異空間転送少女
郁崎有空
異空間転送少女
決心してしまえば一瞬だった。気がつけばわたしは電車の白線を越えていて、その先にあるはずの果てしない深淵に飛び出していた。
何故そんなことをするに至ったか、そんな理由が必要だろうか。未来が見えなくなっただとか、生きていく意味がなくなっただとか。
ただ、死にたくなった。そんな単純な答えで十分だと思っている。変に着飾っても感情はわたしの肉体とともに消え去ってしまうのだから。
さようなら、世界。生きづらいことばかりだったけど、正直言えば時々愛おしいと思えた時もあったんだけどね。だからこそ、残酷でもあったけど。
とにかくさようなら。これ以上、現世に未練を残してはいけない。
だって、つらいから。喧嘩別れしたあの子のこととか。可能性があればすがらずにはいられないから、もう期待なんかせずに消え去ってしまおう。残したあの子のことは知らない。今は友達でも何でもなくなったあの子のことだし、わたしの葬式の帰りに他の友達とアイスでも食べながら談笑しているかもしれない。
そう思うと気に食わない気持ちになった。せっかく死ぬんだから、あの子に呪いを植え付けたかった。何か楽しいことをするたびにわたしのことを思い浮かべるようになってほしかった。わたしへの後悔でアイスの味なんか分からなくなって、夢に毎日見てしまえばいい。
さあ電車が迫ってくる。何もかもがおしまいだ。残された人間なんて知るか。わたしの死で周囲の誰もかもの歯車が勝手に狂っていけばいい。
特にあの子だけは、一生をわたしとの記憶に支配されて生きてしまえばいい。
さようなら。嫌いだったよ。だってそう思わなきゃわたしのしたことに意味がなくなるから。
だから。
*
床を踏んだ感触と、足元から伝わる振動。見渡すとそれは電車の中だった。いつものように座席は両端に連なっていて、ガラスの外に見える景色は絶えず移り変わって、無駄に冷房が効いている。だけど、中にわたし以外の人がいなかった。
いや、人がいないというのは正しくなかった。もうひとり、席に座って分厚い真っ白の本を開いて読む女の子がいた。白いブラウスと緑のスカートに腰丈ほどの緑のカーディガンを羽織って、そこそこ長い髪を垂らしている。凛とした顔立ちで、落ち着いた雰囲気がある。見た瞬間から、ここが草原なら周囲で花でも咲いてるのだろうと感じるくらい、彼女の雰囲気はそういうところにふさわしいと感じられた。
だけど、同時にわたしの中でその第一印象からはおおよそ考えられない印象が浮かんだ。見てくれの割に短気で、機嫌を損ねると嫌味ったらしい口調になり、そのくせわたしが離れると泣き言を漏らしてしがみつく。そんなわけの分からないようなやつ。
まじまじと見るうちにその既視感の正体が分かった。彼女はあの子にそっくりだったのだ。ポニーテールの彼女が髪を下ろしてああいう服を着るとあんな感じになる。
それにしても、ここはどこなんだろう。わたしは電車に飛び出して深淵の世界に行ったはずなのに、どうしていつの間に電車に入っていたのだろう。というより、このがら空きの電車に座る彼女は誰?
