それでは若様。御同行致します
「演奏会、で御座いますか」
「うん、予定していた演奏家が、急病で来られなくなったらしくてね」
夏の暑さが過ぎ始め、風に涼しさが混じり始めた頃、そんな話が屋敷に舞い込んだ。
彼女が淹れた茶を楽しみながら、少年は言葉を続ける。
「先の停戦からの、両国親睦の為の演奏会だから、プログラムに穴は開けられないってさ」
「……私としては、この様な杜撰な警備体制の演奏会に、若様が参加されるのは……」
彼女は会場の見取り図を見ながら、少年に苦言を呈する。義腕で持つ見取り図を、彼女は一体何処から手に入れたのか。
問いたくはあったが、侍女ならば当然の事と、当たり前に返されるに決まっている。少年はおおよそ彼女の出自に検討が付いていた。
「まあ、それでも、国からの依頼だしさ」
「……畏まりました。私も同行致します」
「いや、国から護衛は出るよ?」
「若様、私は若様の侍女に御座います。若様が向かう場所に、私が同行せずしてなんと致しますか」
何時に無く強情な彼女に、少年は少し思案する。家柄として、侍女の一人や二人連れていてもおかしくはない。
しかし、国からも護衛が出て、彼女も同行するという事は、護衛の負担を増やすという事になりかねない。
だが、彼女の事だ。一度決めれば、彼女は必ずやり遂げる。つまり、少年に同行すると言ったからには、必ず同行する。そういう事だ。
それに、少年は彼女の意見に反対している訳ではない。
「分かった。じゃあ、そのつもりで準備を進めて」
「畏まりました」
恭しく頭を下げる彼女、少年は彼女に、出来るだけ多くの演奏を聴かせたい。そう思っている。なので、今回の演奏会は実に良い機会だ。
「それじゃあ、今日の練習しようか」
「はい」
この屋敷の自慢である、少しだけ古ぼけたピアノのある部屋に向かいながら、少しだけ想像してみる。
様々な演奏家が奏でる旋律に、心踊らせる彼女。多分、こちらが気付いていないだろうと、鋼の手指を手繰り、空の演奏をするのだろう。
その光景を思い浮かべると、少し可愛らしかった。
「若様、どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもないよ」
ピアノを前に、首を傾げる実際の彼女は、本当に可愛らしかった。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
一定間隔に軋む、線路と車輪の音と震動が、客室を揺らす。上質な客室には、あまりその震動は伝わらないが、音は確かに規則的に伝わる。
窓に写る景色は、絶え間無く次々と移り変わり、ゆったりとした客室とは違い、忙しない印象がある。
「若様、お加減は?」
「ああ、うん。大丈夫」
初めてに近い列車での長時間移動に、少年は酔っていた。
「列車って、どうにも慣れないね」
「左様で御座いますか」
「君は?」
彼女に疑問する。すると、彼女は事も無げに答える。
「私、侍女ですので、長時間移動には慣れております」
「そうなんだ……」
胸に渦巻く吐き気と、全身を覆う脱力感と酩酊感に辟易しながら、少年は彼女の差し出す水の入ったコップを受け取る。口を付ければ、適度に冷たい水が喉を降りる感覚が、僅かに嫌な感覚を覚ましてくれた。
「乗り物酔いに、よく効く薬がありますが、如何致しましょう?」
「……うん、ちょうだい」
彼女は鞄から、薬包を取り出す。小さな紙の包みを、鋼の手指で解き、粉薬を開いた少年の口に、ゆっくりと落とす。
舌に染み込む強い苦味を、少年は急いで水で流し込む。一瞬、口内に水と温くなった苦味が広がり、飲み込んだ喉にも苦味が残るが、もう一度コップに残った水を飲むと、染み付いた苦味が消えていった。
「薬効が出るまで、もう暫くお待ちください」
「スゴい、苦いね……」
「ここよりも、遥か東方から流通する薬です。薬効に関しては、確かな評価があるもので御座います」
「そうなんだ」
その通りか、僅かに胸の嫌気が消えていく。そんな感覚があった。
「……若様、到着までまだ暫く時間がありますので、お休みになられては如何でしょうか」
「うん、そうだね。じゃあ、少し眠るよ」
ちらりと一瞬、客室の外に鋭い視線を向けた彼女は、少年に睡眠を提案し、少年はその提案に従い、客室にある寝台に横たわる。
すぐに聞こえ始めた穏やかな寝息に、彼女は恭しく一礼し、客室を後にする。
扉を閉め、外套に義腕を納めて、スカートの裾を摘まみ上げ、客室の前に居た人物に頭を下げた。
「……申し訳御座いませんが、若様はたった今御休みになられました。なので、御用向きは私が御伺い致します」
しかし、その言葉に返ってきたのは無言と、鈍く灯りを反射する刃物だった。
よく手入れされ、研がれた刃は、迷う事無く彼女の数少ない露出部分である首筋に向かうが、鋼の指が容易く刃を掴み、砂糖菓子の様にへし折った。
「……御客様、これより先は客室なれど、我が主がおわす場所です。この様な物の持ち込みは、固くお断りしております」
指に挟んだナイフを、驚愕に固まる客人の前で握り潰す。底冷えのする笑顔で握り潰された刃は、粘土の様に形を変え、前衛的な細工物となり、客人の上着の胸ポケットに返された。
「……っ!」
「他に御用向きは御座いませんか?」
底冷えのする笑みのまま、彼女は客人に問うと、客人は慌てた足取りで、騒がしく客人車から走り去った。
それを目で追い、辺りを見渡す。一度、溜め息を吐き、外套の中で連なった軋みが鳴った。
「だから、申し上げたのです。この様な杜撰な警備体制の演奏会に、若様を一人向かわせるなど、侍女の恥だと」
強く義腕を軋ませ、彼女は少年には見せない顔で、一度、通路の果てを睨み付ける。目的地となる会場までは、そう時間は掛からない。到着する頃には、主の具合も良くなっているだろう。
彼女は下車の準備を進める為、客室に戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます