Episode.3-9
◇
「ありがとう。ギルトライル」
そう呟くと、心の奥底でギルトライルが笑ってくれた気がした。
騎士剣を納め小さく溜め息を吐く。女の子が涙を流しひれを持つ動物に抱き着いている。ひれを持つ動物もまた、女の子に頬を寄せ、嬉しそうに鳴き声を上げた。
二人(一人と一匹)のやり取りを見て、俺もまた自然と笑みがこぼれる。もう戻らないと思われた大切な絆を守ることができた。それが本当に嬉しかった。
「せっちゃん、良かったね。本当に良かった」
女の子が透水色の宿った両手で涙を拭い、改めて俺に向き直った。
「ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます」
まだ滲み溢れ続ける涙を浮かべながらも、女の子は笑顔で俺に感謝の言葉を述べる。俺は、首を横に振り答えた。
「俺の力じゃない。きみがせっちゃんのことを大切に想っていたから。せっちゃんもまたきみのことを大切に想っていたから。互いを想い合う二人の絆が本物だったから、せっちゃんを蝕む病に打ち勝つことができたんだ」
女の子は俺の言葉を受け、少し躊躇いながらも「はい、ありがとうございます」と答えた。
改めてひれを持つ動物に顔を向ける。ひれを持つ動物を真っ直ぐに見たが、身体の中にある色を視ることはできなかった。
出会った時、そして元の姿に戻るまでは、はっきりと二つの色を視ることができた。一色しか視えないこともあったが、それでも確かに視えていた。その色が、今のひれを持つ動物からは感じ取ることができない。そういえば、グレイと戦っていた時も同じように視えていたのに、今のグレイからは感じ取ることができない。視えていたものが視えなくなる。これはどういうことなんだ。それとも、視えないことが本来の正しい姿なのか?
目を閉じ思索する。仮説ばかりで結論など出せようはずがないが、一つはっきりとしていることがある。それは、俺以外には誰も色が視えていないということだ。
ラミスで凶暴化した動物と対峙した際に、エルザが、「あれも救う気なの?」と言った。それに返答した際に、エルザは「色?」と聞き返してきた。つまりエルザにはその色が視えていないということになる。それだけじゃない。過去の遠征の際に、あの動物の親子を救った時も俺には色が視えていた。そのことを戦い終わった後に皆に話したが、皆口を揃えて、「必死過ぎて何か変なものを視たんだろう」と言うだけだった。
誰にも視えていないのに俺だけは視えている。考えたくはないが、エルザが俺に付いて来ている理由でもある、俺が、『既に滅びたかもしれない一族』、というのが真実味を帯びてきた。
目を開く。もう一度ひれを持つ動物を真っ直ぐに見たが、やはり色を感じ取ることはできない。女の子が再びひれを持つ動物に手を伸ばす。俺もまた、余計な考えは一度捨て置き、目の前の救われた命に目を向けた。
「本当に良かった。今の姿が、きみの本来の姿なんだね。今のきみからは、きみの優しさを感じ取れる。きみたちの絆を守ることができて、俺も嬉しいよ」
そう口にし、左手を伸ばしひれを持つ動物に触れる。その瞬間、俺の身体に異変が起こった。身体の内で何かが目を覚まし、呻き声をあげる。その何かは、俺の深層心理より解き放たれ、黒い腕へと形を為した。
黒い腕は、『餌』を欲するように伸び、左手を通り抜け、ひれを持つ動物の身体へと入っていく。それと同時に、ひれを持つ動物の中に存在する色が急に視えるようになり、その色が視えた瞬間、白い光を黒い腕が貪り喰った。
何が起こったのか分からなかった。瞬きをする時間にも満たない一瞬の出来事。しかし、その僅かにも満たない時間の中で、俺は何もすることができず、ただただ傍観していた。
ひれを持つ動物が再び大きな咆哮を上げる。俺は咄嗟に女の子を引き寄せた。
「せっちゃん!? どうしたの、せっちゃん!?」
女の子の叫び声に呼応するように、ひれを持つ動物の……せっちゃんの声が聞こえる。その声は、まるで人の言葉のように、はっきりと俺の心に響いてきた。
「殺したくない。殺したくなんかない。それなのに、どうしてこんなにも憎いんだ。大好きなのに。僕は、僕を育ててくれた人たちが大切なのに……」
女の子が「いや、いや」と首を振る。女の子は必死に手を伸ばすが、眼前の増大していく脅威を前に、俺は女の子を引き留めるしかなかった。
「どうして。やだよ、せっちゃん。諦めないで。一緒に帰ろう。そしてまた一緒に遊ぼう」
女の子が必死に声を上げるが、その声を掻き消すように再びひれを持つ動物が咆哮を発する。それに合わせるように、ひれを持つ動物の身体からさらに大きな闇が噴き出した。女の子は手を伸ばし、透水色の光を発するが、闇に邪魔されてひれを持つ動物に届かない。闇がひれを持つ動物を覆った瞬間、ひれを持つ動物の魂の色から完全に白い光が消え去った。
