それでは若様

逆脚屋

それでは若様。今日よりお暇を頂きます

 僕が彼女に出会ったのは、ある春の晴れた日だった。

 どこか中途半端だった彼女に相応しい、どうにも晴れているのに、半端に黒い雲が浮かんでいる。そんな日だった。


「本日より、こちらでお世話になります」


 彼女は、見目麗しい容姿に相応しい声を持ちながら、それらに相応しくない両の腕と体をすっぽりと覆い隠す外套を持っていた。

 鋼の腕、皮膚から爪、骨に筋肉。何から何まで全てが、鋼で構成された腕。軋みの音を聞かせる両腕は、嘗ての僕の神経を逆撫でし、何時しか彼女の長い外套の裾を見るだけで、苛立ちが治まらなくなっていた。


 大嫌い。子供の僕には、彼女に対する感情はそれだけしかなかった。異物や異質な存在に敏感な子供には、鋼の腕を持つ機械の様な彼女を、恐ろしく感じたのだろう。

 金糸の様な髪を纏めた彼女を見付ける度に、子供ながらの嫌がらせをした。だが、彼女は何時も表情を変えず、無表情とは違う感情を感じさせない顔のまま、僕の側に仕え続けた。


 慣れたのか、諦めたのか、何時しか僕は彼女が側に居ても、苛立つ事が無くなっていた。嫌がらせをする事も無くなり、軋みの音に耳が嫌悪を捨てた頃、彼女がピアノを弾こうとしているのを見付けた。

 ぎこちない、指一本一本を確かめながら動かして、彼女は鍵盤を弾いていた。お世辞にも、その音は曲として成り立ってはおらず、外套から伸びる手が、漸く音を鳴らしている。そんなお粗末なものだった。


 一応、何をしているのかを問うと、ピアノを弾いてみたかった。そんな答えが返ってきた。

 軋みの音を立てて、外套の中に隠れていく鋼の腕。整った顔が、この時初めて悲しそうに見えた。

 だからだろうか。僕は彼女にピアノを教えた。


 初めは散々だった。基本の音階の練習中、ピアノの鍵盤が壊れるかと思う力で、彼女の鋼の指が鍵盤を叩いた。

 何時もより大きい軋みが、不恰好で不釣り合いな音階に混じって、実は態とやっているのではと、少しだけ勘繰りもした。

 だが、彼女の指が軋みつつも止まらず、真摯に楽譜と鍵盤に向かい合う表情から、そうではないと子供ながらに悟った。


 一日二日と、そんな日々を繰り返し積み重ね、何時だったか基本の音階の内始めの三音、それを軋み無く、釣り合いの取れた音で奏でられた時は、二人で喜んだ。

 跳ね上がる軋みの音が聞こえ、彼女はその喜びを隠す様に、外套の中に鋼の腕を隠した。

 この時改めて、彼女には感情があると、再認識出来た。


 春が過ぎて、夏が来て、秋を通って、冬に着く。

 その頃には、彼女は簡単な曲なら、軋み無く弾ける様になっていた。

 毎日毎日を積み重ね繰り返し、奏でる旋律からは、次第にそのぎこちなさが消えていき、鋼の手指が奏でているとは思えない程に、滑らかな演奏になっていく。

 僕は彼女に、演奏を教えるのが楽しくなっていた。


 暖かい日も、暑い日も、涼しい日も、寒い日も、二人で広い屋敷で過ごし、野山に出て、帰ってきてはピアノを弾く。

 そんな日々を繰り返し過ごしている内に、僕は彼女の表情の変化が解る様になっていた。


 実は彼女は、表情豊かだったりする。変化は非常に僅かだが、よくよく見れば、目元や口元や頬に変化がある。

 驚いたりすると、切れ長の目を僅かに見開いて、口が真一文字になる。

 怒る時は、鋭い目を更に研ぎ澄ませて、への字口になる。

 嬉しい時は、目尻を下げて、口角が上がる。

 悲しい時は、僅かに瞳を潤ませて、下唇を噛み締める。


 彼女の変化は本当に僅かだ。何時も変わらず、金糸の様な髪を纏め、制服だと言う侍女服を着込み、その上から外套を被る。露出しているのは、首から上と両の鋼の腕の肘から先、そして足だけ。

 暑くないのかと聞くと、慣れていると返ってくる。

 慣れているのは何故かと聞くと、女の過去には秘密が多いものだと、冗談めかして答える。

 昔に何かあったのと聞くと、少しだけ困った様な、悲しそうな顔で、秘密だと言う。

 彼女の秘密を暴きたいとは思わない。暴いてしまえば、きっと彼女は居なくなってしまう。


 彼女は、あの姿で侍女としての仕事をこなしている。

 日常でも、あの外套を脱いだところを見た事が無い。

 常に外套で己が身を隠し、過去を明かさない。彼女の過去に何があったのか、気にならない訳じゃない。

 だが、それよりも彼女にピアノを教える事の方が大事に思えた。


 両親が何処からか連れてきた彼女、容姿も所作も完璧なのに、何処か中途半端な彼女に、確かな音を教えてあげたい。その方が、遥かに大事に思えたんだ。







 ある日、手紙が来た。差出人は書いていなかった。

 だけど、宛先は彼女だった。

 彼女は便箋を鋼の指で、破らず器用に開き、中身を読んだ。

 読んで、それを細かく破り捨てた。


 彼女の顔には、怒りと悲しみだけがあった。

 外套の中から、今までよりもはっきりと、軋みの音が聞こえた。


「……それでは、今日よりお暇を頂きます」


 軋みを残し、ある日いきなり彼女はそう言って、去っていった。

 僕は意味が分からなかった。確かに戦争が始まった。だけど、こんな田舎にまで攻め入ってくる程、相手に余裕は無い。

 喚きたかった。泣き叫びたかった。怒鳴り散らしたかった。だけど、そのどれも出来なかった。


「若様、どうか、いとお健やかに」


 彼女の言葉と、頬を撫でる冷たく硬い手が、僕の言葉を止めた。

 去っていく背は小さくて、落ちてくる夕日に、今にも潰されて、消えてしまいそうだった。

 だから、


「また何時か、ピアノを弾こう」


 彼女が消えてしまわないように、帰る場所を教えた。

 振り返った彼女の表情を、僕は死んでも忘れない。






 月日が経ち、戦争が終わった。

 呆気なく終わった戦争は、両国の和平という形に納まった。

 屋敷には僕以外は相変わらず、殆ど誰も居ない。

 広いだけで、少しだけ古びたピアノが自慢の屋敷。誰も来る筈のない屋敷。

 だけど今日は、ある日と同じ。

 よく晴れているのに、少しだけ黒い雲が浮かんでいる。


 扉が叩かれ、開かれる。

 見慣れた外套姿に、鋼の両腕。


「お初にお目にかかります。本日より、こちらでお世話になります」

「おかえり」

「……ただ今戻りました。若様」


 さあ、ピアノを弾こう。新しい楽譜があるんだ。

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