第一章-08 俺の妹が暗殺者のわけがない


「――どうかしたの、加賀美くん?」

「え?」

 翌朝。

 ボーッと歩いていた俺は、加純の声で我に返った。

「何だかずっと上の空だけど……? 体調でも悪いの?」

 横を見てみると、心配そうな表情で俺を覗き込んで来る加純の顔があった。

 俺は昨日の朝と同じように、ミカと加純と一緒に学校へ向かう途中だったことを思い出す。

「……え、ああ、いや……。昨日、ちょっと遅くまで起きてたからさ……」

「兄さん、いつも遅くまでゲームをやっているみたいなの」

「ああ、あれだよね。今、流行ってるスマホゲーム。男子だけじゃなく、女子でもやってる子多いもんね。そう言えば、ミカちゃんはゲームってやらないの?」

「私はあまり興味がない」

「私もだよ。何だかああいうのって難しそうだし……」

 もはや聞き慣れたミカたちの声が俺の耳に聞こえて来る。

 目の前にあるのは、いつもと変わらない朝の通学シーンだ。いつもと変わらない通学路。妹と仲の良いクラスメイトの会話。

 そう、今、俺は『日常』の中にいる。

 それとは相反する、昨晩の異様な出来事。

 現実感が強かったが、現実とはかけ離れた『非日常』の出来事。

 夢だとしか思えなかった。

 今朝、テレビも、新聞も、ネットも、昨晩のことを報道するメディアはどこもなかった。銃で武装した連中が学校に現れたというニュースも、SNS上での呟きも、一切ない。

 おそらくスマホを取りに学校に行った辺りからずっと夢だったのだろう。

 そりゃそうだ。あんな映画みたいなことが現実に起こるわけがないじゃないか。

 何だよ、組織って。

 何だよ、あの武装したテロリスト感バリバリの連中は。

 あり得ないだろあんなの。それに、気が付いたら家にいたし、青い目の男に渡されたマイクロチップも持っていなかった。

 どう考えても、昨日のあれは夢だ。うん、間違いなくそうだ。

 俺は全てを忘れ、『日常』へと戻ることした。

「いや、あのゲーム、そんなに難しくないぞ。多少テクニックはいるけど、覚えることもそんなにないし、二人もやってみろって」

 俺は極力、元気良く言った。昨晩の変な夢を忘れて吹っ切れるためと、ミカと加純の二人に変な心配をかけさせないようにするためだ。

「もし始めるなら、俺がやり方教えるぜ? みんなでやった方がぜってえ楽しいからさ」

「……加賀美くんがそう言うなら、私も始めてみようかな」

 俺の声色が元気そうなので安心したのだろう、加純は笑みを浮かべる。

「…………」

 ミカは特にノーコメントだった。いつものように、一見、何を考えているか分からない無表情で俺のことを眺めているだけだった。

 学校に着いてみても、特に何もおかしなことはなかった。

 夢の中で青い目の男が倒れていた廊下はというと、生徒たちの馬鹿騒ぎする姿しかなかった。銃撃戦があった様子は微塵もない。

 念のために、クラスの連中に昨晩、学校で映画の撮影なんてあったかどうか聞いたりもしたが、誰も何も知らなかった。

 やっぱり昨晩のあれは、全部、夢だったんだ。俺はそう納得することが出来た。


 学校が終わり、家に帰り、俺は家族と夕食を食べる。今日は母さんもトレバーさんも残業がなく、家族四人が揃ってテーブルを囲んでいる。

 ほんの数ヶ月前までは、母さんと二人きりの寂しいものだったが、今ではすっかり当たり前となった家族四人での賑やかな食事風景。

 母さんが会社であった馬鹿話を言って、俺とトレバーさんが笑いながら相槌を打つ。

 特にいつもと変わらない日常の風景だ。

 しかし。

 ただ一つ、いつもと違うことがあった。

「どうした、ミカ?」

 食事中、俺はずっとミカの視線が気になっていた。

 どういう訳か、テーブルの向こうにいるミカと、やたらと目が合うのだ。

「何か俺の顔に付いてるか? さっきからチラチラ見てたけど」

 俺がミカのことを見ているなんてしょっちゅうだが、ミカが俺のことを見ているなんて珍しいこともあるもんだなと思った。

「……ううん。何でもないよ、兄さん」

 そう言ってミカは俺から視線を逸らし、目の前のスープを口に運んだ。

 どうしたんだろう、ミカのやつ。

 悩み事だろうか。兄の俺に相談したいことでもあるのだろうか。だったら遠慮せずに言えばいいのにな。


 食事を終えた後も、ミカの様子はおかしかった。

 風呂上りの俺は、リビングのソファーでテレビを観ていた。母さんは入浴中。トレバーさんは仕事のために自室にいた。

「は? え? え? は? ミ、ミカ?」

 その時、ミカも俺と同じようにソファーに座って来た。

 それ自体は何てことはないことだ。ひとつ屋根の下で暮らしている家族だし、同じソファーに座って一緒にテレビを観ることくらいある。

 問題はミカが俺の真横に座ったことだった。

 それもまああり得ることだ。母さんやトレバーさん、みんなでテレビを囲えばソファーに余裕がなくなるので、自ずとミカが俺の隣のポジションに落ち着くこともある。

 だが、何なんだよ、この距離間は……!?

