Episode.3-3
◇デネル洞穴◇
デネル洞穴の中は明かり一つさしていなかった。海水で満たされており、人が出入りすることなど想定されていない。洞穴に入る前に水の国の術士以外まともに入ることはできないと聞いていたが、それはこの洞穴の特徴ゆえだろう。入ってかなりの時間の間、気泡の周囲が海水で満たされていた。
当然だが、俺たちは暗闇の中を灯りもなしに進んでいるわけではない。洞穴に入ると同時にエルザは黒い炎を作り出した。エルザの手の中の炎は一般的に起こされた火ほど明るいわけではなかったが、それでも進む先を照らすには十分な明るさだった。洞穴に入ってから、途中何度も分岐路があった。
結構な時間を歩いた。足場が悪く、歩き辛いことを除けば大きな危険を感じることはなかった。エルザはデネル洞穴へ向かう際、マスカー峠を通るよりも危険だと言っていた。時折無数の蝙蝠が飛び交ってはいるが、今のところ障害になるようなことはない。ただ、ここに入ってからエルザはほとんど口を開いていない。それがここは安全ではないと言っているように見える。
長い時間を歩き続け、水位は足元に届くか届かないかといったところまで下がった。途中歩き続けている内に気付いたことだが、水の出入りがいたるところで発生している。つまりそれは、中立地帯の外周を沿うように海沿いを進んでいるということだ。途中、分岐路で別の道を進めば陸に出られたのかもしれない。しかしわざわざ海水で満たされるこの経路を進んだ理由は、海には海の生き物以外ほとんどが寄り付かないからだ。たとえ凶暴化した動物であっても、特性そのものは変化しないため、(陸の生き物が)洞穴内に訪れることはない。結果的に、陸を目指すよりも外周を進んだ方が早いと判断し、この経路を選んだのだ。
奥から光が射してくる。一瞬、外かと思って期待したが、エルザが俺を制す。そして小さく呟いた。
「この進み具合だと洞穴の外までまだ一日は掛かるわ。だからそろそろ休もうと思っていた。ちょうどこの先の、今光が射してくるあの開けた場所で休もうと思っていたのだけど」
正面を向いたままエルザが続ける。
「ここに来るのはいつ以来か覚えていない。だから魔物の一匹や二匹、住み着いていてもおかしくないと思っていた。でも今あそこにいるのは、場合によってはそれ以上に厄介な相手かもしれない」
エルザが俺に顔を向け呟く。その顔は殺意を含んだものではなかったが、この先にいる何かを懸念している顔だった。
エルザが何を言いたいのかすぐに分かった。仮に大地に穴が開き、空と繋がっているのなら、その場所には弱いながらも光が射し込んできているはずだ。しかし岩壁の向こうから射してくる光は、時折明滅を繰り返し安定しない。空から射し込む光なら常に一定の光量を放つはず。つまり、奥から発せられている光は、人工的に発せられている光ということだ。
「あそこに人がいるのか」
俺の言葉にエルザが頷く。エルザは光が発せられている方へと向き直り口を開いた。
「説明した通り、海岸側からは水の国の術士しか入ることはできない。でも、陸地側からは誰でも入ることはできる。だけどここはまだ海沿いを歩いているのと変わらない。有り得ないとは思うけど、陸地側から入り込んでこんなところで生活している者がいたとしたら、そいつはとんでもなくいかれた奴だわ」
エルザが口許を手で覆う。
エルザはデネル洞穴に人がいることを想定していなかったのだろう。実際この場所に来るまで、人が生活できるような場所はなかった。それだけでなく、ここから出口までおおよそ一日は歩くと言っている。洞穴の中を一日も進んだ場所に住処を置くような、そんな変わり者が果たしているのだろうか。
エルザの元へと歩く。そしてエルザの前に立ち顔を向ける。
「俺が様子を見てくる。エルザはグレイと一緒にここで待機していてくれ」
