Episode.1-30

「えへへ。ごめんね。急に泣き出しちゃったりして。自分の部屋だったからかな。安心してたところに急にあなたが来たから、つい嬉しくて涙が出ちゃった」


 一緒に腰掛ける長椅子で、ティアナ姫が俺を見上げ照れながら答える。


「こちらこそ、確認もしないでティアナ姫のお部屋を勝手に覗き込んでしまい申し訳ございませんでした」


 リリィにそそのかされたこととはいえ、本当にやってしまった自分を反省する。あの時はどうかしていたのだろうか。まるで心がそれに引き寄せられるように勝手に考えが働いていた。


「そうだよ。女の子の部屋を勝手に覗くなんて悪いことなんだから絶対にやっちゃだめだよ。本当はこういう時、確認も取らずに入ったことをもっと追及しないといけないんだろうけど……。私、あなたに対してそんなことできないよ」


 ティアナ姫がしおれた花のように表情を曇らせる。申し訳ないと心の中で謝罪しながらも、俺の心には別の感情が宿っていた。


 どうしてだろう。ティアナ姫のどんな顔を見ていても心が落ち着く。先程見せた泣き顔。その後に見せた笑顔。今見せた萎れ顔。不謹慎だと分かっていても、ころころと変わるその表情に惹き込まれていく。


「でも急にどうしたの? 私のお世話役や護衛じゃなかったら、たとえ王国騎士でもお父様かお母様の許可がないとここには来られないはずだけど」


 ティアナ姫が俺に尋ねる。俺は正直に答えた。


「リリアナ王妃から許可を頂きました。その上で昼以降はお暇を頂き、ティアナ姫とお話をする時間を作っていただきました」


「……お母様が、あなたが私と話す時間を作ってくれた?」


 ティアナ姫は先程の笑顔から打って変わり、怪訝けげんそうに俺の顔を見詰める。そして僅かな時間ののち、ティアナ姫は俺に尋ねた。


「お父様もお母様も私には凄く甘いの。だから、私が嫌って言うものに関しては基本的に無理強いをしない。だけどその代わり、どうしても私にさせたいことに関しては、間接的に近しい人を通すの。私もそれを分かっているから嫌とは言わないんだけど」


 さすがに親子。しっかりと両親のことを理解している。


「あなたが来てくれてこんなに嬉しいことはないのに、それでもこのあと聞きたくないような嫌な話が待ってるなんて考えると胸が痛くなる。だからお願い。正直に教えて。お母様から何か私に伝えるように言われてここに来たんでしょ?」


「ティアナ姫……」


 視線は逸らしたくないという気持ちがあり、その視線から逃れるように瞼を閉じた。閉じる前まで映っていたティアナ姫の訴えるような視線が焼き付き、瞼を閉じてもその顔が浮かんでくる。


 ティアナ姫の手が俺の手に触れる。瞼を開くと、不安そうに訴えるティアナ姫の顔がそこにあった。


 この顔を悲しみや不安で曇らせたくない。俺の心がそう叫んでいる。だけど、もし俺がこの使命を下りれば、いずれ今以上の悲しみや不安がティアナ姫を襲うことになる。そんな未来の方が、俺は見たくない。


「ティアナ姫。此度は、しばしのお別れを言いに参りました」


 そして俺はティアナ姫に使者の件を伝えた。




「やだ。絶対にやだ」


 駄々っ子のようにティアナ姫が叫ぶ。


「お母様に言ってくる! そんなの絶対に認めない!」


「ティアナ姫!」


 ティアナ姫の細腕をつかみ引き止める。しかしティアナ姫は「はなして!」と言い、俺の手を振り払い部屋の出口へと向かった。


 どうすればいい。どう伝えれば良かった。今のクルーエルアの情勢が良くないことはティアナ姫もご存じのはず。だけどそれを分かっていてもなお、ティアナ姫は俺といたいと言ってくれている。


 嬉しさと歯痒はがゆさが入り混じり、心が痛い。だけど、こうなることは来る前から分かっていた。そしてリリアナ王妃も恐らく、自分ではどうにもならないと分かっていたからこそ、ティアナ姫に伝える役を俺に頼んだのだろう。


 昨夜ゆうべティアナ姫に言われたことを思い出す。こういう状況で使うのは卑怯だと分かっている。だけどこの使者としての役目は、俺自身の願いのために他の誰にも譲ることはできない。


    ◆


「俺たち十二人は三人ずつ、計四組に分けられる」


「俺はお前を指名する」


    ◆


 シグの言葉が頭を過ぎる。


 恐らくシグは使者の件まで知っていた。そしてシグならきっと、もっとも過酷な使命にのぞんだはず。俺も、シグと共にきっとそれに臨んだ。だから、この使者としての役目は、友と交わした約束を守るためにも、誰にも譲ることはできない。


「ティアナ!」


 俺の叫びにティアナが足を止める。ティアナは背中を向けたまま小さく呟いた。


「……ひどいよ。二人きりの時はそう呼んでって言ったけど、今呼び捨てで呼ぶなんて。私、あなたに名前で呼ばれたら、何も考えられなくなっちゃう」


 振り返るティアナは、再び大粒の涙を流していた。俺はゆっくりと歩み寄る。ティアナはその場に立ったまま動かない。俺は、ティアナの肩へと手を置き、真っ直ぐに見詰めた。その瞳が俺に訴えていた。「行かないで」と。


