Episode.2-7

    ◇


 鳥の鳴き声が空を通過していった。その声に触発され空を見上げる。高く聳え立つ木々の合間より覗き込む蒼色そうしょくの空が、何故か涙色に見えた。


「どうしたの?」


 立ち止まる俺に、――に腰掛けるエルザが声を掛ける。


「空が、泣いている」


 俺がそう返すとエルザも空を見る。しかしエルザは「昨日と同じじゃないかしら」と俺に返した。


 気のせいじゃない。今、ティアナ姫が泣いている姿が見えた。信じて待ってくれていることはわかっている。だけど、不安というものは時間と共に増していくもの。一日でも早くティアナ姫の元へ戻らなくては。


 俺が空を見ているとエルザが近くに寄ってくる。いや、そうではない。今の言い方だと語弊がある。エルザ自身は寄っては来ていない。エルザが腰掛ける四足で歩く獣、――が俺へと近寄り、俺を心配そうに見上げている。


 ――の頭を撫でる。――は、俺に撫でられ鼻を鳴らしていた。


「ふうん。あんな風に言ってた割には意外と面倒見がいいのね」


 ――に腰掛けたまま、エルザが楽しくなさそうな視線で俺を見る。


 朝の出来事まで遡るのだが、あの後とてもからい出来事があった。


    ◇朝◇


「名前を付けてやれ?」


 エルザから言われた言葉に俺は愕然とした。


「そうよ。これから一緒に旅をする間柄なのよ。あなたの事情は分かったけど、この子まで名前がないわけにはいかないでしょ。保護者として立派な名前を付けてあげなさい」


 獣を見る。獣は真っ直ぐに俺を見ている。エルザの言葉の後だからだろうか、どこか期待の篭った視線で俺を見ているように感じた。


「待て。どうして俺が保護者なんだ。確かにエルザの言う通り自分勝手だったことは認める。だが、保護者になったつもりはない」


 エルザは俺の言葉に眉をひそめ、小さく溜め息を吐く。


「舌の根も乾かぬうちに言い訳をするなんて、あなた男なの? もう少し度胸とか甲斐性とか、そういうものを持っていないわけ?」


『甲斐性』という言葉が心に深々と突き刺さる。この数日で、それぞれ別の女性三人から「甲斐性なし」と三回言われた。養うという意味ならば、確かに今の俺にそういう持ち合わせはない。しかし、甲斐性というのは、何も金銭に限った話だけではないはずだ。そうだ、思い出せ。最初に言われた時はどういう状況だった。


    ◆


「手が寂しいなぁ」


    ◆


 目の座ったティアナ姫の顔が思い出される。そののち、俺はティアナ姫の手を取らせてもらった。そして露台バルコニーの角へ行き手を放そうとした際、「甲斐性なし」と言われた。


 ……二人目を思い出してみよう。そう、あれはリリィが酔って俺の部屋に来た翌朝のことだった。勘違いしたリリィが、「今生も来世も何度生まれ変わっても、一生養ってもらうんだから!」と言った。


 今も変わらないが、俺は王国騎士に就任したばかりで、王族の方を養う自信なんてなかった。それだけが理由ではないが、咄嗟に口が滑って余計な反論をしてしまった。


    ◆


「待て! 落ち着け! 全部誤解だ! そもそも来世どころか今生すら責任を取れる自信がない」


    ◆


 その後、俺の言葉に呆れた(?)リリィが「甲斐性なし!」と口にした。


 ……そして今に至る。


 顔を上げると、俺はいつの間にかエルザを見上げる位置にいた。エルザが俺を馬鹿にしたような視線で見降ろしている。俺は気付かないうちに膝を突き、地に両手を突いていた。獣が俺に顔を寄せてきてくれる。それだけが、今この場で俺を慰めてくれる唯一の味方だった。

 どれだけ鈍感な奴でも、この短期間で三度も同じ言葉を言われれば認めないわけにはいかない。しかもそれが生活を基盤とした経済面ではなく、頼り甲斐と言った、『男気』を否定されたわけなのだから。


「あのさ。冗談で言ったつもりはないけど、今からでも冗談てことにしてあげるから、そんなに落ち込まないでくれるかしら」


 甲斐性なしと言われた相手に逆に気を遣われるとは……。暫く立ち直れそうにない……。


 落ち込む俺に対し、獣が顔を寄せ目を覗き込んでくる。先程見たエルザの(馬鹿にしたような)視線とは違い、俺を心配してくれているようにも見える。もしこの目が俺を馬鹿にしたものだったのなら、今日一日俺は泣いて過ごすかもしれない。


