雫、三滴。

 

 



 その音がかなり大きくギャラリーの中に響き、反射的に微かに身が竦んだ。


 しかしすぐにそれに気付いた伯爵は殴りつけた扉から手を下ろす。




「……すまない、少し取り乱した」




 どこか気落ちした風に呟き、壁を殴った左手で目元を覆う。


 珍しく余裕のない伯爵の姿は普段よりも小さく見えた。


 歩み寄り、その顔を下から両手で掬い上げ、視線を合わせる。




「何をそこまで不安に感じているのか理由は分かりませんけど、そう簡単に死ぬ気はございませんよ。近侍の仕事はわたしにとっては何よりも面白くて楽しい仕事なんです。他の方に譲るなんて嫌ですし、わたしには伯爵の下以外に行く当てなどありません」




 そうしてちょっと大胆に額同士をこつりと合わせる。


 伯爵の顔が強張ったけれど気付かない振りをして至近距離で目を合わせた。




「だから、わたしからこの仕事を取り上げないで」


「……命の危機に晒されてもか?」


「それでも続けたい。わたしがそうしたいと思っている。それだけで、いえ、それで充分でしょう? ……どんなに凄惨な事件でも、どんなに危険な状況でも、わたしをあなたの側に置いてください」




 わたしはずるい人間だ。どうともでも取れる言い方でしか伝えられない。


 至近距離のブルーグレーが見開かれ、そしてほんの僅かに目尻を下げた。


 強張っていた伯爵の顔から力が抜けて少しだけ額にかかる重みが増えた。




「……お前の覚悟は受け取った。そこまで言うのであればもう何も問わん」




 そう言った声音は気色の混じったものだった。


 わたしが両手を離せば伯爵は丸めていた背を元に戻す。




「好きにしろ」




 つっけんどんとも取れる口調とは裏腹に声は穏やかだ。




「はい、勝手にお供させていただきます」




 この世界にいる限り、捨てられない限り、あなたの側にいたい。


 伯爵はわたしの言葉に背を向けて扉を開けると、廊下へ出て行ってしまう。


 その背中を追いかけてわたしも歩き出した。


 来た道を戻って礼拝堂へ行くとイルフェスはまだ子供達と共にそこにいた。


 わたし達を見て駆け寄ってきた小柄な頭をそっと撫でる。




「もう用事は終わりました?」




 無邪気な問いかけに首を振った。




「いいえ、仕事が入ってしまったので今日はもう無理そうです」




 イルフェスの瞳が輝く。


 仕事ということは事件が起きたということでもあるのだけれど、イルの好奇心とやる気に満ちた視線につい苦笑が漏れてしまった。事件なんて起きない方がいいはずなのに。


 きっと今まで、伯爵もこういう気持ちでわたしを見ていたのだろうな。




「仕事? ボクも?」


「イルフェス、お前は屋敷に戻れ。代わりにアンディに署へ来るよう言付けを頼む」


「……はあい」




 伯爵に否定されて、しょんぼりと肩を落とすイルは可哀想だが仕方ない。


 それにイルは最近やっと一人で眠っても泣き出したり飛び起きたりしなくなったと聞く。もしこれでシスター・ヘレンと再会してしまえば、それがぶり返すかもしれないし、イルの心の傷がより深くなるかもしれない。


 だから屋敷に待機させることで出会わせないという配慮もあると思う。


 名残惜し気にイルは子供達と別れの挨拶を交わしていた。


 上着を受け取り、伯爵へマントを着せ、私もケープを羽織る。


 伯爵が先に馬車に乗り、わたしとイルは一度道に出て辻馬車を拾い、御者に多めに金を握らせてイルだけを屋敷へ帰した。きちんとアンディさんを署へ向かわせるよう再度言付けて送り出す。


 そうしてわたしも伯爵の待つ馬車へ乗り込み、警察署へ向かうために馬車が走り出した。


 ……シスター・ヘレンは絶対に捕まえなければ。






* * * * *







 クロードは馬車に揺られながら斜向かいに腰掛けるセナを見遣る。


 カーテンの隙間から車窓を眺めているけれど、その横顔にはそこはかとなく緊張感が漂う。


 ダークブラウンが見ているのは雪景色か、それとも半年ほど前の出来事か。微かに寄せられた眉と引き結ばれた表情からシスター・ヘレンに対する懸念の深さが伝わってきた。


 セナが声を上げて泣いたのはあの事件の時だけだった。


 この国に来た時でさえ自分の境遇に泣くことのなかったセナが、仕事上では感情移入することを避けていたセナが、イルフェスの兄が殺されたあの事件では感情を吐露して泣き声を上げていた。


 それだけシスター・ヘレンはセナにも深い傷跡を残したのだろう。


 そんな相手にもう一度挑もうとする姿勢は痛いほど真っ直ぐで不安になる。


 時折、セナは生き急ぐように危険に身を晒す。


 本人は意識していないから性質たちが悪い。

 