「危険だ!」
女の子を後ろに下がらせ、瞬時に騎士剣を抜き構える。ひれを持つ動物の体を覆った闇はさらに膨れ上がった闇に覆われ、もはや原形を留めていない。闇の中に二つの目のような光が宿った瞬間、周囲に大きな衝撃が走った。
発せられた力の余波により大きく吹き飛ばされる。その衝撃が余りに凄まじく、弾き返されるような強い力の波動を受け、騎士剣が吹き飛ばされてしまう。悲鳴を上げる女の子を必死に抱き抱え、俺たちは勢いのまま壁に激突した。
「大……丈夫か……?」
痛む身体に無理をしつつも、抱き抱えていた女の子に声を掛ける。眩暈を覚え倒れ込みそうになったが、奥歯を強く噛みしめ、その場に踏みとどまった。腕の力を抜き女の子を離すと、女の子は俺を見上げ、「ごめん……なさい……」と申し訳なさそうに顔を伏せた。
女の子が発する透水色の光が小さくなったこともあり、洞穴内には透緑色の光が溢れている。光の出所を目で追うと、遠く離れた位置に騎士剣が横たわっていた。
急いで騎士剣を取りに行こうと体を向けたが、透緑色の光を何かが遮る。見上げると、そこには赤褐色の瞳を持った黒い塊が、俺の前に立ちふさがっていた。
目を見開き驚愕する。霧状に舞う漆黒の闇。赤褐色に映える二つの『眼』に、咆哮を発する巨大な口。宙を舞う大きな翼と、地面を擦るたびにその地面を裂いていく鋭利な尾。全身の輪郭こそはっきりとしないものの、黒い霧の上からでも容易にその姿が想像できた。
黒い塊を前に、俺も女の子も声を出せずにいた。目の前にいる黒い塊が、この世界に生きる同じ生物などとは到底思えない。
これが、この闇が、先程まで戦っていたひれを持つ動物なのか? この黒い霧の塊が、女の子の大切な友達、せっちゃんなのか?
黒い霧の塊を真っ直ぐに見る。黒い霧の塊は、大きく口を開き、息を吸い込んだかと思うと、さらに巨大な咆哮を発した。女の子が咄嗟に割り込み透水色の光を発する。その光は俺たちを包み込み、咆哮の衝撃を大きく和らげてくれた。
大気が歪むほどの巨大な咆哮に、女の子が作った透水色の膜が波打つ。周囲の鍾乳石が砕け散り、洞穴内に亀裂が入る。このまま咆哮が続けば洞穴が崩落し生き埋めになり兼ねない。しかし、洞穴が崩落を起こす前に、咆哮は止んでくれた。
女の子が俺たちを覆っていた光を解く。周囲には、砕け散った鍾乳石の欠片が地面に転がっていた。
黒い霧の塊が此方に向き直る。それに合わせるように、女の子は駆け寄り声を掛けた。
「せっちゃん!? せっちゃんなんだよね!? お願い、返事をして!!」
女の子が必死に訴える。黒い霧の塊はその場に佇むだけで女の子の声を聞いているようには見えない。女の子はそれでも訴え続けたが、黒い霧の塊は沈黙を守り続けている。しかし、黒い霧の塊の中に浮かぶ赤褐色の『眼』が一瞬光り、力を込めるような動作をしたかと思うと、
「えっ……?」
女の子の身体を切り裂くように、鋭利な尾を払った。
瞬時に駆け出し携えていた剣を抜き、尾を受け止める。しかし、尾の重さはこれまで受けてきたどの得物よりも重く、受け止めきるのは不可能だった。鋭さは剣で防いだとしても、重量までは受け止めきれない。剣を弾き飛ばされ、俺は再び大きく壁に打ち付けられた。
女の子が大きな声を上げる。俺は受け身を取ることも出来ず、うつ伏せに倒れ込み、顔を上げることすらできなかった。女の子が俺に駆け寄り声を掛ける。
「そんな……私のせいで……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
女の子が俺に謝る。どうにか立ち上がろうとするが身体に力が入らない。幾度も壁に叩きつけられたせいか、全身に痛みが走り、意識が朦朧としかけている。俺は女の子に顔を向け、「逃げるんだ」と伝えた。
女の子は俺の言葉に、「そんな……」と言葉を溢す。女の子は、俺と黒い霧の塊とを交互に見て、何かを決意するように目を瞑り、そして立ち上がった。女の子は黒い塊に正面から向かい合い、両手を広げ大きく声を上げた。
「せっちゃん。駄目だよ、この人を傷付けちゃ。私には分かる。この人が、ティアナが言っていた、『昔私を助けてくれた男の子』だよ。ティアナの大切な人は、私にとっても大切な人。私にとっての大切な人は、せっちゃんにとっても大切な人でしょ? だからお願い。もう、この人のことを傷付けないで……」
俺は、痛みに堪えながらも顔を上げ、俺を庇うように立っている女の子の背中に目を向ける。その瞬間、破裂するような大きな心音が跳ねた。
駄目だ……。
また一つ大きな心音が響く。
駄目だ……!
