おとうさんの五千円札

おざわしろ

第1話

マキは小学校三年生の女の子。彼女は自分の父のことが嫌いだった。



父は家に帰ると毎日のようにお母さんと喧嘩をしていた。その内容はまだ幼いマキには完全に理解することはできなかったが、普段は穏やかなお母さんを父が悩ませているということは分かっていた。


父は、マキが小学校のテストで満点を取った時も、絵画コンテストで賞を取った時も、二年生のときに皆勤賞を取った時も、調子に乗るなと釘をさす。

そのくせマキがいつもより少し長い時間テレビを見たり、マキが学校に忘れ物をしてきたりしただけで、必要以上にマキを叱った。


そんなうちに、マキは父のことを嫌いになっていった。いや、どうやって接すればいいのかわからなくなっていたのかもしれない。

いつのまにか父と目を合わせることもいやになり、ついには父との会話もあいさつ程度の最低限の会話だけになってしまっていた。


マキの中で「お父さん」という存在はいなくて、お父さんであるはずの人は「父」という形式的な肩書きを持ったただの他人のような存在だったのだ。




ある日、マキはいつものように家を出た。もう梅雨の季節が始まっていて、雨のせいでどんよりとした暗い空だった。


足元しか見えないくらい深く傘を差してだらだら歩いていると、水たまりがはねたせいか泥で薄汚れた靴がいくつか目の前を通ろうとした。

ふと傘を上げ目を向けると同じクラスの女の子たちだった。


まだ新しいクラスになって二、三か月程度しか経っていないためあまり仲がいいとはいえない子たちだったが、


「おはよう!マキちゃん」

「あ、うん、おはよう」

「今日の漢字テスト自信ないなあ、マキちゃん勉強した?」

「う、うーん、びみょうかなあ」


マキは、そんな何気ない会話をして登校する楽しさを感じていた。

でも話が盛り上がるうちに、


「マキちゃん、このマンガ知ってる?」

「ううん、知らない」

「あーそっかー。じゃあ私たちの話マキちゃんだけわかんないね」


その子達の話についていけない。急に焦りを感じた。

なんとか仲良くなれそうなのに。

どうにかみんなの話が分かるようになりたい、その気持ちでいっぱいになった。


家に帰ってすぐにマキはお母さんにすがった。

お母さんにしか頼めないの。

五百円でいい、今日だけでいいからお金が欲しい。


でもお母さんは、だめよとくりかえし言うので、これ以上困らせたくないという思いからマキは何も言えなくなってしまった。




その日の夜はいっそう雨が強くなっていて、部屋の窓からヒュウヒュウとつめたい外の風の音が聞こえてマキは眠れなかった。


トイレに行こうと思って部屋を出た。

玄関の手前にあるトイレにさしかかる時、薄暗い廊下に立つマキは、玄関脇のフックにかかっている、父の黒くて少し毛玉がついたジャケットに目がとまった。


たしか、マキが幼い頃から、父は財布をきまってジャケットの右の内ポケットに入れていた。


マキがハッと気づいたときには、父の財布の中の五百円玉を手にとっていた。


居ても立っても居られなくてその五百円玉をきつく握りしめて、父の財布をジャケットの右の内ポケットに勢いよく突っ込んで、その場から逃げ出した。


自分の部屋に駆け込んで布団の中にザザアッと潜り込んだ。

やっちゃった。ばれたらどうしよう。もう返せないよ。怖い。

自分がやってしまったことへの後悔と心配からか、マキの心臓がばくばく音を立ててなおさら眠れない夜になってしまった。




翌日、いつ父から声をかけられるのかのことで頭がいっぱいでマキは一日中ビクビクしながら過ごした。

しかし数日経ってもあの夜のことは言われなかった。


もしかして気づいてないのか。まあたかが五百円玉一個だしな。

気づかなくて当たり前だ。

そう思った瞬間、マキの中から何かがストンと抜け落ちた。


マキは、自分の部屋の机の奥に隠しておいたあの五百円玉をとって、転がしたり投げたりと手の上で遊びながら近くの本屋に行き、あのマンガを買った。


家に帰って読むと正直特別面白いとは感じなかった。

つまらないという感想の方が適していただろう。

でもマキはマンガの内容などどうでもよくて、不思議な幸福感と、達成感で満ちていた。




その日からマキは自分が今まで諦めていた物を自然と求めるようになった。

新しい消しごむ、かわいいノート、大好きなチョコレート。

ねだってもお母さんは買ってくれない、父にはねだることすらありえない。

