7.呪い
荷馬車まで戻った二人は、その惨状を見て酷く落胆した。
「ああ、なんていうことなの……」
ヘレンの呟きは、蝿の飛び交う音で消えていく。荷馬車はもうすでに、機能しないものとなっていた。食人鬼が来た方向を考えれば、彼が馬を殺したのは明白だ。
こうなったのならば、残る手段はわずか、いや、一つしかないとヘレンは考えていた。そんな時、エドワードが言う。
「なあ、ヘレン。教えてくれ……君は一体、何者なんだ」
ずっと聞きたくても聞けなかったこと。聞くのは野暮だからと、ずっと避けていたこと。
今が幸せなら、それでいいと思っていた。だが、もうそれは続かないものとなっている。エドワードは、今の彼女の口から何を言われても、愛せる自信が無かった。
ヘレンは、エドワードの問いかけに答えず、ずっと背を向けている。やがてゆっくりと荷馬車から必要最低限の荷物を取り出し、エドワードに渡す。
「これを持って村に帰りなさい。……いえ、もう帰れないかしら。それなら森を抜けて、街道に出て沿って歩けば、少し大きな村が……」
「ヘレン」
違う。今ここで食人鬼から逃げるための提案を聞きたいのではない。エドワードは、それを言葉にせず、名前を呼ぶことでヘレンに改めて問いかける。
夫から恐怖と疑念の籠った視線を向けられ、ヘレンはため息をつく。もうこれ以上はぐらかすことはできない。そう悟った。
「エドワード。全部話すわ。でも、約束して。
今私への気持ちが冷めてきていると思うのだけれど、それはそのままでいて。
そうでないと、あなたは助からない」
ヘレンは、少し困った微笑みをエドワードに向ける。この少しの間に、やつれてしまったのだろうか。彼女は、なんだか疲れたようにも見えた。
「まずあなたが疑問に思っているであろう、私のこと。私は普通の人間よ、安心して」
そう言ってヘレンは、洗うために持って行っていた小さいナイフで自分の頬に一本の線を引いた。新鮮な赤い血が、ぷつぷつと線から丸を描き、そのまま頬に沿って流れ落ちていく。食人鬼のように人間の皮をかぶっているわけではないと、証明された。
「歩きましょう。あいつから少しでも離れなきゃ」
ヘレンは歩き出す。何も持たずに。エドワードはヘレンが頬を切ったことに衝撃を受けて少しぼんやりしていたが、ヘレンからの呼びかけですぐに歩きはじめた。
「君が人間なのはわかったよ。すまない、疑ってしまって……」
「いいのよ。あなたが安心できたなら」
その足取りはゆっくり進んでいく。ヘレンが先を歩いていたが、少しして二人は並んで歩き始める。手は触れ合う距離だったが、握ることはしなかった。
「それで……あの食人鬼はなんなんだい?君と顔見知りのようだったけど……」
「……彼は、元人間で私の元恋人。名はホドル。黒魔術を使い、私への復讐のために食人鬼になった男よ」
復讐のため。その言葉を聞き、エドワードは立ち止まる。合わせてヘレンも立ち止まるが、視線は合わせない。
「なんだって……?それじゃあ、彼の目的は……」
「私を殺すこと?それだったらもうとっくの昔に殺してるでしょうね。
そうじゃないのよ、エドワード。彼の目的はそのまま。私に復讐をすること」
二人を間を夜風が駆け抜ける。冷たいはずの風だが、エドワードには全く冷たく感じなかった。
「止めないと……君が死んでしまう……」
「無理よ」
「どうして。こうして彼から逃げているなら、止められるんだろう?」
「無理なのよ、あなた」
ヘレンの声は、次第に震え始める。彼女を見ていないが、涙ぐんでいるのがわかった。
次第に深呼吸を繰り返し、息を整えたヘレンは再び歩みを進める。エドワードは追わず、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「それでも……何か方法はあるんだろう?僕に取り入った理由が、それなんじゃないのかい?その……彼が言ったように」
エドワードの言葉に、ヘレンは再び歩みを止める。薄暗い森の中でも月明かりがよく通り、僅かな光の中、彼女は佇む。
思わずその姿に見惚れるエドワードだったが、彼女の型が震えていることに気が付いた。
「ごめんなさい、エドワード……本当に、ごめんなさい……」
