それでは若様。こちらは如何でしょう

 軋みが聞こえる。規則正しく刻まれる音は、正確無比に音を連ねていく。

 硬質な音は絶え間無く、しかし途切れを繰り返す。そして、水音が響き、着火の熱が放たれる。


 刻んだ具材を放り込んだ鍋の中身を見て、熱を具材に通していく。

 対流による泡が、水面に波と僅かな飛沫を立てるのを確認してから、弱火に切り替えて蓋を閉じる。


 次に彼女が目を向けたのは、オレンジの灯りの灯るオーブンだ。鉄の腕に火傷の心配は無く、しかし汚れの防止の為にミトンを着け、オーブンの蓋を開ける。

 香辛料と数種のハーブに漬け込まれた肉塊は、オーブンの中で焼かれるのではなく、遠火で熱を芯に差し込まれていた。

 彼女は長い鉄串を手に、その先端に肉塊に刺し込んでいき、引き抜いた。

 肉汁と脂で光を照り返す鉄串を、形と色の良い唇に軽く当てる。


「あとは余熱ですね」


 言って、オーブンの火を落とす。肉に合わせるソースは、既に出来て冷蔵庫で寝かせてある。

 スープも後は具材に火が通るのを待つだけ。前菜、サラダ、ドリンク、デザート、後は全て盛り付けるだけとなり、テーブルクロスも皺一つ無く、その下に隠れたテーブルも、姿が映る程に磨き上げた。無論、食器に曇りが無いのは当然である。しかし、彼女は侍女である。


 玄関から部屋にまで繋がる廊下、そこに敷かれたカーペットに汚れと皺が無いのは当然とし、塵一つ許す事は無い。

 屋敷内を彩る調度品は、季節に合わせた色合いを、そしてその位置と角度に歪みは無く、花瓶には庭園から摘んできた季節の花を生けてある。


 屋敷内に不備は無い。後は庭園、落ち葉は掃き捨て、雑草は抜き整地し、芝生は刈り揃えた。

 花も色褪せたもの、形の悪いものは全て摘み、盛りの花だけを残した。


 後残るは何か。客室もベッドメイクは済ませ、屋敷の窓も残らず拭いた。娯楽室はビリヤードの器具も、ダーツの矢と的も手入れを済ませてある。書庫も埃を払い、虫干しをして虱や紙魚も駆除を済ませ、書物の手入れと整頓も完了している。

 ペンもペン先を取り替え、インクも新品に、紙もそうだ。

 不備は無い。

 その筈なのに、何か引っ掛かる。外套の裾を払い、居住まいを正す。


 さて、一体何を抜かっているのか。侍女たる者、常に完璧を実践し、更に磨きを掛けなければならない。であるならば、今現在の己はどうなのか。

 愚問。己が仕事に疑惑を持った時点で、侍女としては失格となる。という事は、今現在の不備を感じている己は、侍女失格となる。

 ならば、早急に不備は解消しなくてはならない。


 彼女は即座の行動として、鍋の火を落とし、ピアノが置いてあるホールへと向かった。その道中、僅かにズレたカーペットや調度品を直し、ホールの扉を開ける。

 天井の天窓から注ぐ陽の光に照らされて、黒いピアノが鎮座していて、一人の人影があった。


「若様」

「やあ、おはよう、かな?」


 ピアノの側に主が立っていた。上質なシャツにベストを羽織った彼は、普段と変わらぬ笑みを浮かべていた。


「掃除だったんでしょ? ゴメンね。調律しててさ」

「いえ、問題ありません」


 ちらりと、鍵盤の方を見れば幾度となく、書き直された楽譜があった。


「若様、お飲み物は如何でしょうか」

「うん、そうだね。甘いお茶が飲みたいかな」

「畏まりました」


 一礼し、ホールから下がる。

 扉を閉めて、彼女はキッチンへと向かう。主からの要求は甘い茶、季節的に冷えたものは好まれない。

 戸棚を開き、茶葉を詰めた缶を選ぶ。甘い茶ならば、渋みや苦味よりも香りが強く、茶葉本来の味がはっきりと感じられるものがいいだろう。

 そして、冷蔵庫を開く。ドアポケットには、幾つかの瓶が並び、その中に一つ、銀の入れ物があった。

 彼女はそれを陶器のポットへ移し、湯を沸かす火の近くにポットを置く。暖めるのではなく、常温に戻す。冷たい牛乳では、カップに注いだ時に茶が冷えて、味も香りも落ちてしまう。

 ミルクティーではなく、酪茶というものもあるが、あれにはバターが必要になる。そして、今はそれに使えるバターが無い。


 湯が沸き、ティーポットの茶葉に高くから注ぎ入れる。高くから叩き付ける様にして注ぎ、湯と茶葉と空気を撹拌していく。予め暖めておいたカップ、砂糖を入れた器、そしてミルクポットをトレイに乗せたカートを、無駄に揺らす事無く、彼女は僅かな義腕の軋みだけを響かせて、主が待つホールへと向かう。


「若様、お待たせ致しました」

「……有難う」


 ピアノの前で主は、少しだけ疲れた顔をしていた。


「本日は甘い茶を、との事でしたので、ミルクティーをご用意致しました」


 外套から伸びた鋼の義腕を軋ませ、牛乳を入れたカップに紅茶を注ぐ。キッチンからホールまで、茶葉が泳ぎ開く時間は十分にあり、ミルクに負けない濃さに抽出されている筈。

 そして、ポットから注がれる液体は、彼女の予測から外れず、その名に恥じぬ濃い紅色だった。


「いい香りだね」


 濃い紅色に白が混じり、強い香りに甘さが混じる。


「それに味も……、うん、甘いや」

「本日は帝国産の牛乳の中でも、特に乳脂肪の高い低温殺菌を使っております」

「それでかな? 砂糖が少なくていいのは」

「若様の仰る通りかと」


 僅かな軋みと茶器の音、そして外から聞こえる風の音。季節は冬が近付いている。


「ねえ、ピアノを弾いてよ」

「畏まりました」


 主の言う通りに、彼女はピアノの前に座り、鋼の手指を鍵盤に置く。今目の前にあるのは、彼女がよく弾く曲だ。

 ゆっくりと、しかし確かに、譜面を目で追い、音を奏でていく。

 少年は彼女が奏でる音に耳を傾けながら、カップを傾けた。


「うん、やっぱりね」

「若様、どうかなさいましたか?」

「やっぱり、上手くなってるよ」


 晩秋の陽射しが差し込むホール、陽射しを反射する金糸の様な髪の彼女を見ながら、彼は嬉しそうにそう言った。

 その視線の先には、僅かに頬を赤らめて驚いていた彼女が居た。

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