一章
一章 序盤
◇序 琵琶法師は語る
ゆっくりとつまびかれる楽器の音色。
薄ぼんやりと部屋を照らす明かりに浮かぶ。
一人の琵琶法師の姿がありました。
「今は昔のことでございますが、聞いていただきたい物語がございます…。それはめったに人の訪れる事のない、寂れた山奥にある小さな村での事。哀れな双子の姉弟の物語」
◇一章
「霧が出たら外に出てはいけない」
「雨が降ったら水に近づいてはいけない」
「あしびき様に捕まりたくないのならば…」
誰かが歌っている。
この唄は…そうだ。
村に伝わるあしびきの唄だ。
その声はあまりに心地よくてすっかり身をまかせてしまう。
「あれ?暁はもう寝ちゃったの?本当によく眠るんだから。」
声の主はくすくす笑って語る。
「ねえ、暁。
今日も山はとっても綺麗よ。
この山も湖も村も私は好き。
だってここは私達が生まれてからずっと過ごしてきた場所なんだから。
でもね、私をそれらの主に捧げようとする人たちがいる。
私を………………しようとする人たちがいるの。
だからもう一緒にいられない…」
君が何を言っているのかよく分からない。
だからその姿を認めて呼びかけたい。
だが目を開けることはできない。
強い睡魔は瞼を固く閉ざし、おれの自由になる事はない。
まどろみの中でただ耳を傾けるだけだ。
「あ、もう行かなくちゃいけないみたい。
最後にこれだけ。
私は絶対に戻ってくるから。
だから…私の事…忘れないでね」
行ってしまう。
待って、待ってくれ。
しかし相変わらず体の自由は利かない。
こうしてるうちにもあの子は行ってしまうのに…
唐突に瞼は開いた。
そして…。
「暁……………さ………ん…………暁………さ…ん……………」
遠くに聞こえていた声。
段々と近づいてくる。
「暁さん!!」
そして大声で呼ばれ意識が覚醒した。
「もう!暁さん!またそんなところで寝て!風邪引きますよ?」
先程の光景は夢だったのか…。
急に視界は鮮明になった。
目の前には少女がいた。
小柄で髪は短め、明るい色の着物を着ている。
大きな目を丸々と見開き、心配そうにおれを覗き込んでいる。
小動物のような印象を受ける。
「………………」
しかしはっきりとしない意識の中。
少女の声が頭に響かず、ぼんやりとしていた。
「暁さん?聞いてます?」
いい加減痺れを切らしたような様子である。
「ん…………。ああ…君は…」
記憶が混濁しているのか、すぐには少女の名は出てこなかった。
だがおれは知っている。
この子とは長い付き合いなのだから。
「………ゆとりちゃん。どうしたんだい?ずいぶん慌てているね」
「どうしたのって………もう!
こんな霧の深い日は外に出ちゃ危ないじゃないですか!
ああ~着物こんなに濡らしちゃって!
日向ぼっこは晴れた日だけにしてくださいよ、もう」
一気に捲し立てる少女。
やっと気が付いた。
全身びしょ濡れ、湖の入り江で倒れていたのである。
どうしてこんなところにいるのだろう。
そう彼女はゆとりという名の子だ。
いつもおれを気にかけてくれる。
慌ただしくて早とちりだが、悪い子ではない。
おれとは正反対の性格だ。
しかし霧に囲まれたこの状況で日向ぼっことは可笑しな発想だ。
「何笑ってるんですか!ひどいですよ、暁さん」
知らないうちに顔が綻んでいたのか。
鼠のように頬をふくらます少女は可愛らしかった。
「ごめん…。そんなつもりじゃなかったんだよ」
「そんな暁さんには家の温泉で湯汲みの刑です。さ、いきましょう」
湯浴みの刑?
ああ…この子の家に連れて行かれるという事か。
条件反射で逃げの態勢に入る。
「ゆとりちゃん…それは勘弁してよ。おれがお湯苦手なの知ってるだろ」
「い~え!だめです、こんな冷えているのにほっとけませんよ。
暁さん、ただでさえ普段湯汲みに来ないんですから」
「う…」
相変わらずゆとりちゃんには口では勝てない。
何故かいつも通りのやり取りに違和感を覚えるものの、何がおかしいのかはっきりしない。
胸につかえる後ろめたい気持ちを抱えたまま、少女の言うがままにされるしかない。
「お客様一名ご招待!」
「………」
結局何も言えなかった。
ゆとりちゃんに連れられるまま来てしまった。
この村の名物ともいうべき温泉宿。
ゆとりちゃんはここの看板娘だ。
「ただいまー!お兄ちゃん居る?」
ゆとりちゃんが奥の方に呼びかける。
奥から男が出てきた。
この温泉宿の跡取り息子の万里だ。
「どうしたゆとり。なんだ、暁も一緒か」
「ねえ、もう湯汲みの人たちは来てる?」
「いや、まだ誰も来てねえぜ」
「そっかあ、じゃあ先に入れるね!よかったですね、暁さん」
「………………………」
あまりうれしくない。
「なんだ、暁にしては珍しく一番風呂を狙ってきたのか?風呂嫌いじゃなかったのかよ」
「違うよ、暁さんこんな霧の深い日に外出てたから体冷えちゃってるの。着物もこんなに濡れちゃってるし」
「うわっ。水浸しじゃないか!
