雫、二滴。
普段よりもゆったりとスピードの落ちた馬車が停まる。
ほんの僅かに足の下で車体が滑る感触がした。
つい顔を顰めてしまいそうになるのを抑え、イル、わたし、伯爵の順に降りる。
教会は石造りだった。青みを帯びた灰色の石をレンガのように積み上げて造られたそこは大きかった。イルのいた教会はレンガ造りの暖かみのある色合いだったけれど、ココは石のみでどこか人を拒む冷たさすら感じられる。
馬車を降りた伯爵は迷いなく教会へ足を向けた。
イルの言う通り、歩幅を小さくして足元へ気を配りながらその後ろに付き従う。
わたしより半歩遅れてイルも歩き出す。
教会の建物までの短い距離を進み、伯爵が扉の前へ進むので少しだけ先回りをして、わたしは観音開きの扉を片方だけ開けた。伯爵がそこを通り抜ける。イルも入らせ、扉を閉めた。
石造りの教会は中も青みを帯びた灰色のままであった。
それでも赤い絨毯や祭壇に灯された蝋燭の明かりなどが冷たくなりがちな石造りのそこに柔らかさを与える。中は少しばかり気温が高いけれど、やはり空気は冷えて、それが静寂の度合いを深めているようだった。
掃除を行っていたらしい子供が数人、扉の音に振り返った。
うち、数人は見覚えのある顔だ。
「イル? お前、イルフェスか?!」
その数人が駆け寄って来る。
しかしイルは立ち止まったまま、伯爵の方を見上げた。
伯爵が頷き返すと
その間に伯爵のマントを脱がせて、わたしのケープも合わせて外で軽く雪を払い、手早く畳んでおく。イルの分もやりたいがあの様子では後で自分でやるだろう。
「みんな元気だった?」
「ああ、前のとこより広くて日課は大変だけどな」
「でもご飯おいしいよ!」
「ベッドもあったかいよね」
「そっか、良かった」
感極まった様子で抱き締め合うイルと子供達に伯爵が僅かに目元を細める。
話しながらも子供達はこちらを気にしており、特にわたしを見ると戸惑った顔をする子や怒ったように顔を顰める子など、反応は様々だがあまり良いものではなかった。
子供達からすれば自分達を騙して教会を調べていた人間だもんね。仕事が終わったら「はい、さようなら」で別れを惜しむこともなく出て行った情のない奴とも思われているかもしれない。
その可能性も予想していたので仕方がない。
わたしとしては子供達が元気ならばそれでいい。
伯爵が少し離れた場所でぼんやりしていた子に声をかける。
「神父のいるところまで案内を頼めるか」
「え? あ、うん……はいっ!」
急に話しかけられて驚きと焦りを滲ませながらも女の子が頷いた。
手に雑巾を持ったまま「こ、こちらです……」と神妙に言うのが可愛らしい。
そうして、こちらへ来ようとしたイルへ顔を向けた伯爵がそれを手で制する。
「積もる話もあるだろう。お前は此処で待て」
「! 分かりました!」
嬉しそうに元気よく返事をしたイルがわたしへ視線を向ける。
言外に「セナは?」と聞かれた気がしたので「わたしは残りませんが、これをお願いします」とマントとケープを手渡して管理を頼めば残念そうな顔をされた。
だが、わたしがいても他の子達は警戒してしまうだろう。
女の子の案内で歩き出した伯爵の後を追う。
右手にあった扉を潜り、廊下を進んで左手の階段を上がれば彫刻の施された木造の扉がある。
女の子はその扉を叩くとすぐに開けてしまった。
「ミリー、扉は返事を待ってから開けるようにと……」
机と向かい合っていた神父が言いながら顔を上げ、わたし達を見て目を丸くした。
やや遅れて女の子の「今来たお客様なの」という声が響いた。
それで我に返った神父が席を立ち、ソファーへ移動する。
「申し訳ありません。どうぞ此方におかけください」
手で示されたソファーに伯爵が腰掛け、わたしはその左斜め後ろという定位置に立つ。
女の子は掃除に戻るらしく、丁寧にお辞儀をすると扉を閉めて行ってしまった。
向かい側のソファーに座った神父は五十代ほどだろうか。この世界では初老というには少し歳のいった男性だ。大半が白髪の茶髪に、髪と同じ茶色の瞳の穏やかな顔立ちをした人だ。
「出迎えもせず、大変失礼を致しました」
恐縮した様子で頭を下げる神父に伯爵が軽く首を振る。
「いや、此方が急に来たいと言い出したんだ。気にするな。それに今日は国教について学ばせたい者がいるので、此処にある絵画や像を見せたいと思っただけだ」
「学ばせたい者とはそちらにいらっしゃる従者の方でしょうか?」
視線を向けられ、それがジッと探るようにわたしを見つめる。
そこに疑心はないものの、形容し難い別の感情が僅かに覗いていた。
