道、十一路。
* * * * *
それから十日後の夜。
壁の時計は夜中の一時を示しかけている。月も大分西に傾き始め、恐らく殆どの家は静かな寝息が微かに響いているだろう。叩かれた扉に反応して本に栞を挟んで立ち上がる。
こんな時間に一体誰だろうか。
内心で小首を傾げながら確認すると来訪者は家政婦長のベティさんだった。
「旦那様より、今すぐ出掛ける用意をして玄関へ来るようにとのことよ」
「分かりました。急ぎ参りますとお伝え願えますか?」
「ええ、分かったわ」
出掛ける用意と聞いてピンと来る。事件に動きがあったのだろう。
戻るベティさんの背を見送り、すぐさま暖炉の薪を崩して火を消した。何時こういうことがあるか知れなかったので眠る直前まで近侍用のものを着用していて正解だった。上着のアビを着て、髪を整え直し、幾つかの必需品を持ったら自室を出る。
玄関ホールには既に見慣れた銀髪が立っており、急ぎ足で歩み寄る。
「申し訳ありません、お待たせしました」
「いや、私も今来た所だ」
傍にいた執事に「留守は任せた」と告げ外へ出る伯爵の背を追いかけ、そのまま馬車に乗り込む。
車内には二十代半ばほどの年格好をした警官の青年がいた。
彼は伯爵の斜向かい――……つまり、わたしの定位置にいる。
どこへ腰かけるべきか迷う前に腕を引かれて伯爵の正面に落ち着くと扉が閉まり、走り出した車内では慌ただしさを物語るようにランプが揺れていた。
居心地悪そうな若い警察と横目に視線が合う。
出来るだけ柔らかい笑みを彼へ返し、前へ視線を移す。
「獲物がかかりましたか」
伯爵が眉を片方上げた。
「相変わらず察しが良いな」
「この時機ですから」
「それもそうか。……先ほどの話を、これにも聞かせてやれ」
前半はわたしに、後半は斜向かいの警官に投げかけられる。
話を振られた彼は緊張した様子で背筋を伸ばして口を開いた。
「は、はい! 先日受けたホテルの件で、泊まっていた我々の内一人がオーナー夫妻に襲われたため、その場で取り押さえました。署へ連行する前に御報告申し上げに来た次第です」
伯爵の思惑通りに犯人が釣れた訳か。
「襲われた方は無事ですか?」
「はい、問題ありません」
「それは良かった」
「有事の際に誰かが駆け付けられるよう、一晩ずつ交替で起きていたんです。こう言っては何ですが、安ホテルは壁が薄いので、他の部屋の物音が聞こえるんです。今回はそれが功を
嬉しそうなのは犯人を確保出来たからか、何となく声にも自信の色が
相手の方が年上なのだけれど少々微笑ましい。
「では、その夫妻が犯人でほぼ間違いないのでしょうね」
「恐らくな」
事情聴取は本来警察の領分であるため、私達はそれに立ち会うことは滅多にない。
……まあ、逮捕時に自ら犯行動機を喋る犯人も少なくない。ああいうのは現代のドラマだけの話かと思っていたが、そうでもないらしい。自尊心故か、それとも誰かに聞いて欲しいのか、謎である。
伯爵は動機に関してはあまり興味がない。
そうして、わたしが事情聴取に立ち会うのを良く思っていない。
曰く「影響がないとも限らん」だそうだ。ミイラ取りがミイラになっては困るし、殺人犯の思想や考えを理解するのは精神衛生上よろしくないのは明らかだから興味はあるが素直に従っている。
今回も犯人か否かの確認だけ取って帰るのだろう。
馬車の揺れが段々弱まり、目的地に到着したのか軋むような音を立てて止まる。
先に警察の男性、次にわたし、最後に伯爵の順で馬車から降りた。
目の前にはお世辞にもあまり綺麗とは言えないホテルがひっそり佇み、薄暗い出入口で大柄の人影がランプをヒョイと掲げた。
「夜分にすんませんね」
悪びれた風のない声音で言った刑事さんだったが、特に気にしていないのか伯爵も同様に片手を上げて応える。わたしもその後ろで浅くお辞儀を返しておいた。
「夫妻はどうしている?」
「部下が見張ってるんで御案内しますよ」
