一章 八王子ルート 霧の中の別れ

近くに人の気配を感じた。

誰かがおれの顔を覗き込んでいる。


「真紅……?」


「お。気が付いたのか」


瞼を上げる。

視界に飛び込んできたのは赤と青の派手な着物。

こんな格好をしている奴は一人しか知らない。


「なんだ万里か…なんでここにいるんだ?」


「様子を見にきたら寝込んでるんだからよ。

こうしておれが直々に看病してやってんだ。

ありがたく思えよ」


「ああ…そうだったのか…すまん…」


しかしふと疑問に思う。

何故万里がここに?

ゆとりちゃんだったら分かるが、万里が朝早くにここに来るなんて事あっただろうか。


「どうした、暁。まだ具合悪いのか?」


「いや、なんでもない。おれもそろそろ起きる…」


立ち上がろうとする。

だが体が大きく傾いて膝を突く。


「おいおい、まだ本調子じゃねえんだからおとなしくしてなって」


万里は近づいてきておれを布団に寝かせる。


「すまん…ところで万里。なんでお前ここにいるんだ?」


「なんだよ。おれがここに来ちゃ悪いのか」


「いや、そういうわけじゃないが、おまえがここに来るなんて珍しいだろ?

なにかあったのかと思ってさ」


そう言うと万里は一瞬無表情になる。

やはりなにかあるのか。

だが、次の瞬間にはいつもの馬鹿っぽい笑い顔を浮かべていた。


「なんだよお前勘ぐり過ぎだぞ。

何かってなんだよ、何もあるわけねえだろ。

お前はもうゆっくり寝てろって、じゃあ俺はもう行くからな」


万里は立ち上がると部屋を出て行こうとする。


「行くって…どこにだよ。

万年さぼりのお前が何をするってんだよ」


「ひでえ言い様だな。

俺はお前に言えないようなことを日々してんだよ。

ほっとけ」


「待てって」


出て行こうとする万里を引き止める。

どうしても確かめたいことがあった。


「万里…今日ゆとりちゃんはどうしたんだ?」


「なんだ。お前そんなにゆとりに会いたいのか。

そりゃゆとりが聞いたら大喜びだな」


「そういうことじゃない。

だっておかしいじゃないか、いつもだったらゆとりちゃん真っ先にここに来るのに…。

別に自惚れてるわけじゃないけど、嫌な予感がするんだ」


そこまで言って眩暈がした。

まだ完治したわけじゃないのに無理に話しすぎたせいかもしれない。

頭が朦朧とする。


「まだ病み上がりなのに無理するからだ。馬鹿」


万里が無理矢理俺を布団に寝かせる。

意識が混濁してきた。


「万里…」


「お前は何も気にすることはないんだよ、いいからもう寝ろ」


万里の手が俺の目の前に覆いかぶさる。

無理矢理瞼を塞がれる。

暗闇が訪れて眠気が増す。

たく、相変わらず乱暴な奴だ。


「じゃあな」


その手は離れ、出て行く気配がして静寂が訪れた。

そしておれは抗う事もできずにただ眠気に誘われるまま意識は闇に落ちていった。




山は気象の変化も激しい。

特に湖に近いこの村は霧が頻繁に発生し、視界をくらませてしまうのだ。


霧は全てを飲み込み見えなくしてしまう。

そしてなにも分からなくしてしまう。

おれは、君の事も全て分からなくなってしまう。


深く濃い霧はおれを包み込む。

真っ白になって、まるで独りぼっちになったようだ。


今、目の前に見える光景は霧が見せる幻影だろうか。

君がおれから離れていく、遠くに行ってしまう。

こちらに伸ばした手は何も掴めず、何も捕らえられない。


行かないでと言って君は泣く。

それはこっちが言いたい事だよ。

おれも君に行ってほしくないんだ。


手を伸ばす、しかし届かない。

水が体中にまとわり付く、それは雫になって頬から滴り落ちる。

目の前がぼやけて見えなくなる、君の姿が見えなくなる。

拭っても拭っても水は流れて止まらない。

そして気づく、おれも泣いている。


白い視界に埋め尽くされ、おれはどうしたらいいのか分からない。

なあ、君はどこに行ってしまったんだ?

置いていかないで。

もう寂しいのはいやだよ…。


君がいなくて今までどんなに寂しかったものか、言葉では表せないくらいだ。

だから、このままじゃだめだよ。

おれは君の事が分からなくなって、そして…。

忘れてしまうんだ………。



気づくといつの間にか目の前には八王子がいた。

しかしその格好はいつもと違って、まるで旅にでも出るかのような装いだった。


「結局お前はここまでしか至れなかったという事か…。

まあその方がお前には仕合せだろうがな」


何のことを言っているのかまるで分からない。

八王子からはある種の諦めが感じられる。

話しかけたいが声が出ない。


奴は一体何者だ?


今まであまり考えた事がない疑問が浮かぶ。

そもそも八王子って何なんだろう。


どうして急にこの村にやってきてこけしを作り始めたのだろう。

どうして急に冷たくなってしまったのだろう。

どうして昨日はあんなに優しかったのだろう。


そしてどうして今はこうして遠くからおれの事を見ているだけなのだろう。

お前の考えてる事がわかんねえよ…。

なんでいつもそうやって何も言わないで見てるだけなんだ。


あのときだってお前は黙っているきりだった。

お前が何か言ってくれるんだったらおれだってああも怒ったりしなかっただろうさ。

そうこうしているうちに八王子は踵を返す。


「では私はそろそろ去ろう。

もうここにいても意味がないのでね」


意味がないとはどういうことなのか、まるで八王子に見捨てられたかのように感じた。

逃したくない。

だが体がいう事を聞かない。


「さらばだ。もうここに来る事もないだろう」


そうして八王子の背は遠ざかる。

何故こうなってしまったんだろう。


涙を流していることに気づく。

結局おれが無力だったってことなのか…。

ああ、こんなにも悔しいことはない。


おれは馬鹿だ。

本当に馬鹿だった…。


「ごめん…ごめんよ真紅…本当にごめん…」




次第に確かになってくる景色。

見えてきたのは藁敷き屋根の天井。

そして部屋にはおれ一人がぽつんと残されていた。


ああ、おれ一人なんだ…。


そしてどのくらい時間が経ったのだろう。

万里がやってきた。

手には紙包みを。


「暁…」


「万里。真紅は?」


「暁…すまない…すまない…!」


そう言って差し出す紙包み。

受け取りゆっくり解いていく。

そしてそのから出てきたのは、一房の綿糸の如く黒髪。


真紅おかえり。


おれはそれを優しく抱きしめた。



目の前に臨むのは湖。

水面は日を返さぬ暗黒が支配している。

しかしそれこそおれに相応しい。


ゆっくり一歩一歩確かめるように水中へと侵入していく。

足を濡らし着衣に至り着物が水を吸い込んでいく。

徐々に体は水に浸り、深度の深いところに来るとその重りにまかせ身が沈んでいく。

全身が水に包まれる。


見上げると月明かりに照らされ水面がゆらゆらと揺れている。

自らが出す気泡と相まってまるで幻想世界のような美しさ。


そして持っていた紙包みを開く、中からは絹糸の如き真紅の黒髪が流れ出てきて上っていく。


真紅。


おれももうすぐ傍に行くよ。

だからもう寂しくないよ。


そうしてやがて俺の身も心も水に解けて消えていく。

後に残るのはゆらゆらと揺れる水面の月明かりだけだった。

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