ただ害意はない。何かを見極める静かな瞳だ。
「ああ、他国から来たせいかそういった方面に疎くてな」
伯爵の返事に視線が外れて神父が微笑む。
目が合ったのは一瞬、もしすると刹那の瞬間だったかもしれない。
しかしわたしには不思議と長く感じられる時間だった。
「そうでしたか。学びの場にこの教会を選んでいただけて光栄です。此処は何時でも、
「ああ、感謝する。これはほんの気持ちだが受け取ってくれ」
伯爵が懐から出した小さな袋を受け取り、テーブルを回って神父へ手渡す。
布越しの感触からして硬貨だ。恐らく寄付金だろう。
神父は「お慈悲に感謝致します」と袋を受け取り深々と
* * * * *
神父のいた部屋を出て、伯爵が廊下を進む。
何度も訪れているのか勝手知ったるという様子で歩くその背を追いかけながら思う。
あの神父は一体どういうつもりで視線をわたしへ向けたのか。
廊下を何度か曲がり、行き着いたのはギャラリーだった。
扉を開け、伯爵に続いてわたしも入る。
石造りの室内には暖炉があり、火が灯されているお蔭で他の部屋よりも暖かい。
壁に絵画や石像、古い本などが飾られており、出入口から奥へ向かって細長い部屋に合わせて並べてあるようだ。触れないように紐で柵のように囲われた絵画や石像などを見る。
「この世界の歴史が始まる以前……私達が使う神聖統一暦という歴史が生まれる元となった話だ」
杖で最初の絵画が示される。
女神らしき美しい女性と、その手の平から地上へ下ろされる七人の人間が描かれている。
「既に人間はいたが、原始的な暮らしを営んでいた我々の祖先の下にある日、女神によって神々の世界より七人の使徒が遣わされた。使徒は全員男であったとも、女がいたとも言われているが、その辺りは諸説ある。この絵画では全員男のようだな」
確かに言われてみれば地上に下ろされた人間は全員体格が良い。
身長はバラバラで、しかし一様に黒い服に身を包んでおり、降り立った七人の周りには毛皮などを纏ったこの世界の人間らしき人々が驚いたり慌てたりしながらも大半が地に伏せて跪くという光景だ。
何故、使徒が真っ黒いのかはよく分からない。
普通こういうものは白を身に纏うものだろうに。
「使徒はそれぞれに知恵を持ち、始祖達へ知識を授けて行った」
歩いて隣へ移動する。そこには石像があった。
人々が石造りの家を建てたり、衣類を織ったり、中には料理をする人々もいて、少しずつ人々が文明を理解して覚えていく様子が分かった。七人の使徒は体に合った服を着ているのか毛皮や布を巻く人々よりも体付きがしっかりと作られていたが、細身の者が多く、その顔立ちは何故か目元が彫られておらず鼻と口元のみだ。
上から塗られたのだろう黒い塗料は剥がれかけている。
「どうして目元が彫られていないのですか?」
わたしの問いに伯爵が視線を石像の使徒の顔へ向ける。
「教会の教えでは『使徒の瞳は深淵の如き色をし、その深き知識により心を覗き込まれるために人々は畏敬の念を抱いた』とある。解釈は微妙に異なるが、最もよく言われているのは『使徒は人々の心を読むことが出来た』という説だ。使徒の絵姿を描いた者がその絵に己の悪業を言い当てられたという逸話もあったそうだ。それ故にあえて目元は彫らなかったのだろう」
「へえ、それは不思議ですね」
そういえば先ほどの絵画でも使徒は目元は描かれていなかった。
石像を造った人々も、絵画を描いた人も、使徒の『心を読む力』に畏敬の念を抱いていたからこそ実際に彫ったり描いたりすることでそこに同じ力が宿ることを恐れたのかもしれない。
神社仏閣で彫られたり描かれたりした龍が動き出すと言われるように。
世界が違っても似たような逸話があるというのは少し面白い。
「その中で使徒は十三人の信仰厚き者を己の従者とし、それぞれが世界を巡ることでより一層文化の発達を促した」
次の絵画には七人の使徒と十三人の従者が描かれている。
使徒は真っ黒なのに従者は真っ白な恰好かあ。
それに従者の方が個性があるように見える。服装も髪や肌、身長もそれぞれ違っている。絵画が然程大きくないので顔まで判別するのは難しいけれど、多分顔立ちも違う風に描かれていると思う。
「十三人だと使徒のうちの誰かは一人しか従者を得なかったのでしょうか?」
「確か一番最初にこの地へ降り立った使徒の従者は一人だけだったはずだ。その従者は女で、後に使徒の妻となる者だ。ほら、この中央の使徒がそうだ。横に一人だけ従えている」
「……使徒も結婚するんですね」
「それはそうだろう。神々の世界より遣わされたと言っても使徒も人間だったんだ」
え、使徒も人間だったの?