泣きながら、何度も何度も謝罪の言葉を呟き、ヘレンはその場に膝を折った。エドワードも歩みを進め、彼女の細い肩に手を置き、背中を撫でる。
小さな背中をエドワードの大きな手が何往復かした後に、ヘレンは静かに話し始めた。
「私があいつの……ホドルの呪いから逃れるには、大きな犠牲がいるの。
人の命よ。それも、私と互いに深く愛し合っている人の命。
あいつは食人鬼になる時、心臓を捧げた。だからあいつは最も心臓を欲しがる。
自分の心臓を取り戻した時……あいつの左胸を見た?心臓を捧げたから、穴が開いてるのよ。もう半分以上は埋まっているけれど。そして新しく心臓が埋まったら、私は呪縛から解放される。でも、そのためには……」
そこまで話したヘレンは、酷く震え出した。エドワードが慌てて抱きしめようとするも、彼女はそれを拒絶する。そこでエドワードは理解した。ヘレンが救われるには、自分の心臓を奴に喰わせなければならないと。
「だから僕を逃がそうと……?」
「あなただけでも逃がしたかったけど、ごめんなさい。
私はそれができなくなった。あなたのために嫌われようともしたけれど、無理だった。だって……」
「愛してるから?」
ヘレンの言葉を繋ぐと、ヘレンはエドワードに抱き着く。
「あなたに関わらなければよかったのに……私は呪いを解きたくて必死だった。あなたの前に二人、心臓を捧げるための恋人を作ろうとしたわ。でも、私の愛が偽物だったことに気付かれて、駄目だった。私も彼らを愛せなかった。そして、私の周りではいつも人が死ぬから……ホドルがそうして私が世間から孤立するようにしたから、私はどこにも行く先が無かった。あなたのいる村に辿りつくまでは」
黙って彼女の独白を聞き、背中を撫で続けるエドワード。ヘレンは段々と落ち着きを取り戻し、体の震えは収まっていった。
二人は、いつもの寝室で寝る前の時間のように、互いの体温を感じ、不思議と安らぎを感じていた。ヘレンは独白を続ける。
「あなたの小屋を見た時、あなたに取り入るしかないと思った。
だって、家族や恋人や友人と団欒しているはずの時間に、あなたの小屋だけ灯りが消えていたんだもの。空き小屋だなんて心配はしていなかったわ。泥にまみれた畑作業の道具が置いてあったんだもの」
エドワードはああ、片付けておくべきだったかな、などと言ったが、すぐにそうしないでよかった、と呟いた。ヘレンはその優しさに甘え、彼の肩に顔をうずめる。
「さっき、なぜあいつが心臓を捧げておいて、胸の穴が半分以上埋まっていると言ったのかわかる?あいつはもう私の愛する人を二人食べた。それで胸が埋まっているの、新しい心臓が作られているのよ。私の父と母の、心臓を……。私の、目の前で、生きたまま胸を、えぐり……まだ微かに、動いていた心臓を……」
どこにも行く先がないと言っていたのは、大げさな話ではなかった。彼女にはもはや、帰る家すらなかったのだ。エドワードは何も言えず、ただヘレンを抱きしめることしかできなかった。
愛する人を目の前で失うと言うのは、どれほどの痛みなのだろう。流行りの病で死んでいった父と母に感謝はあったものの、エドワードはそれほど悲しくなかったことを覚えている。感謝こそしていたが、親への愛は無かったのだろう。
もしヘレンとここで別れることになったら……そう思うと、自然とヘレンの肩を抱く手に力が入った。ヘレンは、続けなくてもよい話を再度始める。
「私の手に乗せたのよ。右に父のを、左には母のを……とても温かくて、塗れていたから、手の中で踊るの。落とす、なんてことは、しな、かったわ。そしてあいつ、は、そのまま、私の手か、ら」
言葉が呼吸によって乱される。大きく息を吐き、吸い、ヘレンは必死にエドワードにしがみついた。
「大丈夫、大丈夫だよヘレン。落ち着いて、大丈夫……」
眠れないと愚図る子どもを寝かしつける親のように、先ほど恐怖で離れていったエドワードに言い聞かせたヘレンのように、優しい声で夫は妻を落ち着かせようと努力する。
そのおかげで少しの間苦しそうな呼吸は聞こえたが、徐々に整いつつあった。しかし、今度は男のエドワードでも痛いと思うほど強い力で、ヘレンはエドワードの手首を握る。