ホテルの上階を親指で示しながら歩き出す刑事さんの背を追って、わたし達もホテルの中へ足を踏み入れる。
宿泊施設のわりに屋内は随分埃っぽい臭いがした。カウンターの花瓶は中身が萎れ、歩く度に嫌な悲鳴の上がる床もなかなかに古く、下手なお化け屋敷よりよっぽどそれらしい雰囲気だ。
建て付けの悪そうな階段を三階まで上ると一つだけ明かりのついた部屋の扉が開け放たれていた。
そこに他の警官や捕まえた夫妻がいるようだ。
が、部屋の出入り口で伯爵の足が止まる。
必然的にわたしも立ち止まり、動かない長身の脇から室内を覗き見てすぐに納得する。
ベッドと小さなテーブルセット、背の低いクローゼットがあるだけの四畳半くらいの部屋には四人の男性がおり、更に中央の床には四十代前半の男女が手錠をかけられ、ふて腐れた表情で座り込んでいた。
埃っぽさや空気の悪さも
ただでさえ六人もいるのに、そこへ刑事さんと伯爵、わたし、後ろにいる警官の青年が入ったら狭過ぎて話なんか出来たものじゃない。
少なからず嫌気がさしているだろう。
伯爵は微かな溜め息を吐き、室内へ踏み入った。
わたしは入らなくても良いんじゃないか、なんて考えを読んだようにブルーグレーがチラと振り返る。
……はいはい、分かっています。
無言の圧力に負けて仕方なく部屋に入った。定位置である伯爵の半歩後ろ脇に立つ。
刑事さんは何のてらいもなくベッドへ座り、床にいる夫妻を見、それから警官の一人を見た。
「伯爵に経緯を御説明しろ」
「は、はあ……」
敬っているんだかいないんだか判断のつき難い言葉に、声をかけられた方も生返事気味に頷いた。
しかし報告となれば話は違うらしく、その人は襲われたのは自分だと前置きを述べた上で今夜起こった出来事の詳細を口にした。
眠っている最中、ふと物音がして彼は目が覚めたそうだ。
壁の薄いホテルなので隣室の音が響いただけだろう。そう思って再度目を閉じかけた時、誰かが室内に入る気配を感じた。扉の開閉する微かな音に加え、床を踏み締める複数の音も聞えたのだ。
だが確認しようと起き上がるよりも早く、クッションのようなもので顔を覆われ、腕も押さえ付けられており顔の上にある物が退かせない。
とにかく抵抗している間に足が壁に何度かぶつかり、その音に気付いた隣室の警官が他の者を起こして駆け付けたためことなきを得た――……という話だった。
クッションの
浪者男性の遺体にあった溢血や、凝固していない血液などの特徴は窒息死に見られるものだ。顔に残っていた引っ掻き傷はクッションを退けようと足掻いた結果と考えれば納得がいく。
「今回が初犯でないことは既に分かっている。黙っていても自らの首を絞めるだけだぞ?」
それまで弁明もせず床に座っていた夫妻は意味が分からない様子で伯爵を仰ぎ見る。
わたしも思考を中断して目の前の背へ視線を移した。
「ホテルに宿泊した客の中で行方不明がいるとなれば、当然お前達に殺されたと考えるのが妥当だろう」
「……俺達が全員殺した訳じゃねえよ」
不機嫌な声音で反論する夫へブルーグレーが冷たい一瞥をくれる。
そして低い声が「世間はそうは思わんがな」と切り捨てた。
「どちらにせよ、お前達に情状酌量の余地はない。処刑と断じられても文句は言えん」
告げられた内容に夫妻が目を見開き、漸く事の重大さを理解したのか体を震わせて「俺は悪くない! コイツがやろうって言い出したんだ!」「何言ってるの?! 貴方が金が手に入るって言うから私は!」と互いに罪を擦り付け合いながら騒ぎ出した。
人を殺したのなら死刑もやむを得ない。少なくともわたしは思っている。
だがあまりにも必死に刑を免れようとする夫妻の怯え様に首を傾げてしまう。
「処刑は絞首刑か斬首刑でしたよね?」
背を向けたままの伯爵にそっと問いかける。
「ああ」
「それでココまで怯えるものでしょうか?」
「そりゃあ坊主、死刑は誰だって嫌だろ」
呆れた顔で刑事さんに返されて考える。
