9.和解
程なくして、ホドルの声に包まれていた森は、静寂を取り戻した。
少し遅れて前屈みになっていた態勢をゆっくりと起こし、ホドルは立ち上がる。エドワードとヘレンは再び驚いた。そこにいたのは食人鬼ではなく、人間の男だったのだから。
「ホドル……?」
ヘレンが静かに問いかける。男はそれに対し、まず自分の手を見て、それから自分の頬を触った。
少し痩せこけてはいるが、鼻筋が通っており、凛々しい眉にしっかりと開いた瞳でかなりの色男だと判別できる。髪の毛も少量ではなく、前髪も後ろ髪もしっかり生えており、肩まで伸びていた。
「ヘレン……私は……」
ホドルは泣きそうな顔をして、ヘレンを見る。ヘレンは少し、前へと出た。自らホドルへと歩み寄ったのだ。腕を伸ばし、それは抱擁をするかのように思えたが、急に立ち止まる。
エドワードがヘレンの傍へ寄り、ホドルを見ると、左胸はほんの少し空間を残したままだった。血も流れていない。不完全な心臓が、ゆっくりと鼓動しているのが見えた。
「そんな……呪いは、解けたものかと……」
思わず呟くエドワードに、ホドルは呆れたように笑いかけた。
「そうか……私の口から色々話させ、呪いを解く方法を探っていたのか?
……どうやらただの愚か者でも、哀れな者でもないようだ。非礼を詫びよう」
その男はとても穏やかに、しかし若干小馬鹿にしたように言う。食人鬼の時もそうだったが、彼はどことなく余裕のある雰囲気を持っていた。なんでも持っているといったような余裕が。
ヘレンはホドルが人間に戻ったとしても、その手からナイフを離さなかった。一瞬落としそうになったが、心臓が見えた時に握り直し、エドワードの傍へと寄った。
エドワードは一度ヘレンを見て、ホドルの言葉へ返答する。
「いえ、実際僕は愚か者です。食人鬼相手に、無謀なことをしたんですから」
「それでも良い結果が出たんじゃないか?君にとっては」
「その心臓が塞がっていたら、良い結果だったんですが……」
「がっかりしたか?この身を以て知ったが、呪いとはそう簡単なものではない。
かけるのも、解くのも……。しかし、人間の姿に戻れるとは思わなかった……そこに関しては感謝しているぞ、エドワード」
「身に余る光栄です。それで……」
エドワードの言葉を手の平を見せて御したホドルは、ヘレンを見つめていた。その表情はなんといえばいいのだろう。恍惚としているというべきか、嘆いているというべきか。
「なぜもっと早くその言葉を私にくれなかった」
ホドルは言う。無論、ヘレンへと。ヘレンはとっさに顔を背けてしまった。エドワードはこの二人の話に介入すべきかとても迷っていた。黙って見届けた方がいいのか?それとも、強引に自分の聞きたいことを聞くべきか。
迷っているうちに、ヘレンが口を開いた。
「……言えなかった」
「なぜだ?やはり私のことは愛していないと?」
「違う!本当に愛していた!」
「ならばなぜ、私を見捨てた?なぜあんな噂話なんて信じた?なぜ私が代々守り続けてきた財産と地位を捨ててまで、悪徳な商売に手を付けたと思った?ずっと一緒にいただろう!」
その言葉に、ホドルへと視線を戻すヘレン。ホドルは全く物怖じしていない。久しぶりにヘレンの怒りの視線を見て、エドワードは少しだけ後ろに下がる。
やはり介入は止したほうが良さそうだと思った時、ヘレンはホドルへと大幅に歩を進めていた。
「ずっと一緒?会えると言っていた日に、良い商売の話が出たと言って何度私を一人にしたの?何度も数日、数十日も放っておいて、ずっと一緒?寝言も言い訳もやめて。あなたは私より商売を選んだでしょう?そこに麻薬の取引に加担していた疑惑が出てきたら、疑わざるを得ないじゃない!私にだって守るべき家があったのよ!」
怒りでヘレンの顔が真っ赤になっているのが、薄暗闇の中でもわかる。ホドルも負けじと大幅にヘレンへと寄り詰めたが、ヘレンは一歩も引かない。
