか?何故猫がうちに?」

私は観念し、花谷さんに事のあらましを話す事にした。




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