「ですが絞首刑も斬首刑もまだ良心的な刑ですよ」
絞首刑なら大体は自分の重みと落下した勢いで首が折れるか気を失い、よほど失敗しない限りは苦しむ時間が短いと聞いたことがある。処刑の部類でも、比較的優しい方法だと思うのだが。
斬首刑は処刑人の手際にもよるが一撃で首を切り落とされれば幸運だ。何かの本で首が落ちた後でも名を読んだら数秒の間、瞬きをした囚人がいたという話も呼んだことがある。その場合、息絶えるまでの数秒は首を切られた激痛で地獄のような時間らしい。
それでも火刑や車輪刑よりはずっと苦痛を味わう時間は短くて済む。
伯爵がこちらを振り返った。
「この者達は強盗と殺人が適用されるはずだ。殺人は金銭のみだが財産の没収に加え、絞首又は斬首刑と定められている。動機や殺めた人数を考慮すれば斬首で公開処刑が妥当とされるだろう」
ああ、それは怯えるのも当たり前だ。
絞首刑に比べ、斬首刑は大抵一度で首を落としきれない。生きたまま首に刃物を何度も落とされる痛みと恐怖は想像を絶する苦しみのはず。しかも公衆の面前で、人々からは余興のような扱いを受ける。
財産を取り上げられ、大勢の目の前で恐ろしい刑で死を迎える。
なるほど、確かに夫妻の反応も頷けた。
「泊まってた野郎が勝手に部屋で死んじまったのが悪いんだ! 金も払ってねぇし、埋める費用もなかったんだから仕方ないだろ?!」
「そうよ! どうせどこかで野垂れ死ぬような人達だったんだもの!! 医学に貢献出来て、私達のためにもなるんだから良いじゃないっ!!」
虫の良い彼らの言葉に思考を中断され、呆れを通り越して感心すらしてしまう。
そんな言い分が本気で通用すると思っているのなら救い様のない人達だ。
部屋で宿泊客が死んでいたことを素直に警察へ届け出ていれば良かったものを、彼らはそれを隠し、遺体を解剖学へ回して死者の尊厳を踏みにじったのだ。
恐らくこの世界の人々にとっては軽蔑に値する行為なのだろう。
足に縋り付かれた刑事さんが心底嫌そうにそれを払って立ち上がる。
「お前らの言い分なんざどうだって良いんだよ。問題なのは死体を勝手に売っ払っちまったことと、その後に金目当てに何人も殺しちまったってことだ。それがどんだけ非道な行いか分からない奴は斬首刑がお似合いさ」
侮蔑の入り混じった声音に夫妻は金魚の如く数回口を開けては閉じ、結局返す言葉が見当たらなかったのか押し黙る。斬首刑と聞いて顔を青くした癖に最後まで殺めた者達への懺悔や反省の色は見えなかった。
足元の夫妻などまるで存在しないような風に刑事さんが欠伸を零す。
「こんな奴らに睡眠時間を削られるなんざ堪ったモンじゃねえ。後のことは何時も通り報告書を送っときますんで、旦那さえ良ければとっとと御開きにしましょうや」
「ああ、そうだな。ご苦労だった」
「それはお互い様ですよ」
刑事さんはそう言うと夫妻を部下達に連行させ、私達も一緒にホテルの外へ出る。
馬車に戻ると御者は舟を漕いでおり、馬も待ちくたびれたのかつまらなさげに何度も地面を蹴っていた。御者に声をかけて屋敷への道を戻る。時刻を確認すればもう早朝と言っても良い時間だった。
斜向かいに座る伯爵は腕を組んだまま目を閉じて背もたれに身を預けている。
そんな姿にわたしもこっそり欠伸を噛み殺す。今から寝てしまうと時間がズレそうだし、いっそ徹夜して明日は用事をこなしてしまおう。何か急ぎの用はあったかなと考えて、ふとキースとカルクィートさんの顔が頭に浮かぶ。
「……あ」
「何だ」
どうやら目を閉じていただけらしく、無意識に零れた声にブルーグレーが片目を開けた。
やや眠たげなそれに申し訳なさを覚えつつ言葉を繋げる。
「キース達への報告はどうしたものかな、と思いまして」
本件の概容を伝えるにしても、伯爵側の失踪事件と不審な遺体をそうと分かっていて引き取った教授の話をどこまでして良いものか。
それを知ったカルクさんは以前と同じような振る舞いを教授へ出来るだろうか?
