8.過去
「俺も加えてもらおうか、そのお茶会に」
エドワードの背後の暗がりから、話の中心になるであろうホドルが現れたのだった。
すぐさまエドワードとヘレンは立ち上がり、彼と向かい合う。ホドルの口周りは相変わらず血で汚れていたが、涎も多く流れていた。そしてずっとエドワードを見つめている。
「お茶なら出ないわよ。あと、あなたにとっての御馳走も無いわ」
ヘレンの言葉に、ホドルはゲラゲラと下品な笑い声をあげて笑った。
「ヘレン!君は本当に昔から冗談が可愛らしい。社交界でもよく皆を笑わせていたなあ」
「しゃ、社交界……?」
ホドルの言葉をそのまま繰り返し、困惑するエドワード。牙を見せつけるような笑みを彼に向け、ホドルは続ける。
「君の疑問はもっともだ、エドワード!ヘレンは何もかも隠していただろう、俺が教えてやろう。俺とヘレンは、そもそもお前なんかとは全く関わらないような身分の者だ。昔のままならな!ここより東にあるレイ・ロンダレス公爵の治める地に我らはいた。俺は次期カタルム男爵として。そしてヘレンはその婚約者として!」
食人鬼の見苦しく恐ろしい見目にも関わらず、そう言ったホドルは大変勇ましく見えた。隙間の空いた左胸がよく見えるほど胸を張り、堂々と紹介をした彼を見た後、ヘレンを見ると、その通りだとゆっくり頷いた。
エドワードは彼の話を聞いて、如何に自分が田舎者で世界を知らない男だと情けなく、とても恥ずかしくなった。公爵の名も、ホドルの爵位名も聞いたことが無かったのだ。
そして、先ほど彼がエイドスの皮をかぶっていた際に見せた立ち振る舞い。あれは貴族のよう、ではなく、実際に貴族だった。二人は貴族の恋人同士、それも婚約者。
何があってこのようなことになってしまったのか。エドワードは知るべきであるような気がして、ホドルに質問を投げかける。
「すまない、公爵様の名も、君の……いえ、あなたの名前も聞いたことがありません。えっと……どうか、この愚かな田舎者に教えて頂けない、でしょうか。その……あなたのことや、ヘレンとどういった日を過ごしていたか、とか……」
不慣れな敬語を使い、たどたどしくホドルへと尋ねた。エドワードの質問に驚いたのは、ヘレンだった。
命を奪われるかもしれないのに、自分が逃げる手段を必死に考えているのに、なぜ夫はこの狂った食人鬼との会話を続けようとしているのか、理解できなかった。
ましてや、過去のことを。先ほど話したこと以外は本当に自分とホドルとの問題しか残っておらず、特にエドワードに話す内容ではないと思っていた。
元恋人との以前の関係や何があったかなんて、聞いても何にもならないだろう、と。そんな彼女とは逆に、ホドルは自身に関心を持ったエドワードに対してほんの少し柔和な態度を見せた。とは言うものの、牙の見える口を控えめに閉じただけだったが。
「田舎者め……そんな話をしている暇はない。早くお前の心臓を喰わせろ」
「知りたいのです。ヘレンのような美しい人と恋仲であり、男爵の当主だったということは、あなたはとてもすごい方だったのでしょう。
先ほどまでの不躾な言動をどうかお許しください。そしてどうぞ哀れなこの農民に―もう鍬も持っていませんが―教えてやってください。
死ぬ前に、自分より遥かに優れた方の話を聞きたいのです」
エドワードは恐る恐るホドルの目を見る。枯れ葉に火をつけた以上に燃えるような眼差しを持った食人鬼は、今度は品定めをするような目で彼を見ていた。
その一方で自分より遥かに優れた方、という言葉に、ホドルは僅かに笑みをこぼした。
いつから優れた者、という言葉を自身に向けられていなかっただろう。他人からこういった尊敬の念を向けられるのは、とてもむず痒かったものか。少しだけ背筋に何かが走り、身震いしそうなものだっただろうか。それを思い出すのに少々苦労したが、自身の変わり果てた手を見て思い出した。
「言葉通り、愚かで哀れな男め。……だがいいだろう、乗ってやる。
こうしている間にも、ヘレンが何か俺を楽しませるような逃走劇を考えていることだろう。それまでお前の望み通り、昔話をしてやる」
ホドルはそういうと、すぐ近くにあった木に腕を組みながら寄りかかる。
「エドワード、もう少しこちらにきたらどうだ。勿論、ヘレンもな。
そんなに離れていては楽しく互いの顔を見ながら会話もできないだろう?」
エドワードはホドルの言葉に素直に従った。その従順な態度に、ホドルは満足げに頷く。ヘレンは拒絶の意を顔で表現していたが、やがてエドワードと共にもう少しだけホドルへと歩み寄った。
