道、十二路。
* * * * *
「――……以上が今回お受けした依頼の結果です」
同日の午後、リディングストン侯爵家の一室でキースとカルクィートさんを前にそう言葉を締め括る。
数年にわたる浮浪者や出稼ぎ人の失踪、解剖に使われる献体の違和感、人喰いホテルの奇妙な因果関係を大まかにだが説明した。
とあるホテルを経営する夫妻が身寄りのない宿泊客達を殺害し、報奨金目当てにその遺体は解剖学へ持ち込まれ、学部の院生達の手によってそれは解剖され、証拠は消える。
図らずも犯罪に加担していたと知り、カルクィートさんはソファーの上で頭を抱えた。
教授の件については知らぬ存ぜぬで通す。
それでも、数週間後には彼も真実を知るだろう。
想像するまでもなくカルクィートさんが更に悩み苦しむのは明白で、真実を伝える役目を嫌な役回りと伯爵が称するのも頷けた。
傷付いた相手を理解しようとすれば、その心に共感した自分もまた傷付いてしまう。
この世界で付いた傷が深くなればなるほど元の世界との縁が薄れていくような気がして、そんな時はどうしようもなく不安になる。何時かこの世界の傷が元の世界の傷すら多い隠し、元の世界の記憶が過去のものとして日常に埋もれて行くのが少し怖い。
一年前は毎日のように家族や友人、学校のことを思い出していたのに今では殆ど考えなくなっていた。それだけわたしはこの世界を受け入れ、ココに馴染んでいる。
しかし元の世界への哀愁という傷はわたしを形成する大切な記憶なのだ。
わたしはもうこれ以上
これは優しさではなく弱いわたしの最低な逃げ方なんだろう。
「……ここまで調べてくださって、ありがとうございました……」
蚊の鳴くような細々とした声でカルクィートさんに感謝の言葉を返される。
沈みかけていた思考を払いながら首を振った。
「わたしの方こそ、このような結果をお伝えすることになってしまい申し訳なく思います」
「いえ、セナさんのせいではありませんから……」
握り締められた拳が微かに震えている。
隣りに座るキースが労わるように肩を数度、軽く叩いていた。
「……そうだ、何かお礼をさせてください」
思い出した様子で緩く顔を上げたカルクィートさんにもう一度首を振る。
「その必要はありません。今回の件がきっかけで失踪事件も解決したようなものですので、感謝すべきはわたし達の方です」
「そんな、僕は何もしていません。……むしろ死者を冒涜し続けてしまいました」
目を伏せ、痛みに耐えるように唇が噛み締められる。
長所とも言うべき生真面目さが今回は仇となってしまったようだ。こういう人には慰めの言葉は無意味だろうし、言えば言うほど己の無知さを嘆くだけだ。
「では医学の道を諦めるのですか?」
わたしの唐突な問いにカルクィートさんが目を丸くする。
「解剖の件はあなたに非はありません。なのに今のあなたは‘冒涜した’という罪ばかりを考えて、その功績を全く顧みていません。本当に献体となった方々へ
「あ……」
「そして、そうすることであなた自身を赦してあげてください」
ぽたり。カルクィートさんの瞳から涙が零れ落ちた。
それは堰を切ったように止まることなく白い頬を伝って彼のズボンへ吸い込まれていく。
両手で顔を覆って、何度も頷きながら嗚咽を漏らす姿にキースも唇を真一文字に引き締めていた。何も言わずに背へ添えられた手が静かに上下し、比例して雫の落ちる数が増える。
これ以上見ているのは失礼だろう。
振り向いたキースに手で扉を示して帰るジェスチャーを見せると小さく頷きが返って来た。
ソファーから立ち上がり、そっと部屋を出る。
どれだけ彼が人を救おうとも、恐らくその心が完全に解放されることはない。あれは彼のを薄めるための薄っぺらい綺麗事だ。そしてわたしのエゴという名の偽善でもある。
そうと分かっていて口にするわたしも、あのオーナー夫妻に負けず劣らず汚い人間なのかもしれない。
馬車に揺られて屋敷に帰る間、押し殺した嗚咽の痛切な余韻は耳から離れなかった。
* * * * *
陶器のように白く滑らかな肌をした細い指が紙を捲る様を、クロードはぼんやり眺めていた。
随所に散りばめられた一目で腕の良い職人達が彫り上げたと分かる部屋の彫刻、有名な画家が描いたと
普段はあまり口にしない甘味を黙々と摘まみながら欠伸を噛み殺した。
目の前の人物が報告書とやや歪んだ手紙を読み終え、顔を上げる。
蜂蜜にも似た柔らかな
彼女こそ、この国の頂点に立つ女王陛下その人だった。
「御苦労でしたわね、アルマン」
紡がれたよく通る声にクロードはやや眉を寄せ、持っていたカップとソーサーをテーブルへ戻す。
返された手紙を受け取り溜め息を零した。
「分かっていらっしゃるのなら、何でもかんでも此方へ寄越さないでいただきたい」
何をと言わずとも意味を理解した女王は、さも可笑しそうに笑ってクッキーを口へ運んだ。
サクリと香ばしい音が立つ。
「あら、貴方は仕事を放棄する気なのかしら?」
「まさか。ただもう少し警察側で粘らせても宜よろしいのではないかと申し上げているのです」
「そうね、一応気に留めておくわ」
言外に無理だろうけれどと刺された釘に、その話題についての会話を諦めざるを得なかった。
元よりあまり期待もしていなかったため特に気にせず話題を変える。
「それで、教授の処遇は?」
話を軌道へ乗せ直したクロードに女王も笑みを消す。