でもお金ならあるのだ。


あの夜と同じ夜を何度も何度も繰り返すうちにマキの欲求は日に日に度を越していった。始めは五百円玉から始まったはずだった。

それなのに「次は小銭じゃない。札だ」。

高揚感までもを感じていた。




梅雨が明けるのが近づいて、久しぶりに雲一つない夜だった。

マキはいつものように真夜中ひっそりと部屋を出て、お母さん、そして父がしっかりと寝ていることを念入りに確認してから玄関にある父のジャケットに向かった。


手慣れた手つきでジャケットに手を忍ばせて父の財布を手に取り開ける。

薄暗い中で紙の感触を探す。あった。


マキは札の感触を見つけ、それをピラッと抜き取ってパジャマのポケットに押し込む。さて、財布を閉じてすぐ戻ろうとしたその時だった。



雲一つないからか、側の小窓から月明かりがスッと差して手元の父の財布を照らした。初めて父の財布をはっきり目にしたとき、一番に目に入ったのは一枚の写真だった。


少しばかりのしわがついていたけれども大切そうに入れられているその写真に写っているのは、お母さんと、まぎれもなくまだ幼いマキ自身だった。

マキは頭がついていかなかった。父が。あの父が。

どうしてお母さんと私の写真を肌身離さず持ち歩くんだ。



そういえばずっと前にお母さんが言っていた。



お父さんね、一つだけ後悔してることがあるんだって。それはねマキが小さい時はお母さんとマキの写真を撮ることが幸せでそのことに夢中だったから、肝心のお父さん自身と小さいマキの写真がほぼないんだーって。なんか笑っちゃうわよね。でもお父さんはね、やっぱりお母さんとマキの写真さえあればそれで十分だって、ほんとお父さんらしいわね



どうしてこの母の話を都合よく忘れていたんだろう。

マキの父は、初めから、いつだってちゃんとマキの「お父さん」だったのだ。



マキは、ポケットの中に突っ込んであるお金を父の財布の中に戻した。

財布を閉じて父のジャケットにしまった。

部屋に戻って布団の中に入った。


マキはまだ頭が働かなくて、さっきの出来事を心から受け止めることはもちろん理解することさえもうまくできなかった。

頭の中がぐちゃぐちゃになって、眠ろうと努力するも眠れるわけがなかった。




気がつくといつのまにか疲れて意識がとんだようで、もう朝になっていた。

いつもより少しだけ早い時間だがもう寝れそうにない。

昨日のことでまだモヤモヤしているいまだに重い体をなんとか起こす。


カーテンを開けて、ふと机に目をやるとそこにはなにかが置いてあった。


少ししわがついて、よれっとした五千円札が一枚。

ぽつんとそこにあった。

なんだこれ。


すぐにお母さんに聞いても、怪訝な顔をして、全然知らないようだった。

その時、父の顔が頭をよぎった。


そうか、これはお父さんか。


その時マキは全てを悟った。

お父さんはマキが少しずつ財布からお金をとっていたことを知っていたということ。

それなのにマキを責めずお母さんにも言わないでいてくれたということ。

その上でマキに今までたくさん我慢させた分、マキのための五千円札を何も言わずに渡してくれたということ。



マキはそのよれよれの五千円札を手にとり、抱きしめて、もう一度布団の中に潜り込んだ。

あれ、なんか枕が濡れてるな。マキはその時やっと自分が泣いていると理解した。涙は止まる気配もなく次から次へと溢れ出た。

マキは赤ちゃんのように声を上げて布団の中で泣き続けた。




その日の夜、マキは帰ってくるお父さんをただただ待った。

玄関のドアノブのガチャという音が聞こえたと同時に、お父さんの五千円札をしっかり持って部屋を飛び出した。

少し驚いた表情のお父さんの目をじっと見つめて、差し出した。


「ありがとう。これは返す、ごめんなさい。」


でもお父さんはそれを受け取らなかった。

少しの間を置いて、お父さんが言った。


「それはちゃんとお前のだ。」


マキの頭を軽く小突いた。

その時のお父さんの顔には優しい笑みが浮かんでいた。

マキはその五千円札を大事に大事に抱きしめた。



その後、マキは大人になってもお父さんがくれたその五千円札を絶対に使わなかった。

お父さんがしていたようにその五千円札を財布の中に入れ、いつまでもいつまでも大事にしたそうだ。




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