Episode.1-20

 露台バルコニーに身を隠すように一人たたずんでいる。広間では壮大な音楽が流れ、出席者たちは食事や酒を楽しみつつ、優雅なひと時を過ごしていた。


「お水をお持ちしました」


 お礼を言って透過器グラスを受け取る。給仕の方はうやうやしく頭を下げ、手本のような美しい姿勢のまま歩き去っていった。手に持った透過器グラスに目を向け呟く。


「いくらするんだろうこれ」


 到底一人では分かりようがない疑問を口にしつつ、少し値踏みしたのちに水を口に含む。喉を伝い流れ込む感覚が疲れた体に心地良く響く。それと同時に先程までの疲れが一気に押し寄せた。


 一人になるのも大変だった。あの後、ローシ家以外の方々からも声を掛けられた。疑いを持ったことを謝罪されたり、王国騎士となったご子息の思い出話を聞かせてもらったり、自分とも一度剣を交えてほしいと頼まれたり、色々な話をした。出席者たちと話をする役は、本来であれば十二人で請け負うはずなのだから、それを俺一人で賄うわけだから大変なのは当然かもしれない。中でも心を打たれたのはライオデールの母君の話だ。父君が亡くなった後、ライオデールは憑りつかれたように脅威的な強さを身に付けた。しかしその強さ故の危うさを母君は気に掛けていたようだ。だがある日、


「母上、俺負けちゃった。いつも話してた名前のないあいつに。でも不思議なんだ。ここ最近、ずっと夢の中でも一度も笑ってくれなかった父上が、あいつに負けた瞬間、俺の頭を撫でて笑ってくれた気がしたんだ。父上と母上と三人で劇場から帰った、あの日のように」


 と帰って来るなり話したそうだ。


 俺に負けたということは、俺の王国騎士入りが懸かった決闘の儀の時の話だろう。あの時のライオデールは、それまで抑えていた全ての感情を爆発させ俺にぶつけてきた。それに応えようと、俺も必死に戦った。結果、俺が勝った。戦い終わった後の俺たちの姿は無様なものだったが、戦いが終わり、ライオデールはいつもの笑顔に戻りこう言った。


「騎士校に入って最初にできた友達がお前で、本当に良かった」


 だからこそ、ライオデールの母君は、俺がライオデールを殺したという噂を最初から信じていなかった。そして今日俺を見て、ライオデールは生きていると確信を持ったという。「あの子は良い友人を持ちましたね」と涙ぐみながら俺に話してくれた。


 他にも印象的な話がたくさんあり、俺も涙しそうになる場面が多々あった。しかしそれらが一段落して、一人になってからが大変だった。「ごきげんよう」の挨拶と共に、婦人から少女まで、様々な年齢の女性たちから次々に声を掛けられた。最初はわけが分からなかったが、傍で見ていた男性が、「祝宴の儀は結婚相手を見付ける場でもある」と教えてくれた。


 そうこうしている内に、十数人程の女性の話し相手をすることになった。就任した王国騎士が全員で十二人なわけだから、頭数はおおよそ釣り合いが取れている。本来ならこの場で結婚相手を決めるのも当たり前なのかもしれない。しかし今この場にいるのは俺一人だ。


 一人も選ばないのは女性たちに失礼にあたる。かといってろくに考えもなく選ぶのもどうかと思うし、選んでしまえばこの場で婚約を宣言したことになる。どうしたものかと思案するが、その間も彼女たちからの結婚の申し出は一向に途切れそうにない。少し離れたところからは大人しそうな子もこっちを見ている。そして気のせいか、心の中からも妙に声を感じた。


「妹に手を出すな!」であったり、「姉さんがいつもと性格違う……」であったり。外からも内からも声が聞こえ、もう訳が分からない。その上、先程の男性が面白がって、「いっそ全員を娶ればいいではないか」と止めの一言を放ち、俺は死んだ……気分になった。


 その、意識は朦朧もうろうとしていたが、余計なことも口走らずなんとか一人になることができた。気付かれないよう露台バルコニーに逃亡し、広間からは見えない位置へと避難。そして近くを通りかかった給仕の方を呼び止め、「ここにいることを誰にも悟られないようにしつつ、水を一杯持って来てほしい」と告げ、今に至る。


 少しだけ騎士長をうらめしく思った。どういう事情があったのかは分からないが、『正装』という情報しか伝えてくれなかったことはさすがに不親切だと言ってやりたい。いや、騎士長であれば俺と同じ立場だったとしてもこういうことも想定して動き、令嬢全員に等しく対応してみせるのかもしれない。仮にそんなことをされた日には、俺は男として自信を無くす。心の中で誰かが腹を抱えて笑った気がしたが、これは間違いなくシグだと確信した。


「楽しかった? 女の子にちやほやされるのは」


 透過器グラスを落としそうになるがなんとか持ちこたえる。背筋が凍るような視線を感じ、振り返ると、そこにはティアナ姫が立っていた。しかし、いつもと雰囲気が違う。


「お隣、よろしくて?」


 顔は笑顔だが目が据わっている。いつもの優しい笑顔は感じられない。俺はおずおずと恐縮しながら「どうぞ……」と答えたものの、ティアナ姫はその場から動かない。ティアナ姫は、「手が寂しいなぁ」と呟く。俺は跪きティアナ姫のお手を取らせて頂いた。それから僅か二、三歩程に過ぎないが、露台バルコニーの角へ行き手を放そうとする。しかしティアナ姫が俺の手を強く握りしめたまま不満そうにこちらを見詰め、「甲斐性なし」と呟いた。


 広間に流れる音楽が変わり、新たに優しい曲を奏でる。そろそろ祝宴の儀もお開きといったところだろうか。出席者の方々に身の潔白を証明できたことには達成感もあったが、予期せぬ結果として、今後ご令嬢方とすれ違ったとき、どんな顔をすれば良いのか分からないという新たな悩みを抱えることになった。


 手が強く締め付けられる。決して痛くはないが、目の前には不満そうに唇を尖らせるティアナ姫の姿があった。


「違う女の子のこと考えてたでしょ」


「えっ?」


 意味合いは異なるが、女の子のことを考えていたのは事実だ。「そうです」とも「違います」とも言えず黙っていると、ティアナ姫はほほを膨らませ横を向いてしまった。


「女は勘が鋭いの。特に男の子が女の子のことを考えているときにはね。今日もいっぱいいっぱい心配したのに……もう知らない!」


 機嫌を損ねてしまった。手は繋いだままだが。


 広間から聞こえる曲がゆるやかなものとなり、心が穏やかになっていく。つい先程までの貴族の方々と軋轢があったことなど忘れ、今目の前にいるティアナ姫のことしか考えられなくなる。


 拗ねたように頬を膨らませているものの、美しく整った顔立ち、流れるように透き通る髪の毛、長く整った睫毛まつげ、同年代の少女たちと比較するなんておこがましいと思われる美しさと可憐さを兼ね備えている。王女としての気品さも当然兼ね備えているが、公務以外では気取らない謙虚さ、相手の心に寄り添える優しさも持ち合わせている。


 騎士就任の儀で初めてお会いして、今日に至るまで何度も話をする機会があった。その度表情豊かに接してくださるお姿は、いつの間にか王女としてのそれとは少し異なっているように感じた。初めてお会いしてとは言ったものの、まるでティアナ姫は俺のことを知っているように振舞ってくる。それも、ずっと昔から