不思議猫のパン

白宮安海

第1話 パンとの出会い

ここに、文学を愛する孤独な男が居る。名前はアサヒ。いや、正確には旭田陽二という名前がある。何故アサヒと呼ばれるようになったかは、これを話すとまたヘンテコな理由がある。理由を話せば長くなる。読者諸君には出来るだけ敬意をもって伝えなくてはならない。しかしそれは私のやり方で。それが現れたのは去年の初夏の事だった。


連日の天候は、機嫌がよろしくなく、まるで女子供のようにころころと表情を変えていた。初夏のじめついた空気に私の心も曇っていて、仕事机の前にて腕を組み、胡座をかいた足で貧乏揺すりをしながらまっさらな原稿用紙のマス目を恨めしく睨んでいた。

無精髭を撫ぜてから、私は普段の儀式を行った。瞼を閉じ、肺からたっぷりと息を吸って吐く。そうして目を開くと、白いマス目に勢いよく筆を走らせる。


時として精神は色濃い海の奥底へと沈み、照らされる太陽の光にのみ人は希望を――。


私はそこまで書いて筆を止めた。それから勢いよく原稿用紙を丸め、後ろの方へぽいと投げ捨てた。

(駄作だ、駄作の極みである。全く嘆かわしい。私には才能がない。ああ、こんな下らないものを書くだなんて死んでしまいたい)


私は畳の上に仰向けで寝転がり、手足を伸ばした。そして誰も見ていない事を良い事に思う存分に駄々をこねる。

「あーっ!くそ!くそ」

おやつを買って貰えなかった子供のように、手足をじたばたと忙しく動かす。そうしているうちに余計に、惨めになって、情けなくなって、ついには死ぬ気力さえ無くなって、何分後かには全ての行為を止め、ぼうっとただ天井を眺めるだけになっているのである。


かと思えば衝動的に立ち上がり、腐り切った脳みそから何とかアイディアが思い浮かばないかと、ヒノキの床柱の前に立ち、「私は天才だ。私は天才だ。私は」と言いながら頭を打ち付けてみたり、膝裏を伸ばす体操を交互に繰り返してみたり、再び仰向けになって開脚をして全身の血を巡らせてみたりする。


そうこうしているうちに、襖の向こうから穏やかな、それでいて快活そうである

女性の声が聞こえてきた。

「失礼します」

私は急いで、何事も無かったかのように机に向かうと筆を握り、息を整えてから冷静に言い放った。

「入れ」

静かに襖が横に開くと、小柄でふくよかな六十代位の女性が入ってきた。その人は家政婦の花谷さんだった。人の良さそうな笑顔を浮かべ、昭和さながらの真っ白の割烹着を身にまとっている。両手にはお盆を抱え、その上に昼食の白飯、煮物やお浸し、味噌汁などといった食べ物が乗せられている。


花谷さんは慣れた動作で私の部屋の中へ入ってくると、傍にやって来て腰を落とした。それから刻み込まれた皺の手でゆっくりと食事を机の端に運んだ。

「旭田先生、またアイディアが浮かばないんですか?」

「風の鳴く声が私にアイディアを囁いてくれると助かるんだが、そうもいかんだろう」

「ここの所天気が安定しませんしねぇ。少しは外にでも出てみたらどうですか?ほら、今日はとてもいい天気ですし、何かいい案でも思い浮かぶかもしれませんよ」

花谷さんは、障子の向こう側の、日当たりのいい庭へ続く大窓を眺めた。私はそれをちらりと一瞥するだけに留めた。


(これだけ一緒に歳月を過ごしているにも関わらず、この花谷さんという人は、まるで私の事を何一つ分かっていない)

「外に出る?この付近の連中は皆私を変人扱いしているんだぞ。現に私が外へ出ると、近所の奥さん方は指を差してこそこそと噂話をしているのが聞こえる」

「それは先生の妄想です。先生の事を気にしている人は、案外少ないものですよ」

(妄想などではない。事実そうなのだ。楽観主義者もここまで来ると最早尊敬に値する)