「国としてはあの方を失うのは得策ではないけれど、だからと言って不問にも出来ないわ。罪を犯した以上は誰であっても大なり小なり罰を受けなくてはならないもの。あの方には今後、
予想していた言葉に頷いた。
早い話が終身刑である。幽閉場所は刑務所よりもずっと美しく、多少の自由も利くが、彼の教授としての立場やこれまでの人生は全て塵と化すだろう。そして親しい者と会う事も二度と叶わない。
表向きは処刑したと発表されるだろう。棺に眠るのは恐らく名も知らぬ替え玉だ。
どれほど国や医療に貢献していようとも犯した罪がなくなる訳ではない。
それでも彼の行いを
「御意に」
「ごめんなさい。貴方にはまた
「いえ、陛下の御温情に感謝致します」
例え己の恩師であっても罪人は罪人。裁かれるべき存在だ。
そうしてクロードは『
処罰へ私情を挟むなどと恥知らずな真似をするつもりは毛頭ない。
「後日警察より書類を送らせますので詳細はそちらにて御確認下さい。私はこれで失礼させていただきます」
このまま此処にいても過去の苦い記憶を蒸し返されるだけだ。
既に今回の件の報告も教授の処遇の判断も終えた今、長居する用はない。
手紙を懐へ仕舞い、立ち上がるとアビの裾と襟を整えて一礼し、扉へ向かう。
「クロード」と背に声がかかった。
「本当にこれで構わないのね? 後で悔いても遅いのよ?」
それは教授の件か、セナに黙っている件か。それとも自分自身の件か。
いずれにしろ今更何を言ったところで無意味な話である。
クロードは扉の取っ手を回しながら低く呟いた。
「――…後悔など、やり直せる者がすることだ」
追究を拒絶するかのようにクロードは少々乱暴に扉を閉めた。
気付くには何もかもが遅過ぎる。それは己自身が最もよく理解していた。
* * * * *
帰って来た伯爵が「陛下の判断で教授は処刑されることとなった」と平坦な声音でそう言った。
盗み見たブルーグレーからも感情は読み取れず、わたしは並べようとしていた紅茶のソーサーとカップを片手に頭の中で今聞いた言葉を
――……教授が処刑される。
陛下は言わずもがな女王陛下のことで、何故そこで女王陛下が思い、昨夜の馬車でのやり取りを思い出した。それはつまり、そういうことなのだろうか?
目を瞬かせていれば先ほどより噛み砕いた説明が入る。
「正確には刑に処されるのは替え玉だ。教授自身は陛下の離宮にて人知れず余生を過ごす。……これは他言するな」
「それって……」
まるっきり幽閉じゃないか。
代弁するかの如く、わたしの途切れた言葉に続きが紡がれる。
「終身刑にほぼ等しいが、刑務所より自由も利くであろうし、研究も続けられるのだからそう悪い処遇でもあるまい。何より処刑を免れられる。だが関わりのある私は二度と会うことは叶わぬだろうな」
他人事のように話す伯爵の顔を今度は正面からまじまじと眺め見る。
相変わらず冷たい色味のブルーグレーと感情に乏しい表情をしているけれど、どことなく感情を押し殺している風に感じられた。この間言ったばかりなのにもう忘れているようだ。
親しい人と二度と会う事が出来ない
ソファーから立ち上がって伯爵の後ろへ回り込み、その首に手を回せばビクリと銀髪が揺れる。
それを無視して形の良い頭を抱き寄せた。
「伯爵の馬鹿」
離れようとする頭を押さえ込む。それでも僅かに抵抗があった。
「親しい人に会えないのは辛いことだよ。会いたいのに会いに行けないのは、ホントに苦しい。親しい人だから、助けられるなら助けたいって思うのは当たり前だと思う。だけど立場のせいでそう出来ないってのも分かるよ。この一年、側で見てたから」
伯爵は黙ったまま何も言わない。抵抗が止んだ。
代わりに腕が触れている肩が微かに震えている。
「でもさ、それだけ伯爵にとって大きな存在だったんなら泣いたって良いじゃん。どうにもならないけど、たまには溜まったもんは吐き出しなよ。泣いても、誰も伯爵を責めたりしないんだからさ」
言っている途中で、ふと両親や友人の顔が浮かんで泣きたくなった。
生きてるのに会えない。
――だってみんなの生きる場所とわたしの生きている場所は違う。
会いたいのに会いに行けない。
――帰り方も、どこへ行けば帰れるかも分からない。
何でわたしはここにいるのだろう。
――でも誰もその答えを教えてはくれない。
この世界に来たばかりの頃は悲しさと寂しさに毎晩毛布に
手袋に包まれた手が控えめにわたしの腕に触れる。
「……お前が、先に泣いてどうする」
僅かに呆れの含んだ声がした。
「泣いてないっての」
喉がひり付くのも、瞼が少し熱いのも、声が震えるのも気のせいだ。
ちょっと腕に力を込めて言い返すと伯爵は銀髪を揺らして「そうか」と
意外と幅のある肩口に後ろから顔を寄せる。
抱き締めた肩が震えていることにも、回した腕の袖部分にポタポタと何かが落ちる感覚にも、体温の低い伯爵の体が普段よりも少しだけ温かいことにも今だけは気付かない振りをする。
想う相手は違えど、互いの心を占める感情はきっと同じだろう。
わたしも目を閉じて大切な人々を瞼の裏に思い描く。
頬に伝った雫は気のせいだと自分に言い聞かせ、目の前の肩に額を押し当て言葉にならない想いを飲み込んだ。
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