Episode.3-10

 心は落ち着いていた。恐怖など感じない。身体の痛みは未だあるはずなのに、俺の身体は俺の願いのままに動いていた。

 正面には黒い霧の塊が浮かんでいた。頭部と思わしき場所からは、漆黒色の光が広がり、今まさに解き放たれようとしている。しかし、そんな危険な状況と分かりつつも、俺の心に焦りという感情はなかった。


 剣はなく、受け止める手段はない。仮に避けたとしても、その衝撃で洞穴は崩れ、生き埋めになることは必至。もし、この戦いに生き残る術があるとしたら、それは、あの漆黒色の光を消し去り、暗闇に閉じ込められている女の子の友達……せっちゃんを、正気に戻すことだ。


 漆黒色の光が力場を生み、天井に亀裂が走り、小石が降り注ぐ。俺は女の子に右手を差し出した。


「手を」


 背中に女の子の視線を感じる。


「手を。きみの手を。きみの心を俺に預けてくれ」


 俺は振り返り女の子に顔を向ける。女の子は戸惑いながら俺を見上げている。俺は優しく微笑んだ。


「大丈夫、心配はいらない。きみとの約束は必ず守る。だから友達を、せっちゃんを……、大切なものを救いたいと願うその心の光を、俺に預けてくれ」


 女の子がゆっくりと手を伸ばす。その手を取った瞬間……、




 俺の世界に、色が




 女の子と繋がった手から透水色の光が流れ込み、俺の世界に色を戻していく。真っ黒で塗り潰された記憶の欠片キャンバスに透水色の光が差し込み、そこに描かれていた景色が映し出される。


 そこに映っていた景色には、俺の知らない人物が映っていた。色白い肌に、透き通るような優しい声を持った女性が、涙を流し嘆いている。その横顔が、どことなく今俺の後ろで泣いている女の子に似ている気がした。


    ◆


「どうしてこんな惨いことを……。世界が一つになるというのは、従わぬ者を全て滅ぼすということなのですか? そんなことのために、そんなことのために――――の人たちは犠牲に……」


    ◆


 ああ、そうだ。水の国の人たちは、”僕”の村を攻めてきた時も決して手を上げることはなかった。水の国は、世界がより豊かになることを願い、世界統一の話に賛同した。”僕”の村が滅ぼされたのも、世界がより豊かになることを願ってのこと。彼女(水の国の双子巫女)たちの決定ねがいは、決して悪ではなく、純粋な善意によるものだった。


 知らない光景のはずなのに、知っているかのように記憶が語り出す。まるで、俺の中にもう一人の自分がいるかのように、俺の中の俺が語り出す。


 俺は、女の子の手から感じる、『人の温かみ』に応えるため、手を強く握り返した。


「「きみの手はとても温かい。きみたちの心はそれに負けないくらい温かだ。きみたちは、あの頃からずっと、優しい心で世界に接してくれていたんだね」」


 俺の声が重なって聞こえる。この声は間違いなく俺自身が発している俺自身の声。この願いも、行動も、全部俺自身が望んでいること。


 女の子が驚きの声をあげる。俺は手を離し、前へと歩を進め口を開いた。


「「きみのその心に応えることが俺の……"僕"の使命だ。きみのその純粋な願いに応えるために、"僕"(俺)は……」」


 地響きで天井が割れ、大きな岩が俺と女の子との間に落ちる。黒い霧の塊が、どこかで聞き覚えのある不協和音を発し、漆黒色の光を最大限に輝かせる。俺は、もう間もなく訪れる脅威に備え、身を構えた。


 確信があった。目の前の脅威を退け、女の子の友達、せっちゃんを救い出せる、その確信が。如何なる方法を以てなすのか、それは分からない。だけど、今視えているもの全てが、それが可能だと俺に語り掛けてくれる。その声に従い、それをなせば、きっと……せっちゃんを、救い出せる!!


 黒い霧の塊が漆黒色の光を矢に変え、世界に放つ。その矢が真っ直ぐに俺に迫る。俺は、右手を強く握り締め、瞳を閉じた。しかしその瞬間、俺の中から小さな黄金の光が飛び出し目の前に舞う。その光は人型に……どこかで見覚えのある男の子に姿を変え、俺を真っ直ぐに見て、制した。


「それは、使ってはいけない力だ」


 男の子がそう口にし首を振る。男の子は悲哀に満ちた目で俺を見て、再び口を開いた。


「彼女がきみを救った時に僕も同じことを願った。人は、人の世で生きてほしいと。だけどもう、そうも言っていられないんだね。きみには、運命などに縛られずに、人として生きてほしいと願っていたのに」


 男の子が肩を落とす。男の子は再び黄金の光に姿を変え、俺の中に戻った。


 光が戻るのにあわせ、俺の中にあった記憶の欠片キャンバスすべてに色が灯る。そこには、どれも見覚えのある景色、人、約束、そして、『名前』が描かれていた。そこで俺は気付いた。これは全て、『俺が経験したこと』なんだと。だけど、記憶の欠片キャンバスのいくつかは色褪せている。それが何を意味するのかも薄々気づいていた。


 漆黒色の光の矢が俺に迫る。それが、かつて世界を暗黒に染め上げた『災厄』の力の一端であることも、俺の記憶の欠片キャンバスには描かれていた。


 先程と同じく俺の心には確信があった。せっちゃんを救い出せる、その確信が。しかし、それと同時に新たな確信も得ていた。それは、今視えている世界、人々、記憶、そして、『名前』、これらは次に目を閉じた時にはきっと、憶えていないということ。どうして憶えていないと確信を持って言えるのか、それも分かっていた。


