Episode.2-4
◇翌朝◇
「ねえ」
「なんだ」
先導する俺にエルザが後ろから声を掛ける。俺は普段通りの歩調で歩いていたが、やはりそこは男と女で差があるようだ。歩くのが早いと文句を言いたいのだろう。……なんて言葉で誤魔化すつもりはない。
俺が普段通りの歩調で歩いているのは確かだ。それに対してエルザが極端に遅いのには理由がある。エルザは時折後ろを振り返り、俺たちの後ろに付いて来る四足のそれに合わせるように歩いていた。
「どうするのよ、この子」
エルザの言う『この子』とは、昨夜俺たちを襲った獣のことだ。
◇前夜◇
「大丈夫? もし動けるならこの場を離れましょう。ここはきっと危険になる。だから早く離れた方がいいわ」
エルザが意味深長な発言をする。しかしそれを聞き返すだけの余力が俺にはなかった。ただ、目の前に倒れる獣のことだけは気掛かりで、俺は無理を言ってエルザに頼んだ。
「あれが目を覚ますまでとは言わない。せめて身体を動かすだけでもいい。それを見届けるまでここから見守らせてくれないか」
俺の提案に、エルザは俺の状態を確かめた上で小さく溜め息を吐く。その上で「仕方ないわね」と口にし、俺を樹木の前まで連れて行きゆっくりと座らせる。そして自身も横に腰掛けた。
「膝は貸せないけど肩くらいなら貸してあげるわよ。少し寝なさい。あれに動きがあったらすぐに起こしてあげるから。それと、坊やが起きたらここを離れるわよ。たとえあれに動く気配がなくても」
エルザが俺の頭に触れ、自身の肩にもたれ掛からせる。俺は少し安心したのか、どこか気が抜けていくように意識が落ちてきた。
「これはさっき殺されそうになった時に助けてくれたお礼よ。まさか今の自分がここまで無力だなんて思わなかった。坊やが助けてくれなかったら、私は死んでいたかもしれない」
閉じていく瞼を無理やり上げ、エルザへと視線を向ける。顔の半分を髪で隠しているものの、やはり俺の知っている大切な人によく似ていた。
「安心して休みなさい。起きる頃にはきっと体力も戻っているはずだから。目を覚ましたら一度ここから離れてお互いの目的を話し合いましょう。もしかしたら、私たちの利害は一致している可能性が高いから」
エルザの言葉はその後も続いていたようだが俺には聞き取れなかった。そして俺は静かに、微睡へと落ちていった。
◇???◇
何も見えなかった。何もわからなかった。だけど、体が動く感覚はあった。体だけが勝手に動いている。それはまるで凶暴化した動物たちと同じように、俺の身体は己の意志とは無関係に暴れまわっていた。
暴れていたようだが、どうしてそんなことをしているのかまではわからなかった。だけど、俺が暴れまわる度に悦びの声を上げる者が近くにいた。その声はいつまでも響き、聞こえる音をそれ一色に染めた。どういう意図があったのかは分からない。しかし聞こえてくる声は本当に悦びに溢れていた。
長い間、俺はその声だけを耳にしていた。その声が聞こえるだけで、俺はまだ生きているんだと実感を持てた。しかしある時、俺は自分が何者であるのかも思い出せなくなっていた。目は見えず、体の感覚すらない。そしてその時から、俺の耳にその声は聞こえなくなっていた。
意識が戻り、体の感覚が戻りつつある頃、泣き声が聞こえた。その声は寂しげに呟きこう言った。
「人は、人の世で生きなさい。あなたの強い心なら、きっと記憶なんてなくても生きていけるから」
そう言い残し、ずっと聞こえていたのに、暫く聞くことができなかった声が遠ざかっていく。目が霞んでその姿を追えない。だけど何故か、去り行くその後ろ姿が、どこかで出会った女の子に被った。
太陽のように眩しい笑顔をした女の子。それに対し、半月のように顔の半分を隠し、俯き心を閉ざした女の子。その二人が、俺の前に立っていた。