 つい先ほどの言葉もそうだ。


 クロードの遠回しな言い方も悪かったかもしれないが、セナも、あれではまるで告白ではないか。


 額を合わせた幼さの残る顔は幸せそうに笑っていた。身の危険があると言っているのに、そのようなことなど微塵も聞えていないかの如く、目尻を下げて本当に心の底から嬉しそうに笑って言ったのだ。


 あれはどういう意味なのか。どうして危険だというのにそんな顔をするのか。


 聞きたくても、どう問えば良いのか分からず胸の内でモヤモヤとしたものが絡み合っている気がする。


 だが、側にと望まれて喜びを感じたのも確かだ。


 誰かに必要とされるのは嬉しい。セナが恩義を感じていることは気付いていたが、あの言葉にはそれ以上の感情と親愛が含まれていると思った。だから許すしかなかった。


 それは自分の望みでもあったのだから。






* * * * *






 警察署に着き、玄関前に横付けされた馬車から降りる。


 丁寧に雪かきがされており、足元に雪はないが、そのせいで路面は薄っすら凍っていた。


 むしろ雪があってくれた方が滑らなくてマシかもしれない。


 そう思いながら慎重に地面に足をつける。


 次に降りてきた伯爵は特に気負った風もなく凍った道を歩き出した。


 馬車から警察署の玄関までの道のりに全神経が集中する。馬車で乗り付けたので疎らにいる人々の視線が一心に伯爵とわたしへ向けられていて、これで転んだら恥ずかし過ぎる。


 玄関へ入り、ホールの受付で刑事さんを呼び出すついでに上着を預かってもらう。


 慌ただしく廊下の向こうより現れた大柄な体躯たいくは何時にも増してよれた衣類を身に纏っていた。




「旦那、呼び出してしまって、すんませんね」




 頭を掻きながら下げた刑事さんの目の下には薄っすらくまが出来ている。




「これも仕事のうちだ。それよりお前、寝ていないのか?」


「ええ、まあ、昨夜から捜索の指揮を執ってるんで。部下達は交代で当たらせているんですがね」


「それでお前が倒れたらそれこそ問題だろう。話は他の者に聞く。少し休んで来い」


「あー…そうですね、あちこちバタバタ動き回ってて流石にちょっとつらかったんでそうさせてもらいますよ。向こうにこの件の本部があるんで、そこでエドウィンでも捕まえて聞いてください。旦那と坊主は知ってる奴ですから」




 眉を顰めて指摘した伯爵に、ふあ、と欠伸を噛み殺しながら刑事さんが言う。


 エドウィン? わたしと伯爵が同時に首を傾げた。




「エドウィンとは、アシッド=エドウィンのことか?」




 伯爵の問いに刑事さんが頷く。




「そう、そのエドウィンです。旦那とも面識がありますし、少々融通の利かないところはありますけど仕事は真面目なんで俺の補佐にするつもりです。それも含めてよろしくお願いしますよ」


「そうか、分かった」




 普段であればわたしをからかってくるが今日はそんな余裕もないらしい。


「それじゃあ、俺はちぃっとばかし休ませてもらいます」と大柄な体がノソノソと歩いて行く。眠たいせいだろうけれど、猫背になるとその後ろ姿は本当に熊のように見えた。


 大きな背を見送り、伯爵と共に奥の部屋へ向かう。


 廊下を歩いていれば捜査本部があるだろう部屋はすぐに見つかった。


 忙しなく人が出入りしていて警官だけでなくランタン持ちファロティエも何人か見かけた。


 ランタン持ちとは夜の王都をランタン片手にうろついている人々のことだ。彼らは街灯の代わりに金を受け取り夜道を行く人々の先導をするだけでなく、警察と結びついており、警官だけでは手の回らない夜の街の巡回も担っている。ただその客引きの声が夜はうるさいこともあるそうだ。


 恐らく今夜にでも巡回の強化がされることだろう。


 開きっ放しの扉から中へ入り、中を見回せば、エドウィンさんはすぐに見つかった。


 本部の中央に広げられた地図の前に立ち、他の警官へあれこれと指示を出したり地図にメモを貼り付けたりと落ち着く暇もなさそうであったが、近付けばこちらに気付いて場所を空けた。