私は腕を組みながら、既に討論する気も起きず、唇を結んだ。

「全く先生は頑固なんですから。どうぞ、召し上がって下さい。冷めないうちに」

花谷さんは、呆れ返るように言いながら、私に昼食を勧めた。しかし、私はまだ納得がいかず、箸を手に取らずに言い返した。

「例えそれが妄想だとしても、私には世間というものに、どうも上手く馴染める気がしないのだよ」

「先生は人嫌いし過ぎなんです。外に出るか出ないかは先生の自由ですけど、窓くらい開けたらどうですか?太陽は誰の噂もしませんよ。それに、浴びるのはタダなんですから」

花谷さんは茶目っ気たっぷりに語尾を弾ませた。

「太陽か…私は月の方が好きだ。太陽はいつも私を敵意している気がしてならない」

「またそんなおかしな事を言って。太陽が嫌ならどうして旭田だなんてペンネームを付けたんですか」

私はようやく、箸を手に持って、

「何故って、太陽が私を嫌うなら、いっそそのものになってやろうと思って」

「ひねくれてますねぇ」

花谷さんがそう言い残して出ていこうとし、私は横にずれて食事に手をつけようとした。

(どだい私は生まれながらに孤独なのだ。世の有象無象達に何を言われても一向に気にならない。それよりも私は、今は目の前の好物の焼き魚を食う事に専念したい)

私は皿の上の焼き魚に箸を伸ばした。しかし、肝心な事に気がついて、すぐさま花谷さんを呼びつけた。

「おい、無いぞ」

「何がですか?」

「何がって、あれだあれ。私の好物の…」

花谷さんは、一瞬目を丸くしてから、直ぐに朗らかな笑顔になり、

「ああ!焼き魚ですか?すみません、今日は色々とやる事が多くて買い忘れちゃって」と言った。

「毎日買っているのに何故忘れるんだ。私はあれがないと、頭が上手く回らないんだから、無いと困る」

「本当にすみません。これから買いに行ってきますから」

花谷さんは深く頭を下げてから、襖を開いた。部屋を出てから襖を閉じる前に花谷は尋ねてきた。

「旭田先生、他に何か必要なものはございますか?」

「特にない。強いて言うなら甘いものがあったら嬉しい」

「はいはい。分かりました。それでは行ってきます。ごゆっくり」

花谷さんは少しだけ微笑んで、襖を隙間なく閉じた。


また部屋に一人となった私は、白米を箸で突っつきながら、おかずと一緒に食した。

(全く、どうして皆私の事を理解してくれないのだ。世の中は間違っている。私ばかりがいつもこんな不当な仕打ちを受けている)

そんな事ばかりを考えながら、結局私は食事を半分残し、花谷さんが帰ってくるまでの間、再び貧乏揺すりをし、作業の続きをする事にした。原稿用紙には未だに何も書かれていない。時間が経てば勝手に文字が浮き出てくれるかと期待はしたが、そんなふぁんたじーは現実には起こらない。堂々巡りをしているうち、私の心は段々と、苛立ち始めた。

窓を眺めながら花谷さんの言葉を思い出す。真昼間の白すぎる空が、向こう側を霞ませる程に眩しい。いっそ雨でも降ってくれればいいのだ。そうすればこれ以上太陽が私を睨みつける事も無いだろう。


そうこうして、いつもは眺めないような外の景色ばかりに視線を向かわせていると、太陽がまるで私に文句を言ってくるように思えてくるのだ。直視出来ない光の中には、にやにやと私を嘲り笑う顔を隠している。そんな気がしてくる。

