4.戯れ
荷馬車の馬を走らせ、陽の灯りが残りわずかになった頃。二人は村から少し離れた森の中へと入っていた。熊や狼が出る森だと聞いていたが、獣避けの香や多めの灯りをヘレンが用意していたため、まだ出会っていない。
これが無くなる前に、次の住居を構える村か街を探さなければならないな、とエドワードはぼんやり考えていた。
良い具合に他の旅人―あるいは盗賊―が残したと思われる野営地跡があったため、今夜はそこで夜を明かすこととした。少し歩けば湖もある。食料もまだ持ってきたものがある。大丈夫、屋根がないだけだ。エドワードは、自身を安心させるようにそう考えた。
本当の所、彼は屋根が無い場所で夜を明かすのはこれが初めてではなかった。幼い頃、醜いからという理由で外に放り出されたことがある。彼の父と母が流行り病で亡くなるまで、それは何度も繰り返された。
だからと言って外で寝るのが平気というわけではないが、それでもヘレンを護るために自分がしっかりしなければ、とその経験すら夜を越える勇気へと変えるつもりでいた。
ところがそんな愛しいヘレンは、全く夜の闇に怯えることもなく、エドワードの付けた焚火をじっと見つめている。その細い肩は、いつもより細く消えてしまいそうな印象を与えた。
家を出て、この野営地後を見つけてから二人は言葉を交わしていない。時折野鳥の声が遠くから聞こえ、焚火の弾ける音だけが二人を包んでいた。そんな緊張した空気でも腹は減る。エドワードは簡単なスープを作ろうと、道具を取り出した。
「この先に湖があるはずだから、少し濯ぎに行ってくるよ。すぐ戻る」
いつもと変わらない様子でヘレンに話しかけるエドワード。行こうとすると、ヘレンも立ち上がり、共に歩き始める。
「大丈夫だよ、すぐ戻るし、灯りもある。獣避けの香も君が用意してくれただろう?」
「いいえ、あなたの身が危険なの。一緒に行きましょう」
村から離れてるし大丈夫だ、とは言わなかった。ヘレンの表情が妙にこわばっていたからだ。食人鬼がここまで来るのが怖いのだろうか。いや、そんな畏怖した表情には見えない。
ただ、緊張しているように見える。一体何に緊張しているのか、エドワードにはわからなかった。ここには自分達しかいない。獣避けの用意もある。そして愛する人がいる。それだけで安心しているエドワードは、能天気としか言えないだろう。
二人が進む道は、野営地を使っていたであろう人間が通った道のようで、土が踏み慣らされていた。草はわずかに生えているが、あまり大きく育ってはいない。
快適に歩いて湖の傍に出たエドワードは、月明かりが水面に映った幻想的な風景に、初めて宮殿を見た少女のような、感嘆の声を漏らした。
「見てごらん、ヘレン!こんなにも美しい夜を見たことがあるかい?」
「いいえ、貴方と見た今日が初めてよ」
「ああ、なんて良い夜なんだろう!君と初めての夜を共に味わえるなんて!」
湖に駆け寄り、持ってきていた鍋や木の器を濯ぎ始める。その隣にヘレンが来て腰を下ろすと、水面に二人が並んだ。濯がれて歪んだ水面がやがて穏やかになり、揺れていた顔が現れる。
改めてエドワードは思った。本当にヘレンは、なんて自分には勿体無い妻なのだろうと。
左右で違う大きさの目、地面に向けて垂れ下がっているような太い鼻、若干突き出た顎、顔にひび割れたように見える薄い血管。
そんな自分の隣にいる端正な顔立ちの彼女。ふわりと生まれたての子猫のように柔らかい栗毛色の髪の毛、見る者を虜にする薄青の瞳、誰もの視線を集める色気があり、血色の良い唇。
そんな彼女は、過去に一度だけ愛してると言ってくれた。その一度以来、なかなか口には出してくれないが、行動は愛があるとエドワードは知っている。そうでなければ、今頃出て行き、別の男と愛を育んでいただろう。
「……初めて貴方の家を訪れたあの夜。あの時、蝋燭の灯りの奥に見えた貴方の顔がとても怖かった」
湖に映る夫を見つめながら、ヘレンは呟いた。困ったように微笑みつつ。やっといつもの調子で話し始めてくれた彼女に安堵し、エドワードはその言葉の続きを促した。
「でも、すぐに毛布と温かい牛乳を持ってきてくれて……寝床まで譲ってくれて、優しい人だと知った。それと同時に、馬鹿な人だと思ったわ。私が女でも、強盗だったらどうしていたの?」
「そうだな。こんなに美しい人が醜い僕の家に強盗に入ろうって選んでくれたんだ、殺されても文句は言わないさ。誰も僕の家に入ろうなんて、しなかったんだから」
「本当に馬鹿な人。強盗は悪よ、ちゃんと然るべき対応をしなきゃ」
「ああ、わかったよ。例えば……こんなふうに?」
そう言ってエドワードは、湖の水を手ですくい、ヘレンの顔へと浴びせた。きゃっ、と女性らしい短い悲鳴を上げて、ヘレンはそのまま後ろへ倒れ込む。そんな彼女に、エドワードは心から笑った。倒れ込んだ彼女のきょとんとした表情が、たまらなく可愛らしくて。
ヘレンはやられっぱなしでは不服だと言わんばかりに、すぐさま態勢を戻し、エドワードに水をかけ返した。エドワードの直していない寝癖がぺちゃんこになり、目の上から流れてくるので、大泣きしているように見えなくなかった。
そんな様子にヘレンも笑いだし、二人は大いに笑う。楽し気な笑い声は、月夜に響き渡った。
久しぶりに楽しいひと時を二人は味わった。誰もいない月夜。陰口を叩かれると恐怖することなく深呼吸をし、誰からの畏怖する視線を浴びることなく、湖の畔を走った。
別段、村にいた際もエドワードはヘレンと一緒にいれば何も怖くなかった。仕事中は仕事の進行具合と、ヘレンのことだけを考えて生きてきた。
ヘレンは何を思いあの村の中で生活していたか定かでないが、家の中のヘレンを見る限り自分と同じだろうと、エドワードは勝手に信じていた。
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