太陽のように眩しい笑顔をした女の子は、「約束だよ」と言い残し消えていく。半月のように顔の半分を隠した女の子は、悲しみに耐えるように、女の子の奥に広がる黒い世界へと歩を進めていく。俺はその後ろ姿を見て感じ取った。
この女の子は、本当はさっきの女の子のように、太陽の光射す世界へ自分も行きたいんだ。だけど、黒い世界こそが女の子が生きてきた世界。だからそこへ戻ろうとしている。
その時、俺はそう感じ取った。だから俺は女の子へと呟いた。体は動かなかったから声を届けるくらいしかできなかった。
「僕が、きみを守る。だから、泣かないで」
それくらいしか届けられなかった。僕はその時、自分がどういう状態にあるのか知らなかったから。
僕の声を聞いた女の子は足を止め振り返る。女の子は涙を流し、僕へと笑い……そこで、その子の顔は見えなくなった。だけど、その後すぐに、僕へと語りかける声が聞こえてきた。
「私を守ろうなんて『500』年早いわ。でも期待しないで待っていてあげるわ、坊や」
◇
急に何かに突き動かされるように目を覚ます。またいつものようにとても大切な夢を見ていた気がした。しかし、それもまたいつものように、思い出そうとしても掌から零れ落ちる砂のように留めておくことができない。
こういう時、決まって黒い靄が俺の頭の中を巡り、その光景を思い出させまいと覆い隠してきた。しかし今のは何かが異なった。黒い靄そのものが光景を覆い隠しているのは変わらないが、質というか、その感覚そのものに、何故か嫌悪感を感じなかった。
目を開けると景色が傾いていた。斜め下に地面が映り、そこに獣が倒れている。俺はそこで、自分が何かにもたれ掛かっていることに気付いた。俺の顔のすぐ傍から小さな寝息が聞こえてくる。その寝息を聞き、自身の状況に気が付き、俺は眠る前に起きた出来事を思い出した。
「安心して休めとか言っておきながら無責任な女だな」
苦笑しつつ、文句が零れてしまう。だけどその文句にすらエルザは目を覚まさない。殊の外深く眠っているようだ。
「ここは危険になるから早く離れた方がいい」と言っていたが、自分が眠ってしまうようでは説得力がない。だけどその言葉は間違っていないように感じる。力には力が吸い寄せられるように、凶暴化した獣に触発され、別の何かがこの場に吸い寄せられてきてもおかしくはない。凶暴化した動物に限らず、動物が襲い掛かってきても危険だったことは確かだろう。
エルザの肩にもたれ掛かっていた自身の頭を上げる。エルザは樹木の幹に体を預け小さな寝息を立てている。俺が頭を離し、エルザを直視しても目を覚ましそうにない。そういえば、眠る前に覚えた全身の気怠さが一切感じられない。更に言えば、凶暴化した獣と戦った際に怪我をした部位の痛みも引いている。
◆
「安心して休みなさい。起きる頃にはきっと体力も戻っているはずだから」
◆
エルザの言葉を思い出す。
エルザの言う通り、今の俺は(凶暴化した獣との)戦いの前と大差ないほどに体力が戻っている。それにこの感じだと体力だけじゃない。擦り傷といった軽傷も身体からなくなっている。
再びエルザに視線を向ける。
まだ会って僅かしか経っていないが、エルザの言動や行動には不可思議な点が多い。凶暴化した獣を見た時に口にした『魔物』という言葉。そしてエルザが名乗った後、俺が自分の名前がないことを告げると、
「じゃあこのまま坊やで良いわよね」
と、名前がない理由を尋ねもせず受け入れた。
当たり前だが、『名前がない』と『名乗らない』では大きく意味合いが異なる。名前がないと告げても、殆どの者はその理由を尋ねるか、この男は名乗る気がないと判断するだろう。俺が逆の立場でもそう思う。だけどエルザはそうじゃなかった。俺の言葉を聞いた上で即座に先程の言葉を返した。
エルザは普通とは異なる。