まさか井戸に落ちたんじゃねえよな!?」
「お兄ちゃんって………本当に馬鹿なんですね。
井戸に落ちて無事で済むわけないじゃないですか」
困った顔をするゆとりちゃん。
本当に困ったやつだ、ここまで馬鹿だったのか。
「何でそういう流れになるんだ!軽い冗談に決まっているだろ!」
「お兄ちゃんがそういうこと言うと冗談か本気か分からないのよ。
今度からはやめてよね」
「そうだな」
「暁までそういうこと言うか!」
万里をからかうのはここではいつもの流れだ。
別に悪意あってのことじゃない。
しかしゆとりちゃん、日に日に口が達者になっている。
「さあ、早く行きましょう。
湯が冷めたらせっかく温まりに来たのが、逆に冷えてしまいますよ」
「別にそれならそれで入らなくても………」
「着替えは気にする必要ないですよ、濡れた着物はこちらで乾かしておきますし。
替えのお召し物はお兄ちゃんの物がありますから」
まるで聞かない。
「だが俺のじゃ暁には大き………ぐはっ!!」
気が付けば万里の腹におれの拳が食い込んでいた。
万里…今とてつもない禁忌を口にしようとしなかったか?
「げほっ!暁………いきなり何すんだよ…!!」
「何のことだ?」
「お前……当たり前の事言って何が悪い……」
「お兄ちゃんあんまりおいたが過ぎると知りませんよ?」
「ゆとりまで………」
万里…。
お前の仲間は一人も居ないんだよ。
「あちっ…あいかわらずこのぬめりか……」
せっかく今までここを避けてきたのに、今日になって入る羽目になるとは…。
お湯は苦手だ。
どうしても慣れない。
今までは万里に無理矢理つれて来られていたが、自分から来た事はない。
洗うだけだったら水でも十分じゃないか。
「どうしても入らなくてはいけないのか………。
いや、入った振りだけでも大丈夫なんじゃないか?
見られているわけではないんだから」
「暁」
「うわっ!?」
急に後ろから呼びかけられる。
ちょうど湯の具合を見ようと前かがみになっていたおれは体勢を崩した。
「あちっあちい!!」
「豪快に行ったなあ、暁」
おれが湯に落ちる事になった原因は万里だった。
厭らしい笑みを浮かべ俺を見下ろしている。
「この………いきなり声掛けるから落ちたじゃないかよ!」
「湯汲み場の中だというのに着物を着たままだからどうしたのかと思ってな」
全然悪びれた様子がない。
しかし、万里の格好は何だ。
着物は脱いで身に着けているのは腰周りの手拭だけ。
どう見ても湯浴みする気満々だ。
「お前…湯に入るのか?」
「暁…お前がちゃんと入れているかと思って様子を見に来たんだ。
お前いつも一人じゃ入れないだろう」
「暁さん!どうしたんですか?
すごい音がしましたけど」
そこにゆとりちゃんまでやってきた。
しかし、その姿を見てさらに驚く。
着物の裾を捲り上げて襷掛けにしている。
家事をしていたからそんな格好をしているのかもしれないが、いやな予感がする。
「ゆとりちゃんその格好は一体…」
「え……ああ!暁さんの背中を流そうと思いまして。
でもどうして着物のままで入ってるんですか?」
「これが暁流の湯浴み方なんだと!
人がせっかく着物を貸したというのに濡らしやがるし、ひどいやつだよなあ」
「違えよ!手前のせいだろ、万里!」
とっさのおれの言い訳にゆとりちゃんも反応する。
「まあ!本当いつもお兄ちゃんが迷惑を掛けてごめんなさい!」
「おい………」
しかしゆとりちゃんが味方したのは俺に対してだった。
万里ざまあみろ!
「背を流すというのはここにくるための口実だったんですけど…」
何故か頬を赤らめるゆとりちゃん。
「まぁ…暁さんが湯に入れてよかったです。心配御無用でしたね!」
ゆとりちゃん気合いを入れる様に腕を振り上げる。
おれは全く嬉しくない。
「入ったというか、落ちたというか…………」
相変わらずおれは湯に浸かったままだ。
二人が出て行かない限りはここから出ることもできない。
何故か?
今上がったら着物が張り付いて色々見えちゃうだろ!
「じゃあ、早速背を流させていただきます!さあ暁さん!脱いで脱いで」
「え!?ちょっと、それはなしだよゆとりちゃん…………」
おれに構わずぐいぐいくるゆとりちゃん。
心の準備をさせてほしい…。
「おお?暁ぃ…。
何を恥ずかしがってるんだ?」
万里は嫌らしく笑っている。
お前分かってて言ってんだろ。
「さぁさぁ!ちゃんと体を流して綺麗になるまで…家には返しませんよ?」
「観念するんだなぁ…。暁ぃ」
そして万里は自分ひとりだけゆったりと湯に浸かり始めた。
この兄妹は…どうしてこういうときだけ団結するんだよ!
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