それでは若様。本日の御予定は如何致しましょう

 夏の日盛りの庭、野暮ったい外套、照り付ける日光を反射する池、汗一つ流れない白磁の肌、喧しく勘に触る虫の喚き声、乱れのない金糸の髪、青々と生え茂り生命の強さを伝える木々、僅かに残る夜露を弾く鋼の両腕。


 茹だる様な暑さの中、とある屋敷で常に変わらぬ侍女が、庭の手入れをしていた。

 剪定鋏を片手に、伸びすぎた枝、虫に食われた葉、庭の景観のバランスを損なう枝葉を断ち切り、美しい景観に混じっていた異物を刈り払っていく。


 鋏のバネと、義腕の軋みが、夏の太陽の下に転がる。バチンと、若干太い枝を剪定鋏の強く分厚い刃が断ち切り、僅かに残る夜露が零れ落ち、渇いた土に染み込んでいく。

 白く渇いた土塊が、黒く染まり崩れていく。


「精が出るね」


 少年が新しい手拭いを二枚持って、庭に現れた。一枚を彼女に渡そうとすると、彼女は珍しく慌てた動きで、少年に駆け寄る。


「若様、その様な事をなさらずとも……!」

「ははは、今日はかなり暑いからね。ついでだよ」


 笑い、白い手拭いを手渡すと、非常に恐縮しながら、鋼の両手が動き、手拭いを恐る恐ると受け取る。


「それにしても、スゴいな」

「何がでしょう?」

「庭だよ」


 そう言って、彼が指し示す庭は、美しく刈り揃えられ、夏の花が咲き誇り、青々とした目に涼しい緑が、嫌味無く生え繁っていた。


「君が、毎日手入れをしてくれているお陰だ」

「……勿体無き御言葉です」


 一礼し、鋼の手を拭う。僅かにこびりついていた樹液が、白の手拭いに緑を染める。彼女はそれを恥ずかの様に、拭った手拭いを外套の中に仕舞った。


「しかし、今日は本当に暑いな」

「話によると、首都では昨年の最高気温を超えたとか」

「はあ、こうも暑いと、何処かに涼みに行きたくなる」


 デッキチェアに座り、シャツの襟を弛めて服内に風を送っていると、何時の間にやら彼女が団扇を手に、こちらを扇いでいた。軒の影に冷やされた空気が、団扇に扇がれ涼風となって、熱を持った少年の体を心地よく冷やしていく。


「君は暑くないの?」

「侍女ですので」


 涼やかな声が聞こえる。虫の喧しく耳に突き刺さる喚き声が、心無しか柔らかく聞こえてきた。そんな気がする。


「若様、何かお飲物を持ってきましょう」

「ああ、うん。夏蜜柑を貰ったから、それを蜂蜜と解いた、蜜柑水にしよう」

「畏まりました。少々、お待ちください」


 言って、軋みを残して彼女はキッチンへと向かう。二人だけだと広いが、実際にはそれ程広くはない屋敷だ。

 然程時間は掛からず、彼女は戻ってきた。


「御待たせ致しました」

「いいよ」


 サイドテーブルに置かれた、硝子のピッチャーの中に満たされた、僅かに濁った水の中に、たっぷりの透明な氷が浮いている。

 透き通った、とても涼やかな音を、硝子と氷が奏で、よく冷やされた蜜柑水が、硝子のコップに注がれ、その冷たさを実感させる。


「君もどう?」

「私は侍女ですので、お気になさらず」


 暑さを感じさせない声と態度で、やんわりと断られる。

 しかし、彼女が己をいくら侍女と言い張り、汗一つ掻いていないとしても、自分一人だけこうして涼むというのは、少年としては心苦しいものがある。

 この二人だけだと広い屋敷に、二人だけで住んでいるのだ。こうした時だけは、公私関係無く接してほしいとも思う。


「なら、僕一人で飲むには少し多いし、ちょっと後ろめたいから、その後ろめさを無くす為に、さ」

「……畏まりました。では、もう一つコップを用意して参ります」


 一礼し、もう一度キッチンへと向かう。静静とした足取りと、規則正しい足音。物音の少ない静かな屋敷の中では、自然の音と混ざり、一つの旋律の様に聞こえてくる。

 作っていない、自然に組上がった再現の出来ない旋律。それを聴けるという事は、何よりの贅沢なのではないか。

 少年は、汗をかいたコップを傾け、適度に甘酸っぱい冷水を喉に通す。溶けた氷が崩れ、水が揺れ動く音が混じり、再び規則正しい足音が、徐々に近付き音律を刻んでいく。


「大変御待たせ致しました」

「いいよ。さあ、冷たくて甘酸っぱくて、気持ちいいよ」

「あ……」


 鈍色の鋼の十指が包む様に持つコップに、よく冷やされた蜜柑水を注いでいく。


「若様、そこまでなさらずとも……」

「あはは、やりたかったんだ」


 少年がコップに口をつけ、側にコップを持ったままの彼女に、目配せで促す。


「それでは、失礼を」


 言って、薄紅色の唇が汗をかき始めていたコップに触れる。一口分の甘酸っぱい冷水が、僅かにすぼめられた唇を潜り、白く透き通る様な喉を下っていく。


「ね、気持ちいいでしょ?」

「……はい」


 僅かに、本当に僅かに、白磁の頬に薄い朱が差し込む。

 手指の枠で、その表情を切り取ると、彼女は恥ずかしそうに、コップを持ったままの両手で、顔を隠そうとする。


「若様、御許しを……」

「ごめんごめん」


 目付きの鋭い彼女に、睨まれる様に許しを乞われ、少年は手指の枠を解体する。

 それを確認した彼女は、両手を下ろし、コップをサイドテーブルに置いた。


「それでは若様。本日、午後からの御予定ですが、如何致しましましょう」

「何があったっけ?」

「本日は市長との会談と、綿花農場の視察となっております」

「そっか。じゃあ、準備をしないとね」


 少年はデッキチェアに沈めた体を起こすと、軽く伸びをしてから、自室へと向かう。

 その背に一礼し、彼女はサイドテーブルの上にあるピッチャーと、コップ二つを片付け始める。

 空になったコップと、まだ半分残っているコップ。ピッチャーの氷は、外気の熱もあり半分以上が溶けていた。


 彼女はそっと、己が持ってきたコップを、鋼の十指で包む様に持つと、温くなり始めていた蜜柑水を飲み干した。

 まだ確かな冷たさに、ゆっくりと息を吐き、冷水に冷やされていく胸に、両手を当て、


「……本当に心地好いです。若様」


 そっと、小さく呟いた。

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