その疑問を確信に変えるだけの出来事が出会った最初にあった。エルザの発した黒い炎。これこそが、エルザを術士と仮定しても、一般のそれとは異なると語っていた。俺も黄金の光を発したり、仲間の剣を振るえたりと普通とは異なるのかもしれない。だけど、聞き知らぬ単語を発したり、そもそもこんな林道に女が一人でいる時点で、俺と同様エルザも普通ではない。
◆
「一度ここから離れてお互いの目的を話し合いましょう。もしかすれば、私たちの利害は一致している可能性が高いから」
◆
利害が一致している。言い換えれば、俺がここにいる理由を知っていなければその言葉は出てこない。
俺の荷に手を出した形跡はない。そもそもこの言葉を口にしたときはまだ無防備を曝していない。後手に回るのは本意ではないが、エルザの目的が分からない以上、後手に回らざるを得ない。もし、俺の目的を知っていて、最初襲ってきた時のように戦うことになれば、その時はどうなるのだろうか。
エルザの眠る顔を見る。ずっと眺めていると、その顔に触れたいと思わされるほどに、ティアナ姫と瓜二つだった。
それから周囲の気配に気を配りつつ、エルザが目を覚ますのを待った。エルザは暫く眠っていたが、やむを得ず起こさなくてはならなくなった。それは、目の前に倒れる獣に動きがあったからだ。
エルザの肩を手で二度三度叩く。エルザは艶やかな声を小さく漏らした後、目を開け、俺の顔を認めると口を開いた。
「ごめんなさい。安心して休みなさいとか言っておきながら自分が寝ちゃうなんて。それで動きはあった?」
俺が視線で返すとエルザも正面を向く。獣はゆっくりと四足で立ち上がり、まるで濡れた全身の水気を飛ばすように体を震わせた。
俺とエルザは立ち上がり、互いに視線を交わし警戒する。見る限りでは、気配もそうだが、所作が動物のそれにしか感じられない。何の確証もなかったが、あの時と同様、凶暴化した動物を元に戻すことができたと感じた。
獣は全身を震わせた後、顔を空へと向け鼻を細かく震わせる。匂いを感じ取っているのだろうか。獣は(匂いを感じ取ったのか)、俺たちに気付きこちらへ向き直った。
エルザが手を前面に翳そうとする。しかしそこで俺は一歩前に立ちエルザを腕で制した。
「俺の我儘でここに残ってもらっているんだ。ここは俺がやる。万が一の時の覚悟はできている」
そう告げるが、エルザは不機嫌そうな顔をする。そして俺の言葉に即座に返した。
「別にそんな風に思ったことはないわよ。それにいつもいつも守ってくれなんて言うつもりはないから安心して。元々私は戦っている方が好きだから」
エルザが俺の腕を下ろし俺の隣に立つ。獣が一歩一歩足を進め俺たちへ近付いてくる。
元に戻すことはできても、人と動物とはこうなる定めなのか。
心の中で獣へ詫びつつ剣を構える。
こうなってしまうのなら、いっそあの時、命を奪ってやった方が苦しませずにすんだのではないだろうか。
獣はゆっくりと近付いてくる。その瞳は真っ直ぐに俺へと向けられている。まだ間合いの外。あと一歩踏み込んでくれば一足飛びで切り込める範囲だ。しかし、獣はそこで立ち止まった。その場で俺に向かって吠える。だがその吠え方が、あの草原で見た同種の吠え方と異なっていた。
決して静かではないが、夜の闇に響いていくような吠え方でもない。明らかに眼前の対象を呼んでいる。俺は何が起こっているのか分からなかった。しかし、エルザは獣の意図を感じ取ったのか、くすくすと笑いだした。そして小馬鹿にしたような表情を浮かべ、俺を見て呟いた。
「良かったじゃない。あの子、坊やに救われたと思っているみたいよ」
獣の吠え方が次第に変わり、甘えるような呼び鳴き(?)へと変わる。俺は今、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
エルザと目の前の獣とを交互に見る。そして状況を理解し、俺は驚きの声を漏らした。
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