こうして一人は食人鬼、一人は醜い男、もう一人はナイフを握る女の奇妙な集会の図が出来上がった。
「それで?何を聞きたいんだ?今の俺は、自分でも驚くほど気分が良い。多少なら無礼な質問も許そう」
相変わらずの濁った声だったが先ほどとは違い、ホドルは非常に人間らしかった。気付けば飛び出ていたはずの目は引っ込み、年老いた男のようだった。それから牙も見せていない。わずかだが微笑みすら浮かべている。
ホドルの機嫌を伺うための言動だったが、エドワードの発した言葉は予想以上に彼とヘレンを助けていた。
「その……お名前をきちんと聞いてもいいでしょうか。なにせ男爵様と話したことなんてないので、何から聞いたらいいのか……」
「わかるぞエドワード。お前にとってはあまりにも高位な存在だからな、困ってしまうのだろう。……俺の名はホドル・エインワイト。父は十七代目カタラム男爵だった。俺の家系は代々大きな商売をしていてな、貿易で他の大陸にも渡ったことがあった。どうだ?海の向こう側がどうなっているか想像つくか?」
ホドルの問いかけに、エドワードは首を横に振る。そうだろうな、とホドルは若干小馬鹿にした際、ヘレンがむっとした顔を向けたがエドワードが腕を前に出し、宥めた。
「素晴らしい土地が広がっていた!一面を赤い花で覆われた美しい花畑、実り豊かな土地を闊歩する巨大な動物!果てなく続く砂の大地!それはそれは見事だった。
公爵閣下に土産品として持ち帰る物も見事な工芸品ばかりで、俺は良く見惚れたものだった。……俺もやがては男爵の名を継ぐ者として、多くのことを学んだ。社会のことを学ぶために、という名目で様々な上流階級の者だけが集う晩餐会などにも参加した。そこで俺はヘレンと出会ったんだ。なあ、ヘレン?」
話を振られたヘレンは、警戒は解かず、ナイフを握りしめながら頷いた。
そして、人間だった頃と変わりない自慢話をするホドルを見て、どこか安心している自分がいることに怒りを覚えていた。
「君は……どんな貴族だったんだい?」
そんなことに全く気付いていないのか、それとも気を逸らそうとしたのか、エドワードはヘレンに問いかける。
ヘレンは少しの間を置いた後、特に口籠ることなく答えた。
「私はマーレス男爵の家系に生まれた女だったわ。ずっと昔から名前だけを継いでいる、特に何もない男爵よ。多くの土地だけは持っていたけどね。男が生まれなかったから、どこかの男爵か……それ以上の爵位を持つ人に興味を持ってもらえるよう、常にきらびやかで華やかな世界に身を置いていたの」
「そして二人は出会った……」
エドワードの言葉に、ヘレンはそうよ、と答えた。続けてホドルが問いかける。
「出会ったのはどんな夜だったか覚えてるか?ヘレン」
「……覚えてるわ。夏が終わって、夜のバルコニーに長居できなくなってきた頃、あんたは北の大陸で手に入れたという毛皮のマントを私に羽織らせてくれた。
普通、甘い言葉を囁きながらかけてくれるはずなのに、あんたは……」
「ああ、これをどうやって手に入れたか、という話をしたくて近づいたんだった。あの夜は、話をまともに聞いてくれる女性がいなくてね」
ホドルは穏やかな笑みを浮かべた。エドワードは二人の会話を頷きながら聞き、ヘレンはナイフを握る手に改めて力を込めた。
やはりヘレンには、昔話に花を咲かせる理由がわからなかった。ホドルは今のところ、エドワードの言葉に気を良くしているが、いつ牙と爪を向けてくるかわからない。エドワードを守れるのは自分しかいない。それを改めて自身に言い聞かせ、ホドルとの会話に戻る。
「それからしばらく、晩餐会で会うたびに一緒の時間を過ごしたわね」
「君が一緒にいたいと言って、よく傍に寄ってきた」
「それはそっちもでしょう」
「そうだったかもしれないな。……よく共に果実酒を嗜んでいたな。
ラフィンドール産のチェリー酒の出来を討論したり、アルバ家とカルガート家の葡萄酒を飲み比べてみたり……ああ、クソ。酒が恋しい!なぜここに酒が無いんだ!」
喉元を掻きむしり、そのまま自身の顔も掻きむしるホドルを見て、エドワードは驚く。彼の皮膚が爪に引っかかり剥がれていくと、そこから見えたのは流れる血ではなく、新しい皮膚だった。
月明かりしかなく、湖畔で会った時より距離はあったためきちんと視認はできていないが、食人鬼のひび割れた皮膚ではないように見えた。