ああでも元の世界でも神の子は受肉した人間だった。
その辺りはわたし自身、その宗教の教徒ではなかったので曖昧だが。
「神々の世界に住んでいた神様とか、神様の子とかではなく?」
「ないな。聖書では明白に『神々の地より来たりし
「……あの、先ほどから気になっていたのですが聖書を暗記しているんですか?」
度々、聖書の一説らしき言葉が飛び出してくるんだけれど。
「幼い頃から学んで来たものだから覚えているだけだ。流石に細かい章まで一言一句とはいかんが、他人に教えるのに困らない程度には
人はそれを暗記してるというんじゃあなかろうか。
呆れていると、どこからともなく人の走る足音が聞こえてきた。
その足音の主は部屋を一つずつ確認しているらしく、扉を開け閉めする音が忙しなく続き、やがてギャラリーの前まで来ると勢いよく扉が開かれて人影が姿を現した。
「ア、アルマン卿! こちらにいらっしゃいましたか!」
雪も降る冬場だというのにその若い警官は汗を掻いていた。
余程慌てていたのか結構な距離を走ったのか、どちらにせよ良い報せをもってきた訳ではさそうだと、その顔色の悪さから読み取れた。
とりあえず出入口まで戻り、扉を開け放ったままそこへ寄りかかって乱れた息を戻そうとする警官の側へ寄る。
「何があった?」
騒々しい様に伯爵が少し眉を顰めて問う。
警官は一度大きく息を吸うと口を開く。
「昨夜、死刑囚が脱獄しました! 尚、この死刑囚は脱獄時に看守を二人絞殺し、医師一人に大怪我を負わせております! デール=バジョット警部より至急、署へお越しいただきたいとのことであります!」
大きな声がギャラリー内に反響する。
貴族相手に緊張しているというのもあるだろうが、静かな教会内では余計に響く。
しかし話の内容は伯爵の顔を別の意味で歪ませた。
「脱獄とは厄介だな。死刑囚の名は?」
「はっ、圧獄したのはヘレン=シューリスという女です! 警部がおっしゃるにはアルマン卿が受け持たれた事件にて逮捕した者であると伺っております!」
「ヘレン? ……シスター・ヘレンか!」
ガン、と頭を殴られたような気がした。
シスター・ヘレン。その名はまだ記憶に新しい。
半年ほど前に逮捕したシスターだ。美しさを保つため、好いた神父への嫉妬のため、教会付きの孤児院にいた子供達ばかりを狙って殺し、その遺体を食べたおぞましい女。
そしてイルの兄を殺した張本人でもある。
「シスターが、逃げた?」
予想以上に掠れたわたしの声にハッと伯爵が振り向く。
目が合った伯爵は僅かに逡巡する仕草を見せた。
「セナ、お前は屋敷に戻れ。代わりにアンディを署に寄越せ。そしてお前とイルフェスはシスター・ヘレンが捕まえられるまで屋敷の外へは一歩も出るな」
予想外の言葉に一瞬息が詰まる。
「……捜索するのであれば顔を知っている者が多い方が良いはず」
「ダメだ。お前達は、特にお前はアレに逆恨みで狙われる可能性が高い。屋敷ならば門番や護衛がいるが、捜索中はお前の身の安全は保障出来ない」
「それは今に限ったことではありません。身の危険は承知の上でわたしはあなたに付き従っています。近侍になる時にそれも理解しております。なのに何故、急にそのようなことをおっしゃるのですか?」
そう、危険があることは分かっていた。
それでもわたしは伯爵の近侍として仕えることを選んだ。
その時に、既に腹は括った。死ぬかもしれないと覚悟も決めてあった。
伯爵は罰が悪そうに視線を逸らすと警官に先に外で待つように告げる。
そうしてギャラリーに二人だけになると口を開いた。
「お前を死なせたくない」
……意味が分からない。
「捜索に加わるだけですよ……?」
「分かっている。だがお前は署にいろと言っても聞かんだろう? 連れて行けば確実に危険に晒す。それも相手は私達が捕まえた者だ。その恨みを晴らしにやって来るかもしれん」
「では尚更わたしも行くべきです。良い
囮捜査は慣れている。もう何度も行った手だ。
それでシスター・ヘレンをもう一度捕まえられるなら喜んで
「それが問題だと言っているんだ!」
ガツンと伯爵の左手が閉められた扉を
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