 それは、今の自分が、現在いまの自分ではないから。


 ゆっくりと目を開く。目には涙が溢れていた。


 記憶をなくし、クルーエルアの王国騎士となった俺こそが、現代いまに生きる、現在いまの俺だ。知らないことを知りたいと、忘れたことを思い出したいと願うことは、決して悪いことではない。しかし、知らない方が良いこともある。現在いまの俺が全てを思い出したら、きっと生きてはいられない。今も、心が破裂しそうになるほど、感情が決壊し涙が溢れ出ている。

 いずれ現在いまの俺が全てを思い出す日が来るだろう。そのいつか思い出す日までに、己の心に巣食う『悪意』に、決して負けない強い――――に成長してくれることを、俺は……いや、"僕"は願う。その日のために、現在いまを生きるお前おれの信念を……、"僕"が、守る……!


 頭に稲妻が走る。全ての回線パスが接続され、頭の中に、湖の中心に聳え立つ一本の塔の映像が浮かび上がる。


 右手を天に伸ばす。その右手に左手を添える。


「僕は、僕の全てを捧ぐ。大切なものへの純粋な願い。信じて待ち続けている純粋な約束。そして、現代いまを生きる全ての命を守り抜くため、この世界を暗黒から救った……」


 両の手を強く握り締め、想いを繋ぐ。女の子と繋いだ右手から透水色の光が溢れ、俺の両手が光に包まれる。俺は、女の子から繋がれた透水色の光を『光の弓』に変え、矢をつがえた。そして、迫り来る破滅の光へと弓を引き絞り、


「光の矢を……放つ!!」


 黄金の矢を放った。


 光の矢は真っ直ぐに黒い光へと飛んでいき、互いに混ざり合い、金色の線と黒色の線のうねり合う大きな球形へと形を変える。そして、黄金の輝きと黒い輝き、その力が放射線状に広がり、相反する二つの力は拒絶し合い、大きな力が拡散され、この場の全てが吹き飛ぶと思われた瞬間……、混じり合う球形の中から、真っ白な光がそれを突き破り、黒い霧の塊へと飛んでいった。


 白色の光が黒い霧の塊へと届き、その霧を突き破る。それと同時に、目の前の球形から黒い光が消え、洞穴内を黄金の光が満たした。光の中に何かが映る。それは、まだ幼い女の子と、牙が生える前の幼いせっちゃんの姿だった。


 その光景を目にし、"僕"(俺)は小さく微笑み瞳を閉じる。同時に、今まではっきりと映っていた記憶の欠片キャンバスに、暗幕が掛けられていった。その様子を俺は涙を流し見守る。それに併せるように、俺の意識もどこか遠くへと落ちていった。


 全ての記憶の欠片キャンバスに暗幕が掛けられる中、その中の一つに目が留まる。そこに描かれていたのは、一人の女の子と約束を交わす男の子の姿だった。その男の子は、先程俺の前に一瞬だけ現れた男の子だった。


    ◇同時刻〔エルザ視点〕◇


 光に悪意を撃ち抜かれ『眼』との接続が途絶える。私は目を見開いた。目の前にはグレイがいた。グレイは、私が作り出した気泡を破ろうと爪を立てている。しかしグレイの力では破れなかったのか、今も気泡は健在だった。

 

 いつの間にか『眼』に呑まれていた。これまで数え切れないほどの数の眷属を操ってきたが、こんなことは初めてだ。意識は保ったまま、小指を動かす感覚で眷属どもを操作してきたのに、何故こんなことに……。少し呼吸が荒くなっていれば、手に湿り気も感じられる。私が、かつてない程に、焦りを覚えたということなのだろうか。


 坊やたちが向かった洞穴の先に意識を向ける。大きな揺れがあったのは間違いないが、洞穴が崩れ落ちるほどではなかった。洞穴が崩れるほどの大きな振動だったならすぐさま助けに行ったかもしれないが、その必要はないように感じる。それよりも私は、水の国の少女が連れていたあの動物が気に掛かった。


 一度眷属としたものは、回線が残り続け、その後は私の意のままに動かすことができる。勿論、私が一時的に切り離せば、そのものは自身の意志を取り戻す。それが今は繋ぐことができない。完全に回線が切り離されてしまっている。回線が切れる条件は、そのものが死ぬこと。それ以外は存在しないはずだった。だがそれを、その例外を、あの坊やが作った。あの坊やは、あの時、間違いなく私の眷属としたはずなのに。


 再び怒りが込み上げてくる。あの時の怒りはもう忘れたと思っていたが、まだ私の中に蠢いているようだ。


 いや、それよりも、私は何故『眼』に呑まれていた。それだけじゃない。あの動物は、私が付与できる眷属の力を遥かに凌駕していた。私の知っている力じゃなかった。あの姿は、まるで500年前に世界を暗黒に陥れたあの……。


 ごくりと固唾を飲む。その存在は、知識としてしか知らない。


「私が恐怖を感じたのはいったいどっちなのかしら……。あの、黒い光? それとも、その黒い光を撃ち抜いた、あの……」


 手に震えが走る。その震えは、かつてない程に感じた恐怖の表れだった。


「真っ白な……光……?」

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