# The eighth case:Weight of the life.―命の重み―

雫、一滴。

 





 一月下旬、刺すように冷たい空気に目を覚ます。


 寝る時に頭まですっぽりと被っていた毛布が顔の部分だけなく、どうやら途中で息苦しくなって剥いでしまったらしい。お蔭で顔だけはキンキンに冷えてしまっていた。




「……寒っ」




 両手で顔を覆って少しだけ熱を移し、上半身を起こす。


 腕を伸ばしてカーテンの端を捲ると外は一面真っ白だった。


 これだけ雪化粧されていれば寒いのは当然か。


 気合を入れて毛布から出るとブーツをつっかけて暖炉へ歩み寄る。まだ燻っている小さな熾火に薪を足して、慎重に空気を送り込むことで大きくし、しばしその前で暖を取る。


 燭台に刺さる蝋燭の一つを抜いて火を灯すと他の蝋燭にも移す。そうして元の位置に蝋燭を刺し戻したらサイドテーブルへ置き、ベッドの中へ手を突っ込んで引っ張り出した革袋の中身を洗面器へ出す。


 少し革の臭いのする生温い湯で顔を洗い、濡れた手で跳ねた寝癖を撫で付ける。


 暖炉の前に移動したら寝間着のシュミーズを脱ぎ、肌着用の方を着てステイズの紐を絞る。腰を細くしたり姿勢を正したりする目的のためにステイズは着用されるが、私の場合は体型を誤魔化すのと保温性のためだ。


 次にティーシャツのような形の白いシャツを頭から被る。


 次にショースという白い膝上丈の靴下を履いて紐で留め、七分丈のキュロットを穿く。寒い時くらいは七分じゃなく十分丈の普通のズボンを穿きたいと思ってしまうが、こういう服は様式美があるので長ズボンにする訳にもいかないのだ。前袷と膝横の釦を留める。


 膝丈の黒いブーツをしっかりと履き直して編み上げを締めると紐を結んだ。


 それからジレという袖のないベストを着て、シャツの袖や襟を整える。


 最後にアビと呼ばれる上着を着る。これは前を留めないのが正しい着用の仕方だ。


 やや歪な鏡の前で全身をチェックし、皺やよれがないことを確認する。


 髪をブラシで梳いて緩く三つ編みに編んだら左の方へ流して完成だ。




「楽しみだけど、どういう風の吹き回しだろうね」




 イルと出掛けるというのも楽しみの一つだが、伯爵がワザワザわたし達のために時間を作って教会へ連れて行ってくれるというのは些か疑問を感じる。


 今までなら「場所を教えるから休日にでも行ってくると良い」と言って終わりだったはずだ。


 一緒に出掛けることを喜んでる自分がいるのも事実だけど。


 何か腑に落ちない部分がある。


 ……何だろう?


 懐中時計のゼンマイを巻きながら小首を傾げるも見当がつかない。




「まあ、いいか」




 暖炉の薪を崩して熾火にし、燭台の火を消し、脱いだシュミーズと顔を拭った布を部屋の外のカゴへ入れ、冷めた湯の入った洗面器を手に廊下へ出る。階下まで下りて湯を捨て、軽く濯いだそれを部屋へ持って帰る。


 洗面器を自室へ戻したら渡り廊下を抜けて本館の階下へ向かう。


 ランドリールームに隣接する部屋の扉を開ければ先に執事バトラーのアランさんが来ていた。




「おはようございます。お待たせしてしまい申し訳ありません」


「おはようございます。大丈夫ですよ。私も今来たところです」




 どうぞと台に置かれた新聞とアイロンストーブを手で示されて近寄る。


 平らに慣らした新聞紙にストーブから外したアイロンを丁寧に乗せてインクを乾かしていく。乾き過ぎるならば良いが、生乾きだと主人の手を汚してしまうので細心の注意が必要だ。


 アランさんの指導を受けつつ今朝の新聞をアイロンだけする。


 端の方に少し焼きが入ってしまったけれど一番上手に出来たかもしれない。


 アランさんに「今朝は今までで一番の出来ですね」と褒められたが「後は焼きが入らないよう時間の調整を覚えましょう」とダメな点もきちんと言われた。


 アイロンがけは魚を焼く時に似てる。焼き過ぎると焦げるし、足りないと半生だし、魚の脂の乗り具合で焼く時間に差が出るのも。その日その日で微妙に変わって来るインクを乾かす時間も同じで勘頼りだ。