わたしは本を読んでいる彼女の前に立って声をかける。
「あの……」
彼女は一瞥して、また本に視線を戻す。無礼だなと思いながら、そこまでして読む彼女の本の内容が気になった。隠されるのを覚悟して上から本を覗き見る。案の定すぐに気づかれて上目遣いで睨まれた。
「何?」
そっちもがらんどうの電車の中で人を無視しておいて「何?」はないと思った。しかし、わたしにはそんなことより本のことが気になった。
さっき一瞬だけ見えたページには何も書かれていなかった。つまり、彼女は何もないページを読んでいたことになる。彼女の態度なんかより、そのことの方がずっと気になって仕方なかった。
「何読んでるの?」
「もし言ったとして、あなたの反応に期待できると思う?」
なんでここにいるか分からないし、ここがどこか分からないし、なんでわたしとこいつだけしかいないのか謎だけど。
ただ、こいつが誰かはおおよそ推測がついた。最初に既視感を覚えたのも仕方ない。だってこいつは——。
「……貴子」
「あら珍しい。あなたがわたしを名前で呼ぶなんて」
そう言えば、機嫌を損ねなくても腹立つ物言いだったことをいま思い出した。そしてこいつは紛れもなく、わたしが「あの子」と呼んでいた
貴子だと分かると気を張る必要もなく、わたしはすぐ隣にどっかと座った。
「あきれた。とぼけた真似しないでよ」
「……いいでしょ、これぐらい」
「いいわけないでしょ。というか、ここどこ?」
まさかあの世なわけがない。あの世だとしたら貴子がいるのはおかしいからだ。わたしが誰にも言わず勝手に死んだだけだし、まさか偶然こいつも同じ時間に死んでるなんて奇跡はそうそう起こるはずもない。こいつはいつも通り——。
しまった。完全に忘れていたが、こいつとは喧嘩別れしていたところだった。そう思うと気まずくなって、ひと席分の距離を離した。
「なんでここにいるの?」
「なんで?」
「いやだって、喧嘩してるところじゃん」
「よく分からないけど、つい来ちゃった、とか?」
「なんなんだ、それ……」
とにかく、こんな白昼夢だかなんだかよく分からない場所でよく分からないまま仲直りなんてどうかしている。この電車はどこに向かうのだろう。もしかすると、やっぱりここは本当にあの世で、あの世というのは永遠に降りられない電車なのかもしれない。そして隣のこいつは、きっと死んで孤独になったわたしの記憶が生み出す貴子の幻といったところだろう。だからこいつはわたしに対していつも通り接してくるんだ。
「……貴子、聞いていい?」
「なんでここにいるのとかはさっき聞いたからなしね。それに、元から同じ駅から乗ってたでしょ」
やっぱり。喧嘩別れした後の死ぬほど厄介な貴子じゃない、いつもの貴子だった。
わたしは俯いたまま訊いた。
「わたし、死んだはずだよね?」
貴子はわたしの問いに対して困惑の表情を浮かべて答えた。
「
生きてる? あなたのなかではそういう設定なの? そんな疑問が浮かんだけど、彼女の本気で不思議そうな顔を見て踏みとどまる。なんとなく、これ以上やっても同じことの繰り返しになるような気がしたから。
本当に、ここはわたしとあいつの幻だけしかいない空間なのだろうか。そして幻とふたりぼっちで残されて、わたしはどこに行くのだろう。
いや、なんで不安になっているのだろう。どんな形でも、これはわたしの望んだものじゃなかったのか。喧嘩別れしたあいつのいないところへ行くって。結局、こっちでもあいつの幻がついてきてしまったけど。
そりゃなんでも言うこと聞いてくれるような都合のいい幻ならわたしだって大歓迎だけれど、こいつは多分わたしの覚えた印象から作り出された存在だ。だからいつも通りにとんでもなくムカつくやつだろうし、また気まずくなったら今度は永遠にそれが続く。それだけは絶対いやだ。
わたしは貴子を視界から外して車両の向こう側の景色を見た。しかしそこに見えるはずの景色は存在しなかった。
振り返って外を確認する。やっぱり。そこには汚れひとつないキャンパスのような空虚が広がっていて、電車は虚空を走っていた。