一体この変化がなんなのかはわからない。だが、より人間らしい見た目に近づいていっているのは確かだ。皮膚を掻きながら、ホドルはヘレンを見る。
「君はあの時、アルバ家の葡萄酒が好みだと言った。
俺はカルガート家を。だが本当は俺もアルバ家の葡萄酒の方が好みだった」
「なぜ違う方を好みだと?」
エドワードの疑問に、ホドルはくくく、と喉の奥で笑った。
「なぜだと?次回も葡萄酒の飲み比べを約束させたかったからさ。
俺は確実にヘレンを手に入れたかった。その美貌でありながら、近付く男を皆蹴散らし続けていたヘレンを、なんとしても自分のものにしたかった……」
楽しそうに話すホドルだったが、息が詰まったかのような顔をヘレンに向ける。 その視線に耐え切れず、ヘレンは思わず目を逸らしてしまった。
いけない、と感じたエドワードは、今度はヘレンからの言葉を促す。
「ヘレンはホドルを……ホドル様をどう感じていたんだい?」
「エドワード、それは必要な話なの?今話して、何になるの?」
「僕が聞きたいだけだよ。それに、ホドル様もそれを望んでいる」
その言葉で、ヘレンはホドルへと向き直る。ホドルは悲し気な瞳をヘレンへと向けていた。救いを求めるような、あるいは施しを待っているかのような瞳で。
「……おかしな人だと思っていたわ」
息を吐き、ヘレンは言う。エドワードは追いかけるように問いを投げかけた。
「それはどうして?」
「……全く私を口説くような素振りを見せなかったから。
大体私に近づいてくる人は、何か褒めながら近づいてきていたの。髪が美しいだとか、唯一の大輪の花だとか言いながら。でもそれは、ただ晩餐会後の夜伽の相手として欲しがってたり、今夜一先ず一緒にいるだけの女性が欲しかったりだとか……。
その先を見据えてというか、本当に私を求めて話しかけている人はいないと感じていたわ。さすがに私も男爵家に生まれた女だから、自分には誇りを持っていたのよ。中途半端な男と一緒にいるのは嫌だったの。
でも……ホドルだけは違った。いつも顔を合わせれば、この間はどこに行ってきただとか、珍しいものを手に入れただとか、そんな自慢話だけだったもの。
そんな自分のことばかり話す、女を全然褒めない貴族なんてなかなかいないわ。
私に聞いてほしいって、私を求めてくれた。私は、彼のそんなところを……」
そこでヘレンは、口を噤んだ。この先の言葉は、エドワードの前では言えないと思った。ましてや、今やホドルは父と母を殺した者でもあり、夫であるエドワードの命を狙っている者でもある。
昔抱いていた感情とはいえ、口に出すのはとても躊躇われた。首を振ってその先を言わないヘレンに、エドワードはさらに促す。
「言ってくれ、ヘレン」
「どうして?もう終わっているのよ、私達は!なぜこんなことを話さなくてはならないの?私はあなたが……」
「頼む、言ってくれ」
エドワードはホドルを見る。ホドルの悲し気な瞳は、再び火を灯し始めていた。
それを見て、エドワードは確信した。ホドルが求めているものが何かを。本当に、求めているものは何なのかを。
「……ヘレン。もう一度聞くよ、君はホドル様をどう感じて……どう思っていた?」
改めてゆっくり、優しく問いかけるエドワード。ホドルはじっとヘレンを見つめていた。そう問われ、ヘレンはエドワードを見る。言わなければ、何度でも尋ねてくるだろう。エドワードの瞳を見据えてから、ヘレンはホドルへ向き直る。
「私は、ホドルを……あなたを愛していた。……とても、愛していたわ」
その言葉に、ホドルは満足していた。全身は震え、涙が流れ出ている。今のホドルの瞳には、光が宿っていた。
「ああ、ああ、そうだとも。俺の話を黙って、うう……楽しそうに聞いてくれたのは君だけだった。ぐ、うう、俺はとても……幸せ者だと思った。ヘレンがたまたま、そんな俺のことを気に入ってくれて……愛してくれて……俺も、とても愛していた……」
嬉しそうに、そして呻きながらそう言ったホドルは、顔や喉だけではなく、全身も掻きむしり始めた。
それと同時に、爪も一緒に剥がれ落ちていく。驚いたエドワードとヘレンは距離を取り、じっとホドルを見守った。
膝をつき、二人が見ている前でホドルは必死に全身を掻く。先ほどと同じく、血は飛び散ったりしていない。呻き声はだんだんと叫び声になり、最後には咆哮となっていた。
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