「それで、落ち込んでる間にこの子の名前は考えてあげた?」


 容赦ないエルザの言葉が俺を襲う。この場に一緒にいて、同じ時間、同じ会話を共有しているはずなのに、俺に考える余裕がなかったことくらい見ればわかるはずだ。それとも、それすら乗り越えてこその甲斐性なのか? いや待て。ここで熱くなってはだめだ。エルザの言うあれだけはどうしても許容できない。俺自身にそれがないからじゃない。


「保護者としての責任は……分かった。だけど、名前を決めるのは勘弁してくれ」


 辛うじて絞り出した俺の言葉に、エルザが怪訝そうな顔をする。


「立派な名前を付けてあげなさいとは言ったけど、そんな大層な名前を付けろなんて言うつもりはないわよ。あなたがそれでいいと思うならそれでいい。私はその名前でこの子のことを呼ぶから」


 口端をあげたままではあるがエルザが俺に笑い掛ける。


 違う、そうじゃないんだ……。馬鹿にされるよりはマシだが、その優しさが今は辛い。


「本当に、俺が決めた名前なら何でもいいんだな?」


「なにその前置き。そんな変な名前をつけようっていうの?」


 エルザは馬鹿にしているわけではない。どちらかというと、俺がなんて言おうとしているのか想像もつかないため、楽しみにしているように見える。


 一瞬悩んだが、俺はエルザの言葉を信じ、思い付いた名前を口にした。




「却下よ」


 俺の信じた気持ちは刹那を待たずに裏切られた。


「お前、俺が付ける名前ならなんだっていいって言ったじゃないか!」


 さすがに頭に来てしまった。いや、こうなることが分かっていたから言いたくなかったんだ。意味は異なるが、結果として俺の信じた気持ちは強く肯定された。無論、反対されるという意味でだ。


「どこの世界に自分の名前を番号ナンバーで呼ばれて喜ぶ奴がいるんだ! ちょっとは真面目に考えろ!」


 エルザが怒鳴り返す。俺は、それでも言い返したい気持ちが心の底にはあったが、強く押し殺し、できる限り声を抑えエルザに答えた。


「だから言ったんだよ。名前を決めるのは勘弁してくれって。今のだって適当に聞こえるかもしれないけど、どうしてもそういうものしか思い付かないんだ……」


「えっ……? でもだからって、名前に番号ナンバーはないでしょ……」


 分かってくれたのか、エルザも目を逸らしどう答えればいいのか困っていた。


 友人間でも余り知られていないが、俺が抱える悩みの中で他人に理解されないものがある。その一つがこれだ。


『名前を思い付かない』


 誰かや何かに名前を付ける時、俺はその一切が思い付かない。これはいつからかは分からないが、この国に来た時には既にそういう考え方をしていた。自分に名前がないことと関係しているのかは不明だ。この話題だけは、俺自身は不快にはならないが、この話をする相手はきっと不快に感じると思っている。


「まさかそんな訳の分からない病を患っているなんて思いもよらなかったわ。私の方が悪いのかしら。なんだか私もよく分からなくなってきた」


 といった感じになる。だから意地でも誰かの名前だけは考えたくなかった……。


 二人同時に言葉をなくす。すると、俺たちが黙ってしまったことに不安を覚えたのか、獣が俺たちに向け小さく吠える。それに対しエルザは、獣の頭を撫で、優しく語りかけた。


「ごめんなさいね。私もこういうのは初めてだったから少し混乱してて。名前が思い付かないなら、見た目からそういうきっかけを得るのもいいと思うんだけど」


 見た目……?


 その言葉に何かを思い付いた。エルザの撫でる獣の姿は、ところどころ濃い灰色をしていた。


 色……。色……?


 何か記憶の彼方で、本当に小さな扉が、僅かに隙間を開け、少しだけ光を覗かせた。その光はいつものように、すぐさま黒い靄に覆われ見えなくなってしまった。だけど、(たった一瞬だけだったが)その一瞬に何を見たのか、口にするべき言葉が思い浮かんだ。


「……グレイ」


 俺が呟いた言葉に、エルザが驚きの声を漏らす。そしてエルザは小さく笑い、獣を見て口を開いた。


「グレイ……。いい名前じゃない。これから宜しくね、グレイ」


 グレイは、エルザの言葉に応えるように大きく吠える。自分の存在を周囲に知らしめんとばかりに雄叫びを上げる。その雄叫びを聞き、俺は何故か心に小さな穴が空いたように感じた。


 初めてかもしれない。俺が、何かに名前を付けたのは。俺自身に名前がないのが当たり前だったから、名前で呼ばれることにどういう意味があるのか、俺にはわからなくなっている。


 俺は、どうして忘れてしまったのだろう。そして、クルーエルアに来てから幾度となく名前を付けて貰える機会があったにも関わらず、どうしてそれを拒み続けているのだろう。

 グレイが叫び続ける横で、俺の中では絶えず、『どうして』という言葉が響いていた。

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