「ではなぜ弁解をさせてくれなかった!君のご家族にも挨拶をして、私達は共になると話が進んでいたのにも関わらず……もう家族同然だと認めてくれた君の父上は、あっという間に私を捨てた!君の自宅の前であれほど頭を地面にこすりつけ、喉が潰れるまで声を張り上げたにも関わらずだ!」
ホドルのその言葉に、ヘレンは眉根をひそめる。
「家の前に来ていた……?ちょっと待って、それっていつの話なの?」
「聞かされていなかったのか。……ああ、君の父上が仕組んだことだろう、私の情報を一切断っていたんだろうな!」
話ながら、だんだんとホドルの声が濁り始めていたことに、エドワードとヘレンは気付いていた。
「私は麻薬取引など断じてしていないし、そんなことをしているだなんて知らなかった!私の父が欲に目が眩み、手を出していたんだ!儲けるために!その罪を私に被せた!……跡継ぎは別に私でなくても構わない、弟のどちらかが継げばよかったのだからな。それを説明しに君の家に何度も出向いた。だがいつも門前払いだった!」
ホドルは少しずつ猫背になり、またも顔を引っ掻き始める。様子が変わってきたことにより、ヘレンは後退せざるを得なかった。
「牢に入れられるまで、何度も君の家に赴いた。ある時、全く取り合ってくれず、顔も見せてくれなかった君の父上が、一度だけ顔を見せたことがあった。
私が無理やり入ろうとして、警備隊に捕まった時だ。その時に言われたんだ、もう二度と家にも娘にも近づくな、と。何も弁明できていないのに、近付かないという選択が取れるわけないだろう?結局その後、君の家に迷惑をかけたことと、麻薬取引の疑惑が重なり……いや、私の父がでっち上げた罪で私は投獄された」
掻きむしられた肌はまたもひび割れており、目も再度飛び出し、髪の毛も抜けてはらはらと落ちていく。人間だった彼は、再び食人鬼へと姿を変えてしまった。食人鬼に戻ったホドルは、ヘレンの肩を掴む。
「そんなことより私が……俺が一番許せなくて憎かったのは、ヘレン。投獄された俺に会いに来ず、噂と自分の父の言葉を疑わず、愛を信じなかった君だ」
ヘレンの肩を掴むホドルの手に、力がこもっているのがわかる。ヘレンは小声で痛みを訴えたが、彼は離すつもりはないようだ。エドワードが引きはがそうと近づいたが、ヘレンは来なくていい、と首を振った。
「牢に入れられたのに、なぜあなたの部屋に黒魔術を行なった跡があったの?」
ホドルが牙を見せつけて威嚇しているなか、ヘレンは痛みに若干顔を歪めながらも静かに問いかけた。尋ねられたホドルは目を大きく開いてヘレンの肩を離し、驚いた猫のように後ろへ跳ねる。
そしてゆっくりと、隙間の空いた心臓を抑えた。同時にエドワードはヘレンへ駆け寄り、優しくヘレンの肩を抱いた。
「この姿になって初めて君の前に現れた時、黒魔術を使ったとは確かに言った。だがなぜ部屋で行なったと知っている?」
「あなたに無罪判決が出たのを知ってるかしら?その報告を聞いて、私はあなたに会いに行ったのよ。まずは牢へ。でもなぜかいなかった。警備隊は脱走したと探し回っていたわね。それからあなたの家へ。使用人が案内してくれたわ。深夜に物音がして見に行ったメイドが帰ってこなかった部屋と説明を入れてね。勿論入るのを止められたわ。それでもあなたがいると思って入った。もしかしたら帰ってきているんじゃないかと思って。でも部屋にあったのは、中央に何かの灰……燃やしたあなたの心臓と私の髪の毛が残ったおぞましい魔法陣と、恐らくメイドであろう死体。そして私への指輪」
ホドルは黙ってヘレンの話を聞いていた。ちらっとヘレンの手を見たが、その手に何も付けられていないのを見て落胆したように見えた。
「指輪はどうした」
「あなたから貰わないと意味がないものでしょう?だからそのまま部屋に置いてきたわ」