エルザは口許を覆ったまま黙っている。しばらく考えた後、エルザは手を下げ「お願いするわ」と呟いた。
「もう気付いていると思うけど、今私たちを覆っている気泡を解除すれば、私たちが発した物音も洞穴内に響くことになる。足音の一つでも発すれば向こうにも気付かれ兼ねないわ。だからその前に、二つ忠告をしておく」
「忠告?」
俺の疑問にエルザは目を閉じ答えた。
「まず一つ目、水の国の術士だった場合。その場合は引き返しなさい。今いるこの場所でしばらく休んでいればその内いなくなると思うわ。どういう理由でこんな場所にいるのかは分からないけど」
エルザは小さく溜め息を吐き続きを話す。
「二つ目、水の国の術士じゃなかった場合。この位置からじゃ判断できないけど、発している光が『青』なら、その者は水の国の術士の可能性が高い。それくらいは知っているわよね?」
俺は頷いて答える。
エルザの言う、発している光の『色』とは、騎士や術士を目指す上では一般教養だ。術士が放つ術には、それぞれの国に応じた特徴が存在する。火の国の術士であれば火を、水の国の術士であれば水を、風の国の術士であれば風を、それぞれ操ることができる。だがそれとは別に、術には『色』を含んでいる。火の国の術士であれば赤、水の国の術士であれば青、風の国の術士であれば緑、といった具合だ。だから、この先にいる何者かが発している光の色が青なら、その者は水の国の術士ということになる。
「青なら、その時はさっき言った通り戻って来ることを勧める。だけど、その者の容姿はちゃんと確認してから戻ってきて。青でない場合は、その者は始末した方がいい。こんな場所にいる輩がいるとしたらそいつは碌な奴じゃない。恐らくそいつは……いえ、何でもないわ」
エルザが開きかけた口を閉じる。失言などなさそうなエルザにしては珍しい。意図せず言い掛けてやめるのは、何か思い当たる節があるということなのだろうか。
「ここから引き返して別の経路を進む場合、火の国への最短経路から外れることになる。私は別に構わないけど、坊やはそれでもいいのかしら? きっと、「いい」なんて言わないでしょう? だからそこに人がいた場合、おおよそを把握するだけで十分よ。余程の相手でない限り坊や一人で片が付くでしょうけど。性別、体つき、服装、人数、この辺りが分かれば十分。それが分かったら戻ってきて」
エルザの話を聞き「分かった」と答える。俺の返事を聞き、エルザは手の中で揺らめいている黒い炎を消し、外衣を頭から被った。
「準備はいい?」
エルザの言葉に「あぁ」と小声で答える。俺の返事の後、エルザは俺たちを覆っていた気泡を消し去った。それと同時に洞穴内の肌寒さが一気に感じられる。気が付かなかったが、あの気泡は洞穴内の寒さも緩和してくれていたようだ。しかもその中で火の術(?)を使用していたのだから、(熱が籠って)気泡内が温かかったのは当然だ。何も考えずにここまで付いてきていたが、エルザはそこまで気を遣ってくれていたのかもしれない。目の前の出来事が無事に済んだらお礼を言おうと思う。
俺は視線で、「行ってくる」とエルザに伝え、ゆっくりと先に進む。足元は岩でごつごつしており、音を立てずに進むのに細心の注意を払う。天候が荒れる日には、この辺りまで海水が流れ込んでくるのかもしれない。周囲は湿っており、足を滑らして転ばないか心配になった。奥に進めば進むほどに光が大きくなっていく。そして、光が射し込んでくる岩壁に寄り添い、一度足を止めた。
身を乗り出せば、奥を覗き見ることができる。岩壁に身体を寄り添わせ、そっと奥を覗き見る。そこには想像も出来ぬような光景が広がっていた。
そこには一人の女の子がいた。女の子の手の中で、透水色の光が流水のように渦巻いている。女の子は砂地の上に座り、とても幸せそうな顔で目の前の何かを見詰めていた。