「アルマン卿、御足労いただき感謝申し上げます」




 やや神経質そうな顔立ちのエドウィンさんが深々と頭を下げる。


 伯爵がそれを手で制して途中で止めた。




「気にするな。要請を受けた以上は仕事のうちだ」


「ありがとうございます。……セナ君も久しぶりだが息災のようで何よりだ」


「お気遣い痛み入ります。お蔭様で日々恙無く過ごしております」




 視線が合って僅かに緩められた眼差しに目礼を返す。


 そういえば半年前に初めて顔を合わせたのもシスター・ヘレンの件だった。


 挨拶を終えて伯爵とわたし、エドウィンさんとで地図を覗き込む。


 花とも五芒星とも見える王都の地図には幾つかの場所にピンが刺され、一緒にメモがあり、それには何時どこでシスター・ヘレンが目撃されたかなどの情報が書かれていた。


 大まかだがシスター・ヘレンの昨夜からの足跡は辿れたようだ。




「まずは脱走した手口を御説明します。昨夜、日付が変わる頃にヘレン=シューリスが体調不良を訴え、看守の見張りがついた状態で医務室にて医師の診察を受けました。看守は男であったため廊下で待機していたそうです。扉が閉まるとヘレン=シューリスはすぐに傍らにあった花瓶で医師を殴りつけ、音に気付いて立ち入った看守を壁際に寄り、背後からロープのようなもので絞殺して鍵を奪ったと思われます」

 

「仮病か。脱獄を企てる者の常套手段だ。しかし随分と詳細に分かるな?」


「最初に殴られた医師は大怪我を負っておりましたが僅かに意識があり、看守が首を絞められる辺りまで目撃して気を失ったそうです。その後、医務室を訪れて医師と倒れた看守を見付けた者が慌てて監獄内の警戒を引き上げましたがその時には既に外へ逃がしてしまっていたようです。殺されたもう一人の看守も鍵を奪われておりました。外へ通ずる扉が鍵が二本必要だと知っていたことからして、恐らく計画的に看守を襲ったのでしょう」




 わたしは疑問を感じて小さく挙手する。




「あの、亡くなられた方々の御遺体はどちらに?」




 エドウィンさんが視線を別の壁へチラと向ける。




「隣の遺体安置所だが……?」




 困惑するエドウィンさんに礼を言い、伯爵に向き直る。




「遺体安置所へ行って御遺体を確認して参ります」


「分かった、其方そちらはお前に任せよう。ただし損壊が酷い場合は触れずに外見だけの見聞に留めておけ。その際は私が行う」


「畏まりました」




 頷き、伯爵の下を暫し離れることを告げ、部屋を退室する。


 廊下を抜けて玄関へ戻り、一度外へ出たら隣の遺体安置所へ入る。


 どうせ隣なのでワザワザ上着を返してもらうまでもない。


 受付で許可を得てランタンを借りると地下の遺体置き場へ向かう。


 地下なので空気は冷たいものの外よりかは若干気温が高い。土の中にあるので一年を通してある程度一定の温度を保っている。そうして甘みを帯びたあの腐敗臭も此処には染み付いてしまっていた。


 鼻を掠める不快な臭いを無視して階段を下りて行く。幾つかある部屋のうち、受付の教えられた部屋の扉を開ける。狭い室内に布のかけられた二つの膨らみが横たわる、これが殺された看守達か。


 ランタンを脇へ置いて手袋をはめ直す。


 まずは両手を合わせて短い黙祷を捧げた。


 それから片方の布を外す。三十代前半ほどの男性の遺体は顔は鬱血してやや膨らんでいたが今まで見てきた中ではかなり綺麗な部類だった。首元には索条痕さくじょうこん――紐やロープなどで絞められた際に出来る跡だ――がある。確実に殺すつもりだったのか線は濃く、首の表皮に顔を寄せて検分すると微かに皮膚が擦れている。正面から後頭部にかけてその線が斜め下へ走っていた。平行でないことから正面からの犯行ではない。抵抗したのか掻き毟った傷も見られ、指先を確認すれば爪には血と皮膚片がこびり付いていた。


 後頭部にかけて跡が下がっているのはシスター・ヘレンの方が小柄だから。


 背後より紐状のものを首にかけ、背負い投げのように背中同士を合わせて凶器を引っ張り、首を絞めたのだと思う。普通に絞めるよりも恐らく力が入りやすく、背中合わせなので抵抗されても犯人側には被害者の手が届き難い。


 触れたり動かしたりしてみたが他に傷は見当たらない。


 布を直し、隣の小山から布を取る。


 こちらは四十代後半くらいの男性だった。此方の首にも索条痕があり、それはもう片方の遺体同様の形をして、引っ掻き傷が残っていた。殺し方は同じなのだろうがこちらの方が線が薄い。恐らく絞殺後すぐに凶器を外し、脱獄を優先したと思われる。




「ん?」




 指を見ようと覗き込んだ手は固く握られ、数本の髪の毛らしきものが指に絡んでいる。


 握り締められた指を丁寧に開いてそれを取り、ランタンの明かりにかざすと艶のない髪はダークブロンドであることが分かった。シスター・ヘレンは髪が長かったので抵抗した際に掴んだのだ。一応看守を殺した人物の証拠になるため髪を緩く纏めてハンカチで包むと懐へ入れる。



 

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