10.心臓

「……さて、これからどうする?」


 聞き終えた話を自分の中で反芻していたヘレンとエドワードにその言葉を放ったのは、ホドルだった。握られていた手を離し、ヘレンとエドワードから少し距離を取った彼は、ふらつきながら立ち上がる。支えようとしたエドワードを遮るように次の言葉を放った。


「エドワードは私の話の中から、呪いの解き方を模索していたんだろう。どうだ?何か心当たりでもあったか?」

「あ、いえ……その、僕はどうやったら誰も傷つかずに、この呪いが終わるかと考えていたので……でも、話を聞いている限り、その魔術師の特徴とか覚えていたら、他の魔術師や呪術師に聞いてみて、解く方法を……」


 エドワードがそう言うと、ホドルはくくく、とまた喉の奥で笑った。


「無理だ。この呪いは、必ず心臓を得なければならない。私がそうした。魔術師とそう約束したのだ。そうしなければ終わらない」


 それなら、とエドワードは口籠る。


 「本当ならあなたとヘレンが結ばれるはずだった。こうして互いの心の中を聞けた今なら、一緒になれるでしょう?」


 エドワードの言葉にヘレンは驚き、ホドルは彼をじっと見据えた。


「エドワード……?何を言っているの?」


 唇を震わせながらヘレンは尋ねた。エドワードは手元を見ているのか、地面を見ているのか、どちらにしろヘレンもホドルのことも見ていなかった。


「僕は元々誰にも必要とされていない。あの村で農夫をやっていたのも、たまたま仕事を貰えただけだ。ヘレンがやってきた夜だって、結局は自分のためだ。昔、旅人が村に立ち寄ったことがあって、偶然僕が一晩泊めてあげたことがある。

 その時、旅人に人として認めてもらえた。誰かに優しくすることで、自分の存在する意味を見つけたんだ。それが僕には幸せだった。親からも誰からも愛されなかった僕が、唯一絶望の中から見つけた光だったんだ……でも、今その幸せを返すべきなのかもしれない」


 エドワードはヘレンのいた場所へ歩き、草に隠れてしまっていたナイフを拾い上げた。そしてその手持ち部分をホドルへと向ける。


「あなたが生きるべきだ。ヘレンもあなたも、元々一緒になりたかったんだろう。

 僕はきっと、あなた達を仲直りさせるために、ここまで生きてきた」

「エドワード、何を言っているの?冗談は……」

「冗談なんかじゃないよ、ヘレン。僕は本気で……」


 噛みつく勢いで答えるエドワードの手元を叩き、ナイフを落としたホドルは、そのまま彼の右の頬に拳をめり込ませた。何が起きたかわからず、その勢いのままに倒れ込むエドワードの襟元を掴み、ホドルは怒鳴る。


「お前は私の話を聞いていたのか?何をどう考えればその答えに行きつくんだ!

 私は既にヘレンの両親を殺しただけではなく、自分の家族も殺し、全く関係のない見知らぬ土地の人間も多く殺している!そんな私が今後生きてどうなると?ヘレンはそれで報われると思うか?彼女は私の手で多くの愛を失ったんだぞ!今、彼女の傍にある愛はお前だけなんだエドワード!」


 エドワードは月明かりを背にしたホドルの顔を見た。彼の顔は怒りに満ち、人間の顔でありながら、食人鬼の牙が見えていた。


「もう一つ言うとな、私はヘレンを二度と愛しきれない。この憎悪は決して消えない。こうして言葉を交わし、互いの心の中は知りえた。だが感情は消えん。

 特に闇に融けて同化してしまうような感情はな。一度抱いた感情が、消えることはないんだよ」


 その言葉に同意だと言うように、ヘレンは目を伏せた。ホドルは襟元を掴む手を離し、エドワードを起こそうと手を差し伸べるが、すぐにその手をひっこめた。その手には爪が生えてきていた。


「時間がない。どうやらこの姿は、私の心に起因するようだな。どうしてもヘレンを苦しめたくて仕方がない。エドワード、お前の心臓が黄金のように輝いて見えて、口の中が涎でいっぱいになる。やがてこの姿は、また食人鬼へと戻るだろう。その前に、私が人間のままでいる間に、この呪いを解こう」


 ホドルの言葉にエドワードは、わけがわからなくなった。決して誰もが助かるような解呪の方法はなさそうだと思っていたが、そうではないのか?

 少しだけ希望は見いだせたと思い、立ち上がってその言葉の先を催促した。すると何かを語るわけでも、言い聞かせるわけでもなく、突然ホドルは左胸をえぐり始めた。

 爪が伸びているということは、何も使わず自身の肉をえぐるのに最適だった。しかし心臓は傷付けないように、その周りの肉だけを綺麗にこそぎ落としていく。

 やがて隙間から見えていた心臓は、その全容を現した。三分の二しか形成されていない不完全な心臓ではあったが、ゆっくりと、確実に脈を打っていた。

 呆気に取られてホドルの様子を見ていたエドワードとヘレンだが、ホドルの心臓が全て外気に晒された途端、ヘレンは自身の左胸を抑えた。


「なんで……なんだか、変よ……どうして、胸の中が急に冷えたの……?」


 少しばかり呼吸も荒くなるヘレンだったが、視線はホドルの心臓にくぎ付けだった。


「ホドル……あなたは何を?」


 エドワードからの問いに、ホドルはふ、と笑みを零し、ヘレンへと近づく。ヘレンも特に後ずさることなく、彼の接近を許していた。その視線は彼の顔ではなく、心臓のままだった。