 新聞を手に厨房へ行き、モーニングティーのセットが載ったサービスワゴンを受け取り、そこへ新聞も載せて伯爵の寝室まで押して歩く。


 寝室は厨房から見れば建物の対角線上に近い位置にあるので実は結構遠い。


 途中で従僕フットマンのアルジャーノンと出会う。今日は一番末っ子が担当らしい。口数の少ないアルジャーノンさんが目礼で挨拶をしてきたので同様に返し、寝室へ入る。


 アランさんもすぐに訪れ、アルジャーノンさんがカーテンを開けて回った。


 この時間になると外はもう明るく、朝特有の薄日が差す。




「旦那様、御起床のお時間です」




 ピクリとも動かない伯爵へ声をかける。


 毎日見ても、この死体みたいに動かない寝相は変な感じだ。


 シーツにあまり乱れがない様子からしても、仰向けの状態からほぼ動かないのだろう。

 

 人形みたいに整った顔の瞼が静かに持ち上がる。




「おはようございます」


「……ああ」




 暫しわたしの顔を見てから返事をする。


 表情はないが恐らく寝起きで少し頭が働いていないのだと思う。


 欠伸混じりに起き上がった伯爵へアランさんが新聞を差し出した。


 それを片手に持ち、もう片手でティーカップだけを持つと、口をつける。ソーサーはサイドテーブルに置かれ、わたし達は新聞を読み始めた伯爵の邪魔をしないよう黙って退室する。


 これから朝食を摂り、伯爵の身支度と朝食を済ませたらお出掛けだ。


 朝食の時に席の離れたイルと何度も視線が合ったのは、向こうも楽しみにしているからだろう。






* * * * *






 伯爵も朝食を終えて外出の支度をする。


 すぐに外出することは分かっていたため、後は杖や三角帽トリコーン、マント――釣鐘型で袖がなく、裾の長い外套だ――といったものを用意するだけだ。


 その伯爵に「お前とイルフェスも支度を済ませて来い」と言われたので、お言葉に甘えて自室へ戻り、防寒用のケープ――腰までの短い丈で袖のない外套――と三角帽など必要なものを手早く身に纏う。マントの方が保温性はあるが全身を覆うために動き難いという欠点があり、わたしは多少寒くてもケープを愛用している。


 ブーツ同様、そのことを伝えた時は「お前は流行や洒落は二の次なのか」と呆れられた。


 そういうのも大事だがわたしにとっては機能性が重要で、見苦しくない程度に場に合った服装が出来ていればいいと思っているから流行やオシャレはこの世界に来て以降あまり気にしていない。この世界では平民の衣装に流行というものがほぼないのもわたしがオシャレに興味がない理由の一つだ。


 貴族のように流行を追いかければワンシーズンしか着られないし金がかかる。


 だからオシャレよりも実用的なことにお金をかける方が良い。


 鏡で姿を確認してから部屋を出て本館の玄関へ向かう。


 渡り廊下を通り、階段で一階へ下りて使用人食堂の前へ出ると、そこを抜けて来ただろうイルと鉢合わせた。サイズは小さいが同じような小さいケープに小さい三角帽といった姿は幼いながらよく似合う。




「セナ!」




 わたしの顔を見てパッと表情を明るくするイルについ笑み零れてしまう。


 使用人という仕事は忙しく、休みも少ない職業で、一緒にいられる時間は少ない。




「寒くないですか? 外は雪が降っているので、足元に気を付けて今日は旦那様に同行させていただきましょう」


「うん、寒くないよ。それに大丈夫。ボク、雪の中でも走れるんだ」


「それは凄いですね」




 実はわたしは雪道が苦手だ。


 雪に足を取られるのもそうだけれど、シャーベット状になって滑りやすい場所では歩くだけでも怪しい。わたしの住んでいた場所はそこまで雪も降らず、降っても然程積もらなかった。でもシャーベット状になることは結構あった。それなのに、そういう道を歩くのは下手なのである。


 引け腰は良くないというがバランスを取ろうとするとそうなってしまう。


 スケートリンクでたまに見かける全く滑れない人とそっくりだ。




「何か歩く時にコツはありますか?」




 玄関へ向かいながらそう問うとイルが小首を傾げた。




「コツ? うーん……。あ、大きく足を上げて歩いちゃダメだよ。ボクは氷が割れてるところを選んで歩くかなあ。ツルツルに氷のあるところは滑るから」


「なるほど」



 言われてみればその通りだった。


 そういえば早く目的地に着きたい一心で大股に歩いていたような気がする。


 歩く場所もそんなに確かめてもいなかった。




「セナは氷が苦手なの?」


「ええ、実は上手く歩けなくて転ぶことが多いんです」


「そっかあ、セナにも苦手なことがあるんだね」


「沢山ありますよ。わたしも普通の人間ですから」




 雪道は苦手だし、スケートもローラースケート、スノーボードなんかも出来ない。


 基本的に滑る場所は嫌いなのだ。足元の不安定さがイヤだ。


 玄関に着いたが伯爵はまだらしく、その間にイルから雪道の歩き方を聞いておいた。


 去年の今頃はこの国の常識や一般教養を学ぶことで忙しく、滅多に屋敷の外で出ることのない引きこもりだったし、一度だけ雪を見に外へ出たら派手に転んだので余計に苦手意識を持った記憶がある。


