それでは若様。本日の演奏を

 人気の無い広く、しかし手入れの行き届いた屋敷。

 そこには、不思議な侍女が居る。

 見目麗しい容姿に、楚々とした立ち振舞い、白磁の様な肌に金糸の如き髪、宝石を思わせる凛とした双眸。

 侍女としての態度を崩さず、常に主の側に仕える。


 そんな彼女だが、何故か全身を覆い隠す外套に身を包み、両の腕は全てを鋼で構成された義腕だ。

 鉄の軋みをあげる腕は、肘から先しか露出しておらず、その外套に隠された向こう側がどうなっているのか。それを知る者は誰も居ない。


「若様、仕上がりは如何でしょうか?」


 ペン先が紙の繊維に、インクを染み込ませ刻み付ける音が転がる部屋に、穏やかな声と僅かな軋みが聞こえた。

 軋みを落とす腕は、抱えたトレイから一つ、ティーカップを机に置く。


「ああ、うん。予定通りとはいかないね」

「左様で御座いますか」


 小さな軋みが聞こえ、外套から伸びる手が、ポットからカップへと、琥珀色の液体を注いでいく。

 カップに満たされていく液体が、立ち上がる湯気と共に、芳しい香気を運んでくる。カップの中程より上辺りまで、紅茶が注がれると、ポットを上げ一歩下がる。

 滞りなく行われる一連の動作、一歩下がった彼女が、浅く頭を下げると、カップに口をつける。


 香りに負けない味が、口に広がる。無言で控える彼女に目をやると、全身をすっぽりと覆い隠す外套が一番に目に入り、体の前で合わせられた鋼の両手が、鈍く光る。

 外は良い日和で、彼女の両腕は窓から差し込む日和を反射していた。


 作業は進まず、しかし特に期限がある訳でもない。外は実に良い日和で、紙とインクの匂いが充満した部屋よりは魅力的に見えた。


「では、準備をしてまいります」

「うん」


 彼女はその様子を察してか、空いたカップを片付け、外出の準備に向かう。軋みの音を僅かに残し、退室する。

 これと言って何も言わずとも、彼女はそれを察する。

 勿論、そうでない時もある。だが、殆どの場合、動作や様子、視線から、意図を察して行動に移す。

 最も侍女らしい侍女、それが彼女。

 ぼんやりと良い日和の外を眺めながら、彼女の準備が終わるのを待つ。


 彼女の準備に、そう時間は掛からない。前以て、先読みをしていたのではないかと、疑いたくなる程に早い。

 今日の準備も、きっと早いだろう。そう思い、窓から扉へ視線を移すと、ノックの音と呼び声が聞こえる。

 時計を見ると、長針は十もその目盛りを刻んでいない。


 彼女からすれば、これが当然であるのだろう。外出用の上着を羽織り、扉を開けば、変わらぬ外套姿の彼女が控えていた。


「行こう」

「畏まりました」


 屋敷から外に出れば、思った通りに心地いい陽射しと、適度な風が吹いていた。手を翳し、指の隙間から見る大陽は、降り注ぐ光よりも柔らかかった。

 芝生を踏み締めれば、緑の匂いが鼻に届く気がして、思わず鼻が動いた。

 動いた鼻に花が香り、目に花の色が入る。自然の極彩色一歩手前とも言える、春の野山の彩り。その光景に、ほんの少しだけ野暮ったい外套の裾が混じる。


 その風景を、手指で作った枠で切り取ると、凛とした佇まいと鋼の両腕が、春の野山に彩られ、野山に何処か浮き世離れした印象が生まれる。自然と人間、そして本来混じる筈のない人工物が、野山を強調し、その逆に野山が彼女を強調する。

 軋みが聞こえ、彼女が振り返る。


「良い画は、録れましたか?」

「ああ」

「それはよう御座いました」


 外套の中で、スカートの裾を摘まみ上げ、小さく頭を下げる。その動作も、一枚の画になり、もう一度枠を作り直して切り取る。

 野山にバックに、下地には池を敷き、その中心に目を伏せた彼女が、外套を僅かに膨らませ、お辞儀をしている。

 軋みを立てて、鋼の両腕が体の前で組まれる。


「若様、そろそろお屋敷に戻りましょう」


 彼女が言う通りに、空に雨雲が混じり始めていた。まだ小さいが、すぐに降り始めるだろう。

 湿りを含んだ風を感じながら、来た道を戻る。

 春の日は変わりやすく、一日に様々な顔を見せてくる。

 朝は冬の面影を、昼は春の麗らかを、夜は明日に続く冷たさを、目まぐるしく変わる一日の中で、変化に乏しい彼女を見ていると、いやに安心する事がある。

 髪を纏めるバレッタや、ブローチ等の襟飾りは、その日に合わせて変わるが、その変化は大きくなく、彼女自身の表情の少なさも相俟って、彼女は不変のものであり、彼女と共に居る自分も、同じく不変だと錯覚出来る。

 自分は違うのに、だけど変わる日々に、変わらない確かなものがあるという事に、なによりも安心を得られる。

 自分勝手に思えるが、それがなによりそうなのだ。


 屋敷に戻り、少しだけ古びたピアノの前に行く。ほんの少しだけ古びてはいるが、手入れが行き届き、埃一つ積もっていない。

 白と黒の鍵盤に、鈍色の指が乗る。軋む手指が僅かに動くと、押し込まれた鍵盤から音が鳴り始める。

 鳴り始めた音は、次々と積み重なり紡がれ、一小節の旋律と変わっていく。彼女は軋みを止ませず、それすらも一つの音階として、ピアノを弾いていく。

 まだ、楽譜通りの演奏、しかし今奏でられている演奏は、今しか聞く事の出来ないものだ。彼女の軋みも、ピアノの旋律も、窓を叩き始めた雨粒の音も、全ては今この瞬間、一瞬一瞬にしか聞けない彼女だけの演奏。


 その旋律を奏でる彼女を見ていると、もしかしたら彼女は、この世の者ではないのではないかと、錯覚してしまう。

 だが、その錯覚も彼女の旋律が違うと伝える。

 彼女はこの世の者で、確かにそこに居て、確かに部屋を満たす旋律を奏でている。


「それでは、若様。本日の演奏を」

「うん、もう一度」

「畏まりました」


 血の通わぬ鋼の手指が奏でる旋律は、他の誰もが奏でるそれよりも、遥かに命に満ちていた。

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