まるで、この後に何が起こるのかを知っているかのように、俺の頭は警鐘を鳴らす。
今立ち上がらなければあの時と同じことになる。術士校で俺を庇ってくれた、ローズお姉ちゃんと同じことに。力がないことを悔やんで俺は騎士を目指した。そして、守る力を、王国騎士としての力を身に付けた。それなのに、俺はまた守れないのか? 俺は、守る力を手に入れたんじゃなかったのか……?
必死に手を伸ばすが、届きはしない。俺の視界に入るのは僅かに動く左手だけ。
女の子は、なおも両手を広げ続け、黒い霧の塊の前に立ち塞がる。女の子の声に沈黙していた黒い霧の塊だったが、赤褐色の『眼』に再び輝きを灯したかと思うと、巨口の内に
腕に力を入れ立ち上がろうとするが、上半身をあげるだけで精一杯だった。とても立ち上がるだけの力は、今の俺の身体には残されていなかった。
ここで立ち上がらなければ、俺は女の子に嘘を吐くことになる。俺はきみを守ると約束した。それなのに、それなのにどうして俺の身体は言うことを聞かない。どうして、立ち上がることができないんだ!?
必死に訴えるが俺の願いは届かない。俺の願いを否定するように、俺の身体は動いてくれない。そんな俺を嘲笑うかのように、どこかから声が聞こえた。
「お前は嘘吐きだ」
心臓が跳ねる。
「お前は約束を守れない」
心臓が大きく跳ねる。
「お前は、約束を破った」
俺は、約束を破った……? いつ、どこで、誰との約束を俺は破ったんだ……?
心に黒い靄が溢れてくる。黒い靄は、まるで真実を見せ付けるかのように靄の一部を曝け出し、真っ暗な世界で、体中血塗れの、息も絶え絶えの少年を映し出した。
「一度破った約束だ。二度破ったところで問題はあるまい」
自身の心の声に、糸が切れたように俺の中で何かが終わりを告げる。全身から力が抜け、視線が落ちていく。
そうか、俺はあの時死んだ。俺は、あの子との約束を……破ったんだ。
伸ばした手が力を失い、地面に着く。涙が零れ出し、諦めかけたその瞬間、女の子が『言葉』を呟いた。
「信じること、信じ抜くこと。守ること、守り抜くこと。たとえ、私は死ぬことになったとしても……」
その言葉に、俺の中に一滴の雫が落ちる。黒い霧の塊は、漆黒色の光をさらに増大させ、女の子へと光を向ける。
「あなたのことを、信じています」
女の子が横顔を向け俺に笑い掛ける。その笑顔には涙が溢れていた。
『黄金』の雫は、俺の心を蝕んでいた黒い腕の元へと落ち、その腕を浄化した。それと同時に、俺の世界に光が灯った。光は、俺の心を彩っていた真っ黒の記憶に、黄金の光を当てた。そこには、先程黄金の光の中に僅かに見えていた人たちが描かれていた。
◆
「生きなさい、――――。――――としての務めを果たしなさい。――――はずっとあなたの傍にいる。だから行って。あの子を、――――を助けてあげて」
◆
聞いたことのある懐かしい声。その声を聞き届けた後、俺は……。
「あっ……」
女の子が声を零す。
俺は駆け出し、女の子を庇うように黒い霧の塊の前に立っていた。
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