放物線
帰鳥舎人
残照
生活のある夕暮れ。人々が息をしています。
玄関灯に明かりが入り、夕餉の支度をする温かな匂いが流れ、どこの家からかチャンネル争いをするこどもの声がして、開け放した窓からは母親に失せ物を尋ねる少女の声がこぼれます。
少し浮ついたような弛緩した気配が辺りを被い、街は其処此処で溜息をつきます。人が息をしているとはこう言うことなのです。
そして風は、狭い路地を、気の早い木犀の香りをのせて吹き過ぎて行きました。
君の好きなあの場所は、直に咽るほど木犀の香りに包まれるでしょう。
もう真夏に見上げた、あの雄々しい積乱雲はどこかへ散ってしまいました。
僕は、今、心のファインダーを残照に向け、遥かな時を後悔する疑似感傷もなく、佇んでいます。枯死した街路樹のように、送るもののない電信柱のように、棒杙だけになった看板のように。
君が僕に残した現実はこのようなものです。
君が残そうとした現実を、僕は無為にしてしまいました。
僕はずっと息を止めたまま歩いてきたのです。
失くしたものを探すことも、忘れることも、等しく喪失の実感を深めるだけで、代替を求める焦燥は、果てしもなく茫漠とした日常へと変化して行きました。
あれから三十数年が流れました。単純に数えられる年月です。
風が過ぎて行く。
風には動いている時間的存在の感触があります。風が肌に触れる度に、風の姿を捕えようと視線が宙を彷徨う度に、まだ生きているという感覚を覚えさせるのです。けれど、強すぎる風の中では、誰しも目を開け続けてはいられません。
かつて君が呟いた科白です。
君の言葉は着慣れた衣服のように、いつのまにか僕を包んでいました。時にはそれを恨みもしましたが、その不自由さを、今は幸運だと感じています。
閉ざされたゴルフ場の側溝に、鴉の死骸が落ちているのを見つけました。
人がひとり死ぬと、どこかで鴉が一羽死ぬ。
僕はそれが言い伝えなどではないことを知っています。それも君が教えてくれたことでした。
君が遺した文字を、ここに全て置いて行こうと思います。
僕にはもう必要がなくなったので。
けれども、丸めて道端に捨てるのは誰かに拾われたら嫌ですし、粗野に千切って捨てるのも当てつけるようで浅ましい。焼き捨てるのは安直なナルシシズムみたいでもっと怖気立ちます。
ですから普通に、どこの家のものかわからない家庭ゴミの中に忍び込ませることにしました。様々な生活の残滓とともに焼却炉の炎が消し去ってくれるでしょう。完全に。
人が炎を見詰める時、炎は遠い過去を呼び覚まし、幻想の世界へと誘います。ですから、僕の目に触れない場所で静かに灰になるほうが相応しいと思えるのです。
僕は、それが一瞬にして燃え尽きるのを、ただ、想像します。
何一つ、僕は君の期待に応えることはできませんでした。
君が地上に送り続けている憧憬の、その一抹だけでも受け止められる日が、いつかこんな僕にも来るでしょうか。
夕陽が明日のために水平線に身を隠して行きます。
足をとめた見晴らしの公園。
誘うように点り始める街灯り。
随分と歩いて来ました。
ここからまだ長い下り坂が続き、ずっと背中を押してきた風が向かい風に変わります。
僕はそれを正面から受け止めなければなりません。
風が動き、心が止まる。
君が手にした自由は、どこまで広がっていますか。
そして僕は、君の物語をはじめるのです。
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