こうなると私はもう駄目なのだ。集中の糸が切れ、仕事などもうどうでもよく、奴に反論したくて仕方なくなる。


ついに観念し、髪を掻き乱しながら勢いよく立ち上がると、窓の方へと向かった。まずは手前の縁側に立って、太陽を睨みつけるが、それではほとんど効果がない。なので私は床から天井までの大きな窓を横に開いて、直接文句を言うのである。

(この太陽め、お前の明るさが私は嫌いだ。頼んでもいないのに、身勝手に何でも照らしてくれやがって。それも、しつこく毎日やって来る。私はお前の顔など見たくないのだ。分かったのならさっさとどこか遠くへ行ってく()


しかし太陽はしんとして何も答えない。代わりに私の耳に聞こえてくるのは、緑に覆われたブロック塀の向こうから聞こえてくる、自転車のベルの音と、お隣同士の挨拶、それから子供の声だけである。私は思わず鼻で笑って、

「相変わらず俗世は騒々しい」

と呟いて、何もかも馬鹿らしくなり、部屋に引き返そうと窓に手をかけた。その時、何とも弱々しくか細い声が、私の鼓膜に届いて、思わず手を止めた。

「にゃぁー」

と、一つ。そしてまた、

「にゃぁにゃぁ」

と鳴く。声を聞いただけで、すぐにあの獣がいるのだと分かった。それからも立て続けに、その獣は鳴き繰り返す。

「にゃぁー」

「全く、うるさいったらない。この庭に紛れ込んできたのか。まあ、私には関係がない事だ。さあ仕事に戻ろう」

私は興味薄弱気味に窓を閉めた。猫などに構っている暇などないのだ。再び私は胡座をかいて机と向き合った。


(結局、何の収穫も得られずに、単純に太陽の嫌味な光を浴びせられただけだった)

溜息を吐き、筆を握る。一マス目に筆先を当てた時、またもやしつこくあの鳴き声が聞こえてきた。

「みゃぁみゃぁ」

始めは私も無視をしていたが、おおよそその鳴き声が止む気配もないので、私は苛立ち沸き上がり机をばんと叩いて立ち、「何だよ!もう。集中出来ないだろう!」と、怒りを露わにしながら強く畳を踏み締め向かい、乱暴に窓を開けた。


そこで、私はその鳴き声の犯人を探すべく庭中を見渡して、縁側の下まで覗き込んだ。

「どこだ?どこにいる?隠れてないで出てこい」

そこには予想通り、それの姿があった。暗闇の中に、うっすらと顔の輪郭と目が見える。

「こんな所にいたのか。おい、野良猫。そこに居られると困るんだ。ほらこっちに来い」

私は手招きをした。しかし、それは出てくる気配がない。

「どうした。こわくないぞ。こっちに来いったら」

余りにもその行為に、夢中になり過ぎていて、私の体は酷く前傾姿勢になっていたらしい。ひょうきんな事に、地面に向かってくるりと一回転ひっくり返りながら落ちてしまったのである。


「うわあ!」

その隙を狙ってか、私の顔の上に、獣の足が素早く通る。いくらか弱き者とはいえ、これには私も憤慨した。

「この阿呆猫め!」

上体を起こそうとするが、不幸な事に腰を痛めてしまった。全く、不運続きだ。

やるせない気持ちで、私は太陽に八つ当たりした。

「くそ、何が太陽だ。おい、何がおかしい。遠くから燦々と私を嘲笑うがいい。散々だな、ったく」


それでも当然の事ながら、気分は晴れなかった。腰をいたわるように体を起こすと、それは私の事を小馬鹿にでもするように見つめている。

「何を見ているんだ。ああ、わかったぞ?さては餌が欲しいんだな。だが、あいにく、私はそんなにいい人間ではない。私はこの世で一番猫が嫌いなんだ。可哀想だが、どこか他の、私よりもずっと心の広い人間がいる家へおゆき」

