枕木
始発駅から座れたのは運が良かった。降車駅まで立つことを覚悟していた僕は、シートに深く腰をかけ大きくひとつ息をつく。
床に投げ出された服のようにドサリとした疲労感におそわれている。朝が早く、睡眠が短じかすぎたせいではない。もうずっと疲れている。
いつから僕はこんなにも疲れてしまったのだろう。ぼうっと街を見送る。目的の駅までまだ大分ある。乗り換えはないので少しは眠れるかもしれない。
音楽教室の看板が目に入ってくる。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、ギター、音楽、と頭の中で繰り返し、僕は鞄を落とさないように抱え直して、目を閉じ、閉じた先の闇を探るように瞳を凝らした。
列車はスタッカートを刻みながら淡々とその行くべき先に向かっている。
あの頃、君に会うために電車を乗り継ぐことは、僕にとって、確かに楽しみだった。
今、揺籃の如くに列車が僕を運んで行く。
窓の外に遠く江の島が見える。空の区切りと水平線との判別がつかないほど晴れ渡った木曜日。
午後の陽光が穏やかに反射するリビングルーム。
スタインウェイのきらびやかな出音が、差し込む光と溶け合って行く。モーツァルトK545、プッチーニのFolio D'album、ラフマニノフ「音の絵」第2曲Allegroへ。彼女は澱みなく弾き続ける。
そしてマスカーニのNovellina。
この曲は、とても、とても短い。うっかりするとその終わりを聴き逃してしまうほどに。
テーブルの上にはヘレンドのティーセットとウォーカーのビスケット、それから、先ほど彼女が本棚から取り出してきたダヴズ・プレスの「欽定英訳聖書」が置かれている。
僕は椅子を少し退いて、ロスチャイルドバードのティーカップを、ピアノを弾く彼女の姿が映り込むまで下げていった。
安定を欠き、紅茶が零れそうになる。
音が止まった。
「何をしているの?ちゃんと聴いてた?」
「聴いてたよ。曲の感じが君に相応しいと思って聴いてた。」
「それは褒めているのかしら?」
「褒めてるよ。心からね。」
彼女は「嘘っぽい」と笑って、The Shadow of Your Smileを弾き始めた。
メロディの美しさが刺さってくるような音。
繰り返すのではなく、終わることなくいつまでも聴いていたいと思える痛み。この痛みがいつまでも続くようにと。
もとの位置に戻したティーカップに口をつける。
我ひとり鎌倉山を越え行けば星月夜こそうれしかりけれ
僕のなかで昼夜が逆転し、藤原実成の娘の詠んだ歌が浮かんだ。
彼女はメロディを奏で続ける。
僕は先ほどと同じことをしたけれど、ティーカップには彼女が映るほどの紅茶は、もう残ってはいなかった。
曲が終わり、クロスで軽く鍵盤を拭いて、パタンと蓋を閉じる音がした。
「どう?」
テーブルについた彼女は感想を求めた。
「ジョニー・マンデルは風貌に似合わずに綺麗なメロディを作るよね。」
僕は彼女が繰り出した音色には触れずに答える。
彼女はポットに火を入れながら僕の会話に合わせる。
「それを彼が聞いたらドライ・マティーニの一杯くらいご馳走してくれるかもね。」
新しい茶葉に入れ替え、お湯が沸くのを待っている彼女の静かな顔を見ながら、僕は耳の奥で流れるNovellinaを聴いていた。
「いや、遠慮するよ。未成年だし。」
「あなたは真面目ね。ご馳走してくれるから飲まなければならないってことじゃないでしょう?ドライ・マティーニにバーカウンターのランプを映して、あなたの曲はこのドライ・マティーニの中で反射する光のように美しいですねって言えばいいのよ。」
どう答えたのだろう。応じた記憶がない。彼女の言葉だけが今も残っている。
ドアの閉まる音とガタタタンという振動で目を覚ますと、下車するはずの駅を丁度列車が離れようとしていた。
僕はドア上に表示される次の駅をちらっと確認したが、何となく席を立つ気にもなれず、桟に頬杖をついたまま前方から後方へと流れる景色を大した問題でもないかのように見送った。
健康的な緑を背景にして学校が近づいてきた。小学校なのか中学校なのか判らないが灰色のくすんだ校舎を繋ぐ渡り廊下の屋根が妙に真白く光を反射していた。その輝きを見て、やがて夏が来るのだと、どこか寂寥を含んだ予感が走った。目を閉じるとまだ聞こえるはずのない蝉の鳴き声が聞こえ、ここが熊蝉の北限であることを思い出した。Shawa Shawa Shawa と繰り返す空耳の中で、僕は瞼を伏せる。靠れる様にした車窓の隙間から僅かに新鮮な風が入り込んでくる。
「せんぱーい!もうチャイムは鳴り終えましたよ!」
正面から小走りに近づいてくる後輩に視線を送り、僕はどこか関わりたくないものを感じていた。
「こんなところで何をしているんですか?教室移動には見えませんねぇ。もしかして、またエスケープですか?」
「僕は僕の決めた授業に出るだけだよ。」
「いいですねぇ、気ままで。私も一緒に行っていいですか?」
「何をわけのわからないこと。君は授業をさぼったりはしないでしょう?」
「私ひとりではさぼりませんけど、先輩となら大丈夫です。連れていってくださいよ。」
この子は本当に無邪気な言動をする。考える以前に言葉が反射的に出ているとしか思えない。愛想をふるまうにしても度を越えている。サキュバスの囁きはこんな感じなのかもしれない。恐らく彼女は数歩ここを離れたら今おきたことを一切覚えてはいないだろう。すぐに他の友達との会話に置き換えられる。新陳代謝のよすぎる彼女の現実につきあって会話を処理するのも面倒くさい。僕は彼女が少し苦手だった。