「私はヘレンへ呪いをかけた。命を分かちあい、共にあること。それは彼女の愛する者の心臓を三つ私に捧げて、解かれるはずだった。しかし、この期に及んで私はまだ、一つだけ隠し事をしている」


 ホドルはそっとヘレンの前へ跪き、彼女の手を取り、自身の心臓へ当てる。


「私とヘレンは命を分かちあっている。それは即ち、ヘレンの心臓も今は三分の二しかないということなんだ」


 ヘレンは当てられた手が血でどれだけ塗れようが、その感触にも状況にも特に臆してはいなかった。目を大きく見開き、ゆっくりと鼓動するホドルの心臓だけを見つめている。


「ヘレンが食べるのは、別に私が愛したものでなくていい。分かち合っているのだ、命も呪いも。だから彼女が愛した私の心臓を食べれば……」

「あなたはどうなるの?」


 ホドルの言葉をヘレンの質問が遮る。その視線は、今はホドルの瞳を見つめていた。その瞳を覗きこみ、ホドルは口角を上げ、軽快に答えた。


「さあ、どうなるだろう。心臓が食われた者の末路がどうなるか、私は知らない。

 だが食人鬼としての経験から言うと、恐らく死ぬだろうな。……当然だろう、今までやってきたことを鑑みれば、それが一番良い。ただ死ぬのだけでは足りないだろうが、君にとってはそれがいいだろう?」


 悲し気に笑うホドルに、ヘレンは腕を拡げようとしたが、その腕を彼は抑えた。やめろという言葉は無い。だがその微笑みは、確実に彼女がしようとしていたことを求めていた。

 ヘレンはそれを理解したが、彼の腕に従った。エドワードは苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、やがて控えめに言う。


「他の方法は……いや、やめましょう。貴方の意に任せます。最後まで見守らせていただくことしかできないですが……」

「ああ、すまないがそうしてくれ。……見守るというのなら、ヘレンの隣にいてやってくれないか?」


 ホドルにそう言われ、エドワードはヘレンの隣へ行った。ホドルを目の前にし、エドワードもその不完全な心臓を見る。

 ゆっくりと鼓動しているその心臓は、息苦しそうにも見えた。不安そうで泣き出しそうな顔の二人に比べ、ホドルは困ったように笑う。


「さあ、私が人間のうちに一思いに食らいつけ。どうしてもエドワードが美味そうに見えてしまう」

「ホドル……」


 ヘレンの瞳は、やはり涙ぐんでしまった。そんな彼女の肩を抱くエドワード。それを見た瞬間、ホドルは周りを飛ぶ虫を振り払う獣の如く、首を振り回した。

 涎がヘレンの手に滴り落ちる。目玉は飛び出かけ、牙は一段と大きくなり、皮膚は割れ始めていた。


「ほほ、ほんとう、なら……わた、わた、いや、おれがそ、こに、いる……はず、だったの、に……」


 殺意を感じる。ヘレンの触れている心臓は鼓動が早くなってきていた。

 

「早く……早くしろ、ヘレン……おさえ、られ、おそう、お……おそう、おそいたい、その血を……すすり、その、ひめ、い、聞きた、い……」


 ホドルの本心なのだろう。食人鬼になる際に触媒にした感情は、収まることを知らないようだ。

 エドワードはより一層ヘレンの肩を強く抱く。ヘレンはその力強さを頼りに、心臓へと顔を近づけた。


 「エド、ワー……」


 微かな声で、ホドルは呼びかける。エドワードはハッとホドルを見る。彼はとても穏やかな表情をしていた。


 「ヘレンを……頼む……」


 その言葉に、エドワードは強く頷いた。その瞬間、ホドルはエドワードへ噛みつこうとする。

 ヘレンの肩を抱いていない手でホドルの目元を抑え、顔を近づけないようにした。ホドルの手は、気付けば彼が自身の後ろに回し、片手をもう片手首に突き刺し、動けないようにしていた。鋭い牙が見える中、エドワードは力を込める。


「ヘレン!食べるんだ!」


 叫ぶエドワード。ホドルの頭が暴れているせいで、ヘレンは心臓へ口を付けられずにいた。


「でも、あなたが!」

「僕なら大丈夫、早く口を付けて!ホドルさんがそれを望んでいる!」


 エドワードの言葉に、ヘレンは決意を固めた。そして食らいつく。暴れる体に抱き着き、その心臓へ、ヘレンの瞳に映る黄金のように輝く心臓へと。


「私の心臓を、持っていけ」


 ホドルの声が聞こえたような気がして、その後すぐに食人鬼の咆哮が二人の鼓膜を叩いた。エドワードは急いでヘレンをホドルの体から引き剥がし、後方へと下がり、ホドルとの距離を取る。ヘレンの口元は血で汚れていた。


 月明かりに照らされ、踊り狂っているかのようにホドル、もとい、食人鬼は暴れていた。人間より甲高く、獣より大きな声で叫び続け、その辺りをのたうち回る。

 体からは血の間欠泉が噴出していた。体はボロボロと灰のように崩れていき、骨も残らない。心臓は既に無かった。あったはずの左胸には、ぽっかりと空間が空いている。


 やがて天を仰ぐようにして、彼は動きを止めた。その顔は、もうすでにホドルとは認識できない顔だった。全てが灰になり、その場に崩れる。ホドル・エインワイトという男は、食人鬼としてこの世を去った。それは変えようのない真実だった。


 その後聞こえてきたのは、森の葉の擦れる音と、ヘレンの嗚咽だけだった。

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