 昨夜ゆうべのように手を繋いでいるだけで伝わる気持ちもある。だけど、気持ちは伝わっても、言葉を欲してしまう時もある。


 それが、今。


 俺の気持ちは伝わっているはず。でも今は、言葉にすることで一しずくの不安でもすくい取ってあげなければならない。


 この、華奢で、可憐な少女の心から。


「信じること、信じ抜くこと。守ること、守り抜くこと。俺の心に残る信念の言葉。記憶をなくした俺が唯一憶えていた、魂の言葉」


「そしてあなたが私に残してくれた、初めての、大切な言葉」


「この言葉をきみが憶えていてくれたから、俺はこうしてもう一度、きみに会うことができたんだ」


 これは嘘ではない。これは願望。だけど、もし……もし事実が異なったら、俺は本当にただの『嘘吐き』になる。『嘘吐き』にはなりたくない。だから……。


 もし俺が本当にティアナを助けた男の子なら、その男の子なら……きっとその言葉を口にしている。なぜなら、これが俺の信念の言葉なら、その時から志は変わっていないはずだからだ。だから俺の記憶よ。一欠片でもいい。言葉も景色も記憶も要らない。一欠片だけ……。その時の感情を思い出させてくれ。


「ティアナ」


 ティアナの名前を呼ぶ。


 その時には俺にもあったのだろうか。俺の、名前。


「ティアナ、きみは『僕』が守る。だからいつか必ず……」


「えっ……?」


 ティアナの双眸が大きく見開かれる。記憶の彼方にぼやける女の子もまた、同じように双眸を見開く。


「もう一度会いに行くよ」


「思い、出したの……? もう一つの約束……。『再会』の、約束……」


 俺は黙って微笑みかける。心が、感情を思い出させてくれた。だけど記憶は、その光景を形にしてはくれない。


 ティアナが俺に抱き着く。その勢いで後ろに倒れたが、ティアナは構わず泣き続けた。泣き続けるティアナの背中をそっと抱き、優しく頭を撫でた。


「ひどい、ひどいよ。そんなこと言われたら私、信じるしかないよ。だってあなたは本当に、本当にまた会いに来てくれた。あの時だって、あの時だってそう。目の前で血塗ちまみれになりながらも私を逃がしてくれた。ちゃんと生きて、会いに来てくれた」


 ティアナの言葉が心に響き胸に痛みが走る。


 なんだ……今の痛みは?


 それからティアナはずっと泣き続けた。長い、長い時間ずっと。




 気付けば、部屋に差し込む光から伸びる影の位置が変わり、随分と時間が経ったことを教えてくれた。長い時間を泣き続けたティアナは、今は俺の胸の中で小さな寝息を立て眠っている。そんな俺とティアナの様子を伺うように、すぐそばから声がした。


「眠った?」


「あぁ」


 その問いに短く答える。話し掛けてきたのはリリィだった。やはりすぐ傍で待機していたようだ。


 俺の腕の中で眠るティアナは、赤子のように俺の服を握り締め、涙を流し、小さな寝息を立てている。起こさないようにゆっくりとティアナを抱え、寝床に寝かす。眠りながらも涙を流すティアナの顔を見て、俺は口を開いた。


「リリィ、頼みがあるんだ」


「……特別に聞いてあげる」


 リリィは俺ではなく、ティアナに視線を固定したまま答える。


「ティアナのこと、頼む」


「……今晩発つ気?」


「このあとすぐに発つ。このままティアナの傍にいると決心が鈍りかねない」


「そう。じゃあ「分かった」とは言わない」


「えっ?」


 リリィは眠るティアナのそばに腰掛け、その顔に触れる。


「ティアナを守るのはあくまで王国騎士であるきみ自身がやりなさい。今この瞬間を以て、私はティアナの護衛を下りる」


「リリィ?」


「護衛役は本来は一人。サイコロンドは特別な事情があって、護衛術士が常に二人付いている。リリアナとティアナは、ジークムントと私がそれぞれ護衛役を受け持っている。これはジークムントの立場から、必ずしも常に護衛役を務められるわけではないから。だから今この瞬間に、ティアナは護衛役を一人失ったことになる。誰かティアナを守る護衛役が必要になった」


 黙って次の言葉を待つ。


「リリアナに今すぐ謁見を申し出て。ティアナの護衛役を公の場で自ら進言しなさい。それに対し、もし許可が下りたなら、その時はきみが戻ってくるまで、友人としてティアナのことを守ってあげる」


「リリィ」


「やだ、やだよ……。せっかく会えたのに。あの時死んだと思って、ずっとあなたの影を追い掛けて……ようやく会えたのに……」


「ティアナ……」


 ティアナの寝言に、リリィは優しく頭を撫で語りかける。


「この十年。ティアナが信じたこと、信じ抜いたことは、決して無駄じゃなかった。だからもう少しだけ信じて待っていよう。あなたのことを守り抜いてくれる人は、今も昔もこの先も、ずっと、あなたのことを助けてくれた、あなたが、初めて好きになった男の子なんだから」

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