相変わらず呑気に本を読む貴子に向かって、わたしはまた訊いた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「何?」
「わたしたち、どこを走ってて、どこに向かっているの?」
貴子が本から目を離して見上げた時、一瞬だけその輪郭が赤がかって幾重にもぶれたような気がした。輪郭が戻ると同時に貴子は答えた。
「終点じゃない? あなた、死んだんでしょ?」
言葉とともに、貴子の身体はサブリミナルのように点滅する赤い文字郡に支配された。その手から真っ白な本が落ちて開かれる。真っ白なはずのページには赤い文字で大きくこんなことが書かれていた。
『逃げて。』
わたしは本能的に本を拾い上げ、貴子だったものから全力で逃げ始めた。車両間の扉に手をかけて、勢いのままに開けて閉める。しかし扉に鍵はついてないため、わたしはまたさらに向こうの車両に逃げなければならない。
二車両目にも誰もいなかった。このままわたしは何車両まであるか分からないこの空間で、幻の姿をしたアレから逃げなければいけないのか。というか、どこに逃げろっていうのだろう。もし端まで来て追い詰められたら——。
赤い文字の点滅する人型の何かが、こちらの車両の扉に迫りくる。考えてる暇などなく、わたしは向こうの扉へ走り出した。
次の車両に入って、走りながら本を開く。もしかしたらなにか参考になるものがあるかもしれない。
本にはこのようなことが書かれていた。
『あなたの精神は今、わたしの生み出した空間の中に隔離されている』
『そして、その空間がたとえどんなものであったとしても、必ず出口のない無限回廊になっているはず』
『あなたは自分一人では絶対にそこから出られない。だからわたしがそこにアクセスして探し出す間、あなたはわたしの姿をした「サブリミナル」から逃げ続けて』
本を閉じる。つまり、あの後ろの「サブリミナル」に追いつかれないように無限回廊をマラソンしろ。そういうことらしい。
わたしの精神だけをここに閉じ込めたといっても、肉体の概念から開放されたいうわけでもなく、わずかながらの体力の消耗を感じていた。
それにしても、誰が何のために電車に飛び降りたわたしの精神を閉じ込めたのか。いや、そもそも飛び降りたのか。もしかしたら飛び降りる前から精神の隔離が済んでいて、最初からこのあらかじめ作られた無間回廊に追い込む気だったんじゃないか。いつから精神が隔離されたんだろう。
もしかしたら、この本にメッセージを記す誰かは助ける気などさらさらないのかもしれない。ただ人が見えない希望にすがって苦しむさまを眺めてニヤニヤしているだけかも。そもそも精神の隔離とは?
考えているうちに五車両も過ぎていた。サブリミナルは次第に唸り声を上げて、ことあるごとにどこかに突進しながら扉を開けている。やがて車両全体が輪郭を赤く染めてぶれ始める。今度はぶれた輪郭から取っ手を当てるのが難しく、扉を開けるのに時間がかかった。次の車両に入ったら元に戻るかと希望的観測をしてみるが、今度は空間そのものが歪みはじめた。
途端にバランスを取るのが難しくなり、走りながら何度かこけそうになった。本を落とさないように抱えながら歪んだ床を走るのは大変だった。扉も歪んだ輪郭の前では開ける方向を当てるのにひと苦労だ。
相変わらず追い立てるサブリミナルの速度は変わらなかった。まるでそいつには輪郭の歪みなど、何の影響もないみたいだった。
距離はすでに一車両分を切っていた。もはや絶望的だ。こうなったらいっそ諦めてやる。どうせわたしは最初からこういう結末を望んでいたのだから。
本の主だって最初からこういうものを望んでいたのだろう。本を開けばきっと『誰が助けるかよバーカ』とでも書かれているに違いない。苦しむわたしを見て、神にでもなったつもりで楽しんでいたんだ。
「誰だか知らないけど、死ねバーカ! いや、いっそ死なずにお前も永遠に無限回廊に閉じ込められちまえ! 性悪! 貴子!」