「俺が食人鬼になったのを知ってからも、渡しにいくと思っていたのか?」
「あなたが怖かったからそうは思わなかった。でも……あなたが黒魔術に手を出さなければ貰っていたと思うわ」
「なぜ?」
「あなたを愛していたからよ、ホドル」
その言葉を皮切りに、ヘレンの瞳から再び涙が溢れた。
「言い訳にしかならないけど、私は父に言われてずっと家の中にいたのよ。それも入り口からは程遠い部屋へ連れていかれて、楽器の稽古だとか貴族のマナーだとか家の歴史だとか、くだらない勉強をさせられていた。あなたの悪い噂も聞いた。でも、信じていた。だって純粋に世界を旅して物を仕入れて商売を楽しんでいたあなたが、そんなことをするはずないと思っていたから!きっと何もかも解決して、また一緒に葡萄酒を飲めるって……」
そう言ったヘレンへホドルは少しずつ近づく。エドワードは特に追い払おうとも遠ざけようもせず、だが自分が離れようとはせず、ホドルを受け入れた。
彼は片側にヘレンの肩を、そしてもう片側でホドルの肩を抱く。あまりにも人間に程遠い質をした皮膚でも躊躇なく。ホドルはそんなエドワードに驚いて見たが、エドワードは軽く笑ってみせるだけだった。
「謝って許されることではないわよね、わかってるわ。父を殴ってでも、外へ出るべきだった。待っているばかりではいけなかった……本当にごめんなさい、ホドル」
「いや……ヘレン。その……俺は君が会いに来てくれないことを、自分で進んで決めているものだと勝手に思っていた。それで俺は、周りに味方がいないものだと思って、どんどん何もかもが憎くなって……」
「それで、黒魔術を?」
エドワードがホドルの肩を撫でながら尋ねる。ホドルはとても申し訳なさそうに、後ろめたそうに目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「牢に入れられた深夜……女がやってきた。顔は見えないようにマントを深く羽織り、一人でやってきたんだ。女は言った。お前の願いを叶えてやろうと。俺はその時に強く願ってしまった。俺を見捨てた者達に復讐を、と。まずは牢から出て、無実を証明しなければならなかったのに、俺は復讐を選んだ。それから女は魔術師だということだけを紹介し、俺の部屋へと連れ帰ってくれた。復讐のためには俺の心臓と、最も憎い者の一部が必要だと言われてな。……部屋へ行けばヘレンの髪の毛がベッドにあるだろう、と俺は思った。その時一番憎かったのが……ヘレン、君だったからだ」
ヘレンはいつの間にか泣き止み、その手はナイフではなく、ホドルの手を握ることを選んでいた。ホドルは長い爪を気にしつつ、触れすぎないようにヘレンの手を握り返す。ヘレンはその手を強く握り、ホドルの話にじっと耳を傾けていた。
「良くない感情が自分を支配していると、悪いことばかり思いつく。その時は、とても名案のように思っていた。君にどんな復讐をしてやろうかと。どうやったら愛を失う苦しみを、裏切られた悲しみを伝えられるかと。それがこれまでの結果だ……俺は自分の家族を殺した後、すぐに君の家へと行った。……そうか、あの時不在だったのは、俺の家へ行っていたからなんだな……そこからは……エドワード、君が聞いていた通りだ」
ホドルはエドワードを見た。ホドルの瞳に映る醜い男は、涙を浮かべていた。それに驚いたホドルだったが、ほんの少し小馬鹿にしたような笑いを浮かべる。
「哀れで愚かだったのは……俺……いや、私のほうだったようだな……そして、愛を信じなかったのも、私だった……」
一度、強い風が吹いた。静かだった森の木々が一斉に騒ぎたて、すぐに平穏を取り戻す。
風と共にホドルの皮は再び剥がれ、人間のホドルが戻ってきた。しかし、やはり左胸の隙間は埋まっていない。
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