「君のお友達が遥か後ろで心配そうに、じゃなくて、気味悪そうに眺めているよ。もとの軌道に戻ったほうがいい。」
彼女は視線を動かさずに僕をみる。どうしてそんな顔をするのだろう。期待する答えを望むのなら相手を選んだほうが良い。僕は期待などという誤解や妄想を抱いて自分を温めるほど夢想家ではないし、誰にも応えられない。
二言三言、彼女は何かを言ったようだが僕の耳には届かず、表情だけが動いていた。
僕が意識を全体に戻すと、
「面白いものをみつけたら後で教えてください。それで、いつか連れていってくださいね!」
そう最後に言葉を投げて、正課に向かう彼女の背中を見送った。
人影のなくなった渡り廊下は、強烈な夏の日差しに脱色され、キラキラと鏡のように映り、足を落とせばそのまま水銀の川に沈んでしまいそうだった。
何か面白いものか。そんなものが見つかっていれば僕はこんなところにはいないよ。きっとどこにもいない。百日紅の、日差しにも褪せぬ花を見上げて、姿の見えなくなった彼女に話しかける。
午後の日課を迎えようとするなかで、蝉がしきりに鳴いていた。
踏切を越える音が過って行った。近づく速さも遠ざかる速さも同じはずなのに、遠ざかる音のほうが速く感じられ、擦れ違う刹那の、昂った音は悲鳴に似て、余韻はいつまでも耳の奥に残っている。
薄く空けた視界のなかを百日紅の紅色が一瞬通り抜けて行った。瞼が重い。
草しげる夏の休みの校庭に百日紅の咲き染めにけり
「・・・さん、・・・さんではありませんか?」
そう声をかけられて顔を上げると吉屋信子さんが改札前に立っていた。
「吉屋先生、ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです。」
吉屋さんは丸顔を笑みに満たして、知人の歌会の様子をご覧になってきたのだとおっしゃった。
「お時間があればそこの甘味でも召し上がりませんこと?」
僕はお誘いを受けて線路を渡り、暖簾をくぐった。
吉屋さんは甘味屋の庭にある百日紅を見て、こんな話をされた。
「ある女学校の校庭の隅にね、それほど大きくはありませんけれど同じ木がありましてね。夏の生き生きとした光のなかで一際印象強く咲いておりましたの。それを私、歌にしようと思いましてね。最初に、誰もいぬ夏の休みの校庭に、と詠みはじめたのですが、しっくりきませんで、次に、ひとみえぬ夏の、にしましたの。でもねぇ、それも直接的に過ぎて面白みがありませんでしょう?それで思いついたのが、草しげる、でしたの。」
吉屋さんにとって、夏休みの校庭で触れるものなく赤く咲いた百日紅は、若々しい生命を謳歌する、清らかで、華やかな少女の凛とした姿そのものだったのだろう。
それから蜜豆を食べ終えるまでの小半時ほど取り留めのない話をし、吉屋さんは別れ際にこうおっしゃられた。
「鎌倉にお引越しになられませんこと?知り合いが良い空き家をもっておりまして、平屋ですけどね。見ず知らずの他人に貸すのは面倒事が起きるので気が引けますが、どなたかのご紹介でなら、と話しておりましたの。お考えになってみて。」
吉屋さんは上りの列車に乗り込み、僕は下りの列車を待った。
タタンという音が意識をまた少し覚ました。僕は頬杖を直して窓外に目をやる。列車は見慣れない景色を途切れることなく後ろへと運んでいく。
どうしてあんな夢を見たのだろう。覚えていることさえ忘れていたのに。
夢は脳が溜まった情報を整理するときに見るのだという説がある。けれど整理している情報に基づいた夢を見るわけではない。
整理途中に生ずるノイズのようなものが夢を作り出すと僕は思っている。記憶情報のノイズ。だから唐突であるし、事実とは異なる。
あの日、吉屋さんは僕を呼び止めたのではない。僕には気づかないまま、祖父を呼び止めたのだ。
八歳に満たない僕は、傍らで理解できない話をただ記録していたに過ぎない。僕はふたりの現実に介在していた微細なノイズのようなものだった。
あの鎌倉を訪れた日から二年ほど後、吉屋さんの訃報が祖父のもとに届いた。
僕は高校一年の春まで鎌倉に行ったことがなかったなんて、どうして思い込んでいたのだろう。幼い頃、一度だけ鎌倉に行ったことがあった。なぜそれを忘れたのだろう。
思考するとまではいかないまま、僕はそこで一時留まり、迷い蟻のごとく無為に過去を歩きまわる。
実りの無い現実。役に立たない夢の感触。
「気が滅入っているときは頬杖をつくといい。」
誰が言ったのだったか。
僕は正面の空席を見ながらそこに座っていた人々を想像する。存在しない人々の日常の一幕を想像する。それは僕が憧れた時間。望んでいた過去の在り方。
フィクションの存在しない思い出などと言うものはあり得ない。繰り返し上書きされる記憶はその度に事実を改変する。無意識下における記憶の操作。それらは多かれ少なかれ自分を救うために行われる。
僕は、誰に巡り会うために生きて来たのだろう。乗り換える場所を、降りる駅を間違えたのではないか。僕の失敗はどこから始まっていたのだろう。
そんな思いが戻らない風景と人びとを憧れのなかに描き出す。
列車が弛みなく枕木を越えて行く。
このまま乗り続けることは許されてはいない。
数えきれない過去の枕木を走り抜けて、僕は目的の場所に向かわなければならない。
次の駅で降りよう。
放物線 帰鳥舎人 @kichosha-pen
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