生真面目過ぎる印象が強い彼には到底無理な気がして、それを考えたら黙っていた方が良いんじゃないかと頭の中で囁く自分がいる。しかし曖昧に濁しても多分彼は納得しない。
「……そうだな、此方の事件に関しても大まかであれば伝えて構わん」
「教授の件も?」
「
「そうですか……」
本当は真実を伝えなければ嘘なんだ。
相手を傷付けてしまうものだったとしても、誰も報われないものだったとしても、嘘は所詮嘘。一時の同情心で吐かれるそれは決して優しさではないし、傷付けたくないと思う気持ちは人間のエゴだ。
「教授というのは地位よりも名誉面での意味合いで立場が強い職だ。知識、教養、見識に優れ、その方面の学問に秀でた者が就任する特別な地位であり、優れた有識者は国の益そのものでもある」
何時になく語気を強めた声が、けれども小さな子供を諭すような口調で言葉を紡ぐ。
「例え罪人になろうとも、その処罰をおいそれとは決められない。外部へ漏れれば厄介なことになるからだ。有識者の親族や彼らを慕う者達による処遇への反発、優秀な人材を手放したくない学院からの圧力、地位の向上や財産の増加を目論む貴族達が
「そんなに……?」
それはもう個人という枠を超えている。
思わず腕を擦ったわたしにブルーグレーの瞳が僅かに和らいだ。
「そう怯えるな。今のは例えであって、必ずしもそうなるとは限らん」
誤魔化すようにそう締め括られても一度感じた寒気は消えなかった。
たった一人の人間によって世界が変わる。
誰かの何気ない思い付きや純粋な興味が本人の意図を超え、想像もしない方向へ転がるというのは現代の歴史上でも数え切れないほどにあった。
何時だったか知識は武器だと誰かが言った。目には見えない、触れることも出来ない、使い方を誤りやすい諸刃の剣。知識はまさにそれなのだ。
そうして、国の技術が漏れるとは敵に弱点を晒すようなもの。
多くの人々がいればそれぞれ考えが異なるように、複数の国が存在すれば国力を高めるために互いの利益を奪い合おうとする。それはきっと、どこの世界でも変わらないものだろう。
この国を手中に治めたいと思っている他国には喉から手が出るほど欲しい情報(もの)だ。
わたしが偶然耳にしていないだけで政治上ではそういった話は幾度も議題となっていたのかもしれない。人同士が喧嘩をするのと同じく、この国にも他国との戦争の影は見え隠れしているはずだ。
「午後は登城する。数日――……いや、遅くとも数週間以内に教授の件も失踪の件も片が付く。教授の処遇も決定し次第学院へ言い渡される。何(いず)れ耳に入ることだ、詳細は聞かれても知らんと言っておけ。お前がわざわざ嫌な役回りを演じる必要もない」
「……畏まりました」
話を切り上げるのとほぼ同じタイミングで揺れが止まる。
馬車から降りたわたし達の前で玄関扉が開き、寝ずに待っていたらしい執事が出迎えた。
「お帰りなさいませ、留守中も
「そうか、遅くまで苦労をかけた。明日は午後に登城するが、それまでは休むので朝は起こさなくていい。お前も今夜はもう仕事を気にせずゆっくり休め」
「お心遣いありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて失礼させていただきます」
わたしから見ればまだまだ若いが、この世界では初老に差し掛かった年齢だ。夜更かしは
顔を戻せば欠伸を零す伯爵と目が合う。
「私は午後まで眠る。……少しは休んでおけ」
決まり悪げに視線を逸らして伯爵は浴室へ行ってしまった。
そんな姿に内心で苦笑し、わたしも自室へ向かう。
ふと見上げた窓越しの空は白み始めており、浮上しない心とは裏腹に雲一つない快晴だった。
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