 わたし達が着いた少し後に伯爵がアランさんを伴って玄関へ現れる。


 足首近くまで丈があり、首周りに動物の毛皮のファーが付いたクロークで服装はほぼ隠れていた。




「では行ってくる」


「はい、行ってらっしゃいませ」




 アランさんが綺麗な所作で一礼し、わたしとイルとで玄関の扉を開け放った。


 外の冷たい空気が体を撫でると気分がシャキッとする。


 起きた時よりも少しだけ厚みの増した雪が視界に広がった。


 吐く息は白く染まり、肌の出ている顔もそのうち鼻の頭が赤くなりそうだ。


 玄関前で既に待機していた馬車に乗り込む。目的地を告げ、ややあって馬車が普段よりも慎重に走り出す。窓のカーテンを少し除けて確認したら速度はあまり出ていない。


 歩くのは得意じゃあないが、雪化粧された景色を眺めるのは好きだ。


 この国の街並みは古いけれど小綺麗で、薄く雪が積もった景色は飽きずに見ていられるほどの美しさなのだ。去年は屋敷の窓から外を眺めるのが殆どだったので今年は街の雪化粧を拝むことが出来て嬉しい。




「何か気になるものでもあるのか?」




 向かい側に座る伯爵が反対側のカーテンの隙間を僅かにズラす。


 その問いかけにわたしは首を振った。




「いえ、雪に覆われたこの街は美しいなと思って見ておりました」


「……そうか?」


「旦那様には見慣れた光景かもしれませんが、わたしの生まれ育った場所はあまり雪の多くない地域でしたので、こうして綺麗な雪が積もる風景は珍しいんです。去年は外へ出る暇もありませんでしたし」




 まあ、外に出た結果が転んで終わったのも今では笑い話の一つだ。


 ベティさんに思い切り見られて心配されたものの、雪のお蔭で打ち付けた臀部は痛くなかった。


 今日は教会内を移動することはあっても、外を歩き回ることは少ないだろう。この間、警察署に呼ばれた時もへっぴり腰にならないよう気を遣ったので疲れた。


 伯爵がこちらへ視線を移す。




「お前の住んでいた場所は暖かいようだな」


「ええ、四季がハッキリしておりましたけど、それでも他所に比べたら夏と冬の温度差は小さくて過ごしやすいところでした。雪もそう積もりません。……夏はこの国より湿気が多くて蒸し暑いですが」




 毎年他県の夏の最高気温と冬の最高気温を聞いて「そんなところ、絶対わたしでは住めないな」とぼやいていたっけ。この国はわたしの住んでいた地域より年間の気温が低いため、冬は少々厳しいが、夏は湿気も少なく暑さの体感温度も低くて助かった。


 懐に入れてある温石に手を当てると温もりがじんわりと滲む。




「お前が夏場でも上着を脱がずにいられるのはそういうことか」


「はい。わたしからすればこの国の夏は日差しさえ避けられれば、ほど良い暑さですから」


「そこは羨ましいものだ」




 伯爵は暑さが苦手らしい。わたしも暑いより寒い方が強い。


 どんなに暑くても服を脱ぐには限度があるけれど寒い分には着込めば何とかなる。


 今日の伯爵やわたし達のように外套を羽織るだけでも寒さはかなり違う。


 逆に何をしても暑い夏はどうにも苦手だ。




「ボクは夏も好きです!」




 話を聞いていたイルが嬉しそうに言う。




「緑がキレイで、太陽が沈むのが遅いからいつもより沢山遊べます。井戸の水が冷たくて、手とか足とか入れるとヒヤーッとして気持ちいいです! 果物も冷やしておくと美味しいです!」


「イルは夏も満喫してますねえ」


「そういえば、昔は私も夏が好きだったな。入道雲や夕焼けが好きでよくバルコニーから眺めていた」




 懐かしげにそう口にする伯爵の顔にはどこか翳りが感じられた。


 けれど、それは一瞬のことで、もしかしたら見間違いかもしれない。


 フッと口元を緩ませた伯爵がイルの頭を軽く撫でる。


 くすんだブルーグレーが柔らかく細められた。




「お前は夏も冬も元気だな」


「はい!」




 自信満々に返事をするイルに伯爵とわたしは揃って笑ってしまった。


 ココ最近なかった和やかな空気が心地好い。


 こういう時間がずっと続けばいいのにと思ったものの、次第に揺れの小さくなる馬車が目的地への到着が近いことを告げていた。



 

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