 ドラマとかでキャバクラのシーンを見たことがあるが、あれの感じだ。キャバ嬢のお姉さんがお客さんの相手をする時のように隣で密着して来る。しかも、今、リビングには俺たちしかいないし、十分座れるスペースがあるっていうのに、わざわざそうして来ている。

 こんな風にミカと身体が触れ合うレベルで接近したのは初めてだ。相手は妹とはいえ、自らこんなことをする勇気なんて俺にはない。くっ付いて来たのはミカの方からだから、完全に合意が成立しているのである。

 一体、どういうつもりなんだ、ミカ……!?

 もはや、テレビの内容なんて一切頭に入って来ない。

 すぐ横の息遣いすら伝わって来るミカにしか意識がいかない。

「――ねえ、兄さん」

「な、何だ……?」

「兄さんの好きな食べ物って何?」

「え?」

 これまたどういう風の吹き回しだろう。こんな質問をして来るなんて。これも初めてのことだ。俺がミカに好きなものは何か質問することはあっても、ミカの方から俺にして来るなんて今まで一度だってなかった。

「……え、えっと、ハンバーグ、かな? 基本的に好き嫌いはないぞ。けど、どうしてだ?」

「ううん。何でも。ちょっと訊いてみただけ」

 そう言ってミカは、それっきり何も言わず、俺に密着したままテレビに視線を向けていた。

 ……いやいや、何でもない訳がないだろ。

 突然、脈絡もなく、俺の好きなもの、それも食べ物だけを訊いて来るなんて、絶対理由があるだろ。

 まさか。

 俺に手料理でも振る舞おうというのか。

 いつも素っ気ない態度をしているが、俺に日頃の感謝的なものを感じてくれていたのか。だとしたらめちゃくちゃ嬉しいぞ。

 ――妹の手料理。

 何という甘美な響きだろう。妹のいる人間にしか味わうことが出来ない幻の料理だ。

 家族での食事は母さんの料理か、外食と決まっている。今までミカが料理を作ったことなんてないし、出来るなんてちっとも知らなかった。

 これは期待してもいいのだろうか。

「……おい、ミカ」

「なに、兄さん?」

「ふっ……。俺はいつでも歓迎しているぜ?」

「……っ!?」

 ミカは驚いた顔をしてソファーから立ち上がり、慌てた様子でリビングから出て行った。俺は一人リビングに取り残される。

 ……どうしたんだ、ミカのやつ。あんなに慌てて。

 あっ。もしかして照れているのかな。

 おいおい、だとしたら、可愛過ぎるだろ……。

 俺の妹、可愛さにパラメーター振り過ぎだろ……。


 翌日の学校への登校中も、ミカの様子はおかしかった。

 今日も今日とて、俺とミカの兄妹は加純と一緒に登校しているのだが、昨日までとは違う異常事態が起こっていた。

「……あ、あのさあ、何か二人、今日、近くない?」

 加純は俺たち兄妹を見ながら、戸惑いの表情をしている。電車に乗っている時も、電車から降りてこうして歩いている間も、ずっとだ。

 何故なら、俺とミカの二人がぴったりとくっ付いて歩いているからだ。

 さっきから俺の肩とミカの肩は、触れるか触れないかのギリギリの位置にある。毎日一緒に登校してはいるが、これほどの近距離で並んで歩くことはなかった。

「ああ。気にしないで、カスミ」

 動揺を隠せない俺と加純を尻目に、ミカはケロッとした顔で言ってみせている。

「いや、すっごく気になるんだけど……」

 加純はそう言いながら、俺にジト目を向けて来る。

 何やら加純にあらぬ誤解をされている気がする。言っておくが、これは別に俺が兄の権限を使って強要しているわけじゃないぞ。

 頼んでもいないし、ミカの方から勝手にやっていることだ。

 どういう訳か、ミカは家を出てからずっとこの調子なのだ。俺の側に付いて離れようとしない。理由を尋ねてもはぐらかしてくるばかり。

 嫌ではない。というか、くっそ嬉しいし拒絶する理由もなかったので、俺はこの状況を甘んじて受け入れているのである。

「ねえ、兄さん、今日はどこか出掛ける予定はある?」

「え? ああ、いや、特にはないけど……」

「もしも、外出するなら言ってね。私も付いて行くから」

 おいおいおいおい……。

 マジでどうしたって言うんだ、ミカよ……。

 これも今までなかったことだ。俺の方からミカの予定を訊いたり、ミカの予定に合わせることはあっても、逆は一度もなかったのだ。

 何かがおかしい。

 どう考えても俺の妹の様子がおかしい。

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