「大丈夫なんかじゃない……早くこの呪いを解かないと……あいつはどこまでも私を追ってくる」
「ヘレン、僕たち二人がずっと共にいるためには、何をしたらいい?僕には何ができる?」
そのまま手首を握らせたままで、エドワードは尋ねる。ヘレンの目は血走っており、大粒の涙がぼろぼろと流れ続けていた。
「あなたは何も出来ない……今夜一緒に村から出たのは、この呪いを解いてくれる呪術師のいる村か街を探すためだったの。一緒にいる限り、あなたは殺されない。
傍に居ればあいつが来るのがわかる、そうすれば私はすぐにこの命を投げ捨てるわ。でも、それがあいつにとっては問題なの」
「それは、復讐ができなくなるから?」
「それもあるんでしょうけど、一番の理由は私の心臓。あいつは黒魔術と共に、私へ呪いをかけた。私と命を分かつ呪いよ。あいつの心臓と、私の髪の毛を……それを合わせて、黒魔術を行なった。だからあいつは私から離れないの」
「死なれては、困るから……」
頷いて返事とするヘレン。いつの間にかエドワードの手首を離し、自身の膝の上で手を組んでいる。その手は震えぬよう、ぎゅっと握られていた。
「この呪いを解くには、あいつに新しい心臓を与える必要がある。
でもそうするには私と互いに愛し合う人の心臓を三つ用意しなければならない……
それを拒んで、何度自死を選んだと思う?何度死のうとしても、あいつが絶対邪魔をしに来るの。それをあいつは楽しんでいる。生きながらにして地獄を歩く私を、楽しんでいるのよ」
その目は虚ろだった。こんなヘレンは見たことが無い。そんな妻を見ても、何もできることがないと言い渡された以上、悔しさばかりがエドワードの胸にこみ上げてくる。
抱きしめることはしなかった。それが何にもならないことがわかっていたから。
エドワードはひどく自分を恨んだ。共に生活をし、幾百もの日を過ごしておきながら、彼女のことを何もわかっていなかったのだ。何も話さなかったヘレンも悪かったかもしれない。
だがそれ以上に、深く彼女について知ろうとしなかった自分が憎かった。もっと早くに気付いていれば、もっと早く動けたかもしれない。
村の人も、あんなに犠牲者が出なかったかもしれない。自分がさっさと食べられていれば、不幸な人は減ったかもしれない。
何を思うにも、全てが過去のことになっていた。どうしようもない虚無感だけが、エドワードを襲っていた。
「それでも……」
己の中のあらゆる気持ちの中、やはり揺るがないものが一つあった。
「君を愛してる。君が地獄を歩いているというのなら、僕も歩こう。
でも、きっとなにか解決策はある。あるはずなんだ。」
それはヘレンだけでなく、己自身にも言い聞かせていた。そんな絶望しか残っていないだなんて、あるわけない。
エドワードは、過去の経験からそう思っていた。思い込んでいただけかもしれない。それでも、今のエドワードを勇気づけるには十分だった。
彼の言葉でヘレンは、止まらない涙の水量を増やす。そして小声で馬鹿ね、と呟いたが、必死に考え事をしていた彼には聞こえていなかった。
「黒魔術を使ったって、どうやって知ったんだい?もしかしたらそれを知れば、解ける方法があるかもしれないよ。例えばほら、本なら同じ本を探して読んでみるとか、ホドルに教えた人がいるならその人を探すとか……」
わざと明るい調子で話すエドワードだったが、語尾の調子は下がっていった。実際、そのことを知っていたなら、きっとヘレンは行動に移していただろうと思ったからだ。それを察したのか、ヘレンは少しだけ口角を上げた。
「そうね……まず、どこから話すべきかしら。あなたに隠していたことが多すぎるわ」
「それなら、始めから全部話してほしい。君は一体どこの誰なのか、ホドルとはどこで出会ったのか。黒魔術のことをどうやって知ったのか……」
「知りたいことも多いわよね。いいわ、少しお話ししましょう」
ヘレンの硬く握られていた手は、今は緩く隙間が空いていた。しかし、それはすぐに閉じられることになる。
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