しかしそれはその場を動く事はなかった。私は放っておこうと、腰を抑えて立ち上がり、部屋へと戻ろうとした。

「無視か。まあいい。私は知らんぞ。お前がどうなろうと知ったこっちゃない。これで私とお前はさよならだ。いい家を見つけてこいよ」

「みゃぁ」

と、それは鳴いた。分かったという事なのだろうか。どうでもいい。とにかく私は再び部屋に上がり、窓を閉めた。

「猫にまで私は馬鹿にされるのか」


昼食の焼き魚を食べ損ねた事から、私の今日の一日の不運が決まってしまったかのようだ。きっとこのまま一日の終わりまで悪い事が続くのだろうと思うと、何もやる気が起きなくなってくる。

私は振り返って仕事に戻ろうとした。だが、そこには信じられない事に、それが居たのだ。

「うわあ!!なんだ」


畳の上に確かにそれが存在している。さっきしっかりと窓を閉めたはずなのに。私は驚いて後退りをする。

「みゃぁぁ」

私とは対照的にそれは、極々平凡な動作で、前足を使い耳をかいている。

「いつの間に入ってきたんだ」

「にゃぁご」

「ああもう、早くここから出ていけ!お前にあげられるものなんてうちには無いんだよ」

「にゃあ」

聞いているのか聞いていないのか、それは気の抜けるような返事をした。私は痺れを切らして、それに近寄ると両手で脇を抱えて、窓の外へと追いやった。

「何故私がこんな事をしないといけないんだ」


上手いこと庭の外へ追い出す事に成功し、私は安堵の息を吐く。ばっちいものを触ってしまった為、自分の着物から菌が落ちるように叩く。しかし振り返ると、そこにはまたそれの姿がある。


「うわあ!吃驚した。何故居るんだ!さっき確かに庭に放り投げたはずだぞ」「にゃぁ」

(どうやらこの猫は私から食い物を貰うまでは帰る気がないのだな)

私は仕方なく、それに帰って貰う為に台所から適当な食い物を探しに行ってやる事にした。部屋を出て長い廊下を歩いて台所を目指す。私の後ろをそれはついてくる。私は振り返って、それに言った。

「いいか?食い物をやったら帰るんだぞ。分かったか?」

「にゃあ」

(何とも面倒な事になった。私は猫などこの世で最も嫌いな動物なのだ。それが今私の家を徘徊していると思うとぞわぞわと栗肌が立つ)

私はつい身震いをした。早い所食い物を与えて追い出そうと、廊下を歩く足を無意識のうちに速めた。


正直、私は家事など一切しない。つまり料理などはもっての他である。その為普段台所に入る事など滅多にない。全て家政婦の花谷さんに任せているのだから当然だ。なのに今私は、足元にいる何とも不気味な生き物の為に未知の領域へ足を踏み入れようとしている。誠に不本意である。

私はそれをつれて台所へとやって来た。台所は、廊下から横開きの扉で仕切られている。扉を開いて中へ入る。

極々家庭的な光景が目の前にある。別段変わった所もなく、平凡。調理器具も使い古されているものが多く、安物といった印象だ。洗い場や、冷蔵庫の扉、至る所に花谷さんの性格が滲み出ている。


一つ問題がある事に今更ながら気がついた。猫は一体何を食べるのだろう。よく見かけるシチュエーションとしては魚がベタな所だろうが、あいにく私は魚を調理する事など出来ない。他に考えつく事はミルクだろうが、私はどこかで、人間のミルクは猫には害だと聞いた事があった。そうなると、猫が食えるものといえば他に何があるのか全く思いつかない。

悩んだ末にとりあえず、私は冷蔵庫の中を探す事にした。

冷蔵庫の中は、食品で溢れかえっていた。一つ手に取れば今にも雪崩が起きそうな状態に、詰め込まれている。それを見た途端私はげんなりして、直ぐに扉を閉めた。

足元の猫がみゃぁみゃぁと鳴いている。


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