霧の中
余談 霧の中 1
霧の中…君の声が聞こえる。
視界が白に覆われている。
霧を纏い、全身が雫に濡れている。
着物は水を含み、重く体に纏わりつき歩みを遅くさせる。
声に呼ばれている気がした。
だから霧の中ここまで歩いてきたのだ。
霧の出ている時は外に出てはいけない。
あしびき様に捕まりたくないのならば…。
村に伝わる古くからの言い伝え。
それは村人たちを外に出さないための言い訳。
外に出ては都合が悪い。
何を見せたくないのか。
何を見られては不味いのか。
知られたらどうなるか。
知ったから今の自分がある。
霧の中はもう怖くない。
あの人に近くなった気がするから。
あの人が呼んでいる気がするから。
そう信じたくて…。
ここまで来てしまった。
目の前には湖の水が見える。
風もなくしんと静まり返る、波のない綺麗な水面。
緑の匂いが強く鼻孔をくすぐる。
その中には腐敗したような匂いも混ざっている気がした。
奇妙な光景であった。
湖の中から彼岸花が束になって咲き乱れている。
真っ赤な真紅の美しいが少し気味も悪い花。
湖の中に咲くなど見る事のない光景ではないだろうか。
咲くのはそう…墓場。
死者の眠る地面にこの花は咲き乱れる。
ここにいるのだろう。
だから手を伸ばして、彼岸花に触れようとした。
急に視界が反転した。
強く何かに腕を掴まれ無理やり水面に引き込まれた。
心臓が早鐘を打ち、口からは空気の泡が漏れていく。
固く閉じていた眼をかろうじて開き、相手の姿を確認しようとした。
そこには懐かしい姿があった。
愛おしくて、会いたくて、ずっと探していた相手。
しかしその姿は彼岸花に覆われ真っ赤に染まっていた。
体から彼岸花が咲いていた。
その姿を目にして、肺の空気をすべて吐き出した。
声にならない叫びを上げていたのだ。
自分の吐きだした空気の泡に視界は覆われて、絶望の淵に立たされる。
はっと意識が覚醒した。
そこは先程の景色とはまったく違う場所だった。
真っ暗な室内。
粗末な布団で眠っていた。
全身汗をかいており気持ちが悪かった。
息が荒く、心臓が早鐘を打っている。
隣の気配を感じ顔を向ける。
そこにはまだ幼さの残る可憐な少女が寄り添うように小さな寝息を立てていた。
あどけなく眠る少女の姿を見ていたら、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
慰める様に少女の肢体を抱き、強く抱きしめた。
そして愛しい人の名を囁く。
やがて吐息は落ち着き、規則正しい眠りの呼吸に変わっていった。
その様子を確認するように、少女はゆっくりと目を開ける。
複雑そうな悲しそうな表情を浮かべ、されるがままにしていた。
「暁さんの洗濯です!」
布団を干しながら晴れやかな笑顔を向けてくる少女がいた。
まだ幼さの残す顔立ち、可愛らしい仕草、朝から元気がいい。
少女の名はゆとり。
暁の妻として身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれている。
「…ゆとり?」
低血圧気味な暁はいまだ眠気眼でゆとりに訝しげな視線を向ける。
ゆとりの底抜けな明るさはふさぎ込みがちな暁にとってありがたいが、時々うっとおしくも感じる。
「だから!暁さんを洗濯するんです。
いつまでも家に引きこもってたらカビが生えちゃいますよ」
つまりゆとりの提案は暁を外に連れ出そうというわけである。
「いや……」
「外はぽかぽかいい天気。
たまにはおてんとうさまを拝みましょうよ。
気分も多少は晴れますって」
あの事件から暁はひどく落ち込んでいた。
身の回りの事も手につかないくらい、ただ日々を無為に過ごしていたようなもの。
湖を囲むようにある村。
昔からこの湖には主が住まい、村に災いをもたらすと信じられてきた。
湖に足を引かれる。
そこから転じてあしびき様と呼ばれるようになった。
そして湖の主に捧げる生贄として、若い生娘が選ばれてきたのだ。
暁の双子の姉である真紅もその娘の一人だった。
しかし悲劇は起こった…。
真紅による村人殺害。
儀式の生贄に選ばれていた真紅は返り討ちの時をねらっていた。
村長とその関係の者たちはすべて殺された。
儀式の現場はひどい有様で、横たわる死屍累々。
赤い血をまき散らし、むせ返る血の匂いが漂う。
儀式の失敗を村人たちは恐れた。
神社に住まう村長の孫娘である少女を代わりの生贄にすることを考えたのだ。
少女は抵抗することもなく贄として殺されたらしい。
思い返すのは晒し首となった村長と神社の関係の者たち。
並ぶ首の中に綺麗な髪の少女のものがあった。
その首だけは綺麗な顔のまま微動だにせず…人形のように美しく。
誰かの投げた石が暁の頭に当たる。
ずきずきと痛み血が流れる。
それから続く罵詈雑言。
この場所はもう暁の居場所ではなかった。
事件の後、真紅の姿を見た者はいない。
死んだとも逃げたとも、真相は闇のなかであった。
そして全ての責任は双子の片割れである暁に向けられた。
村八分にされ、今暮らしているのは村から離れた、枯れた酷い土地である。
暁一人ではここで生きていくのは困難だっただろう。
だが、ゆとりだけは暁に味方した。
妻となり暁を支えてきた。
幼少から交流の深かったゆとりと暁、そして真紅。
ゆとりの兄である万里は表立っては暁を敬遠したが、裏では多く支援をしていた。
生活に貧窮する妹夫婦に僅かながらの作物を与えていた。
貧しいがなんとか食いつないできたのだ。
「ゆとり…気持ちは嬉しいんだけど。
そういう気分じゃないんだ…」
断ろうとする暁の言葉を制止し、ゆとりは暁の手を取る。
そして無理に引っ張っていく。
「いけませんよ!