少しだけ身体を前のめりにし、女の子の視線の先を確認する。そこには、大きな亀の姿があった。亀はその場でうずくまり涙を流している。俺は見付からないようにしつつ、しばらく様子を見ることにした。
「がんばって」
女の子が亀に囁きかける。その言葉を聞き、あの大きな亀は卵を産んでいるのだと分かった。頭の中に書物が浮かび上がり、瞬く間に頁が捲られていく。そしてある頁で止まり、そこに書かれている内容が再生された。
海亀はクルーエルア領土内の砂浜でも卵を産む姿が目撃されていた。しかし近年、その数は大幅に減少したとみられている。それは恐らく、凶暴化した動物の影響によるものだろう。書物の記録は数年前を境に途絶えている。今は、本土を離れ、生態の調査に行けるほど世界が安定しているわけじゃない、ということだ。
頭の中で開いていた書物が閉じられ、目の前の光景が再び映る。安定した産卵場所を確保できない海亀は、こんなところで産卵を行っていたようだ。
外の世界はあまりにも危険過ぎるため、本来訪れるはずのない洞穴の奥にある砂浜まで来て卵を産んでいた。どれだけ過酷な状況においても、次の世代に繋ごうと必死に生きる姿を嬉しく思う。それと同時に、そうまでしなければ次の世代に繋ぐことができないという事実を悲しく思う。一体どうして、世界はこんなことになってしまったのだろう。
胸が痛い。必死に生きているものたちの悲痛な姿を見ると心が痛くなる。人だけじゃない、動物たちも同じだ。ここ十数年で世界は大きく変わってしまった。世界が変わってしまったきっかけは必ずどこかにある。それが、かの集団と関係があるのか、かの国と関係があるのかは分からない。だけどその原因を突き止める。そして、この世界を守る。なぜなら俺は……、俺は……。
「……?」
頭の中に何かが浮かび上がりそうになるがその先が出てこない。
なぜなら俺は……なんなんだ……?
自失してしまう。だが、前方から響く叫び声が、俺を正気に戻した。
「え、うそ!? でもだめ。お願い、今はこっちに来ないで!」
前を見ると、洞穴の奥地から巨大な体躯の何かが迫って来ていた。ひれ状の四肢に、大きく発達した二本の牙。(頭の中で凄まじい早さで書物が捲られ、ある頁の動物と形が一致する)しかし、ところどころ筋肉の付き方や形状が異なっている。同種の中でも特に発達の良い個体と言い切れないこともない。だが、目の前の動物は、どうやら一般的な動物ではないようだ。
「僅かながらに黒い光が見える……。だけどその光は小さい」
ひれを持つ動物の動きは、まるで何かに助けを求めているようだった。何かに縋りたくてこの場に出てきた、俺にはそう見えた。しかし女の子の目には、海亀を襲いに出てきた凶獣、そう見えたのだろう。手の中の光を前方に翳し、来ないでと必死に叫んでいる。
剣に手を掛ける。しかし、引き抜く直前、後ろから声を掛けられた。
「あの少女なら放っておいても大丈夫よ」
声を掛けてきたのはエルザだった。後ろにはグレイもいる。グレイからは、マスカー峠の時程ではなかったが、どこか威嚇のようなものを感じた。
「何故、放っておいても大丈夫なんだ?」
俺が尋ねると、エルザは「あの少女は……」と口にする。そこで再び女の子の悲鳴が聞こえた。ひれを持つ動物が巨体を揺らし女の子へと迫っていた。俺は剣を抜き、駆けだした。
「ちょっと」
一瞬だけエルザの声が聞こえた。その声は、焦って引き止めようというわけではなく、努めて冷静な声だった。
女の子がひれを持つ動物へと手の平を向ける。手の中の光が青く大きく輝いていく。だがその光は、大きく爆ぜようとする瞬間に止まり、小さくなった。
女の子が目を閉じる。俺はその子の傍を駆け抜け、ひれを持つ動物へと切り込んだ。
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