本を窓に思い切り投げつける。そうこうするうちにサブリミナルは扉を開けて、わたしに飛びかかってきた。それはわたしに重力を乗せてのしかかり、馬乗りになったままわたしの首に手を掛けた。その赤い文字郡の点滅する指はわたしの首から身体全体を侵食して、神経系までも侵されたからか、いつの間にか視界は赤い文字郡でいっぱいになった。
最初は何の意味もない文字群だったものは、全て貴子がわたしに言った言葉だと分かった。出会った時の言葉から、喧嘩別れした時の最後の言葉まで。
最後に言った貴子の言葉を反芻する。
「あんたなんか死んでも、こっちは困らないんだから……」
そうだ。これ以降話しかけられなくなって、それでわたしはムキになって自殺しようって……。
結局元の世界の貴子はどうしているのだろう。というか、わたしの肉体はどこにあるのか。もうすでに轢かれて使い物にならないのだろうか。
もしわたしが死んでたとして、あいつはどんな気持ちになっているのだろう。ちゃんと悲しんでいるだろうか。
そういえば、結局最後にあの本の内容を見なかったな。最後にはなんて言葉が書いてあったのだろう。本を取ろうにも動けないし、そもそも視界は文字で真っ赤に染められている。まあどうせ、大したことでもないだろうけど。
苦しみに悶えて気が飛ぶのを覚悟した時、身体が急に軽くなるのを感じた。それとともに赤い視界が次第に晴れていき、サブリミナルが何かしらによって消滅したことを悟る。
何があったのかと思いながら身を起こすと、わたしと同じ制服姿でポニーテールの女の子が黒を基調とした文庫本を読んでいた。わたしはこいつを知っていた。こいつこそがわたしの知っている方の貴子だった。
それにしても、先ほどの本はどこへ行ったのか。
「あれは空間内の精神にメッセージを送るための端末みたいなもの。別に読むための本じゃないの」
「……そうなんだ。あっ、もしかしてまたサブリミナルってオチ?」
「そんなわけないでしょ。あんたが自殺しようとしてたから、わざわざ止めに来たの。あの本のメッセージの張本人よ」
あれは本気で助けようとしていたのか。だとしたら疑ったのを申し訳ないなと思ってしまう。
「それより、わたしもう自殺したはずじゃ——」
「超能力者って厄介よね。人より人を救う手段があると、すぐに惜しみなく使わなくちゃいけないから」
巻末から取り出した栞を黒い本に挟んで立ち上がる。それを鞄に入れて立ち上がると、わたしの手を引いて起き上がらせた。
「わたし、他人を自分の精神空間に共有させる能力を持っていて、数秒ほど体感時間を遅らせるためにそれを使ったの。こうでもしないと、間に合わないと思ったから」
「……それ、初めて聞いたんだけど」
「当然でしょ。言ってないし、言う必要もなかったし。言っても理解しないじゃない」
貴子はわたしの手を繋ぎ直した。今度は指と指の間を絡ませた、絶対離れないような繋ぎ方だった。
「帰るよ、夕羽」
「……なんていうか、ごめん」
「二度とこんなことやらないで」
貴子が車両横の自動扉であるはずの取っ手に手を掛ける。それはいとも簡単に開いて、その先は光に包まれていた。わたしはその先に進みながら、歩みを止めたはずの人生を再び歩むんだと改めて考えていた。
*
ふらりと線路に飛び出そうとしたところで、誰かが腕を引っ張って引き戻した。振り返ると、貴子が汗をじわりと浮かべてそこにいた。
「間一髪……」
貴子はわたしを捕まえると同時にがくりと膝をついた。
「本当にごめん。おつかれ」
「……高くつくからね」
「覚悟しとくよ」
わたしたちはホームに並んで、自然と手を繋いでいた。手を先ほど見た白昼夢と同じように。
はたから見るときっとわけの分からないやりとりなのだろう。だけどわたしたちにとっては、ひとつの大きな冒険をした忘れがたい一日となった。
もう、さようならなんて言えなかった。嫌いかどうかはともかくとして。
異空間転送少女 郁崎有空 @monotan_001
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