今日こそは暁さんを温泉に入れるの刑です。
いい加減匂ってきてます!
そういう意味でも洗濯なのです」
ほぼ一日中、家に引きこもっている暁。
当然身だしなみなども放りっぱなしで、香ばしい匂いが漂っていた。
自分の乱れた様子に気を向ける余裕も今の暁にはないのだ。
「うう…勘弁してよ…ゆとり」
言葉では抵抗するもののゆとりにされるがままである。
少女の腕力に抵抗する力さえももうない。
「お!ちょうど出てきたか。
元気…ではなさそうだが、何とかやってるみたいだな」
家から外に出たところで鉢合わせになった男。
ゆとりの兄である万里である。
可憐な姿のゆとりとは違い、万里は逞しく豪快な男だ。
今日も煙管を咥え煙を燻らせている。
「お兄ちゃん!突然どうしたの!?」
突然の訪問者にゆとりは驚く。
村八分になった後もゆとりに支援を続けていたのは万里だけだ。
だが、裏でこっそりとしている事のため。そう頻繁に訪れることはできない。
昼間から堂々とやってくるのは珍しい。
「元気にしてるか確かめに来たんだ。ゆとりは相変わらず騒がしいな」
けらけらと豪快に笑う万里。
意識しての行動なのかこの男としては謎の部分も多い。
しかし万里の明るさが幼い夫婦を支えてきたともいえる。
「もう!わざわざそんなこと言いにきたの!?
暁さんからも言ってやってください!」
続いて暁がゆとりに引っ張られるように外に出てきた。
その姿を見て一瞬目を見張る万里だったが、すぐにいつものニタニタ笑いを顔に浮かべる。
「なんだよ暁…。前にも増してひょろひょろで小さくなっちまってよ。
ちゃんと食ってんのか…よ!」
ばんっと暁の背を叩く万里。
万里としては軽く叩いたつもりだったが、それだけで暁の体はふらついてしまった。
「痛って…ふざけんな万里。余計なお世話だ」
万里に対するいつもの返しである。
体が弱ろうとも万里への対抗意識は消えていない。
まだ以前の負けん気は残っているらしい。
「そう言うなって。
ゆとりのためにも食っとけよ、ほら!」
そう言って風呂敷の包を渡す。
いつもの食糧だ。
万里のほどこしは二人にとって、命を繋ぐ糧である。
「いつもありがとう…お兄ちゃん」
ゆとりは申し訳なさそうに言う。
しかし心から有難いと思った。
「体力付けないといざって時に力でないだろ。
おれは二人の子供、楽しみにしてるんだからな?」
にやっと笑う万里。
こういう時、場を和ませることを忘れない万里である。
しかし少々下品だ。
顔を真っ赤にするゆとりに対して、暁は相変わらず気が抜けた様子だ。
暁の様子にゆとりは内面気を落とす。
自分とのことをからかわれても、暁はあまり動じないのだ。
つまりそれは…暁の中でゆとりはあまり女とみられていないという事なのか。
だが気を取り直して次の行動に移る。
気の切り替えは早いのである。
「せっかく来てくれて申し訳ないけど…。
これから暁さんの洗濯しないといけないの。
だからもう行くね」
ゆとりの頓珍漢な発言に眉をひそめる万里。
「あ?なんだって?
暁の洗濯ぅ?なんだそりゃ」
「山の上の温泉に入ってくるって事!」
ゆとりの言葉に納得顔の万里。
鼻をひくひくさせて暁に顔を寄せる。
匂いを確かめているのだ。
確かに匂った。
暁は露骨に嫌そうな顔をする。
「なるほど…こりゃ香ばしいにもほどがある。
よし、早く行って来い暁!
いくらなんでもこのままじゃゆとりに嫌われちまうぞ」
二人の背を押し、山の方へと誘導する万里。
「押すなってこのくらい歩ける」
暁の言葉に手を離す万里。
少々ふざけ過ぎたと感じた。
場を和ますためだが時々やり過ぎてしまう。
少々反省する万里である。
暁は万里の方を向く。
そして力なく言った。
「いつもありがとな万里。それじゃ…」
一応は礼を述べるものの目は虚ろなままの暁である。
「じゃあねお兄ちゃん。
あんまり村の人たちに気取られないように慎重にね」
笑顔で暁を引っ張っていくゆとり。
「おう!」
万里は二人をほほえましく見送った。
大きく手を振る。
やがて二人の姿が見えなくなると力なく手を下ろし、暗い表情をする。
そして苦渋の顔でつぶやいた。
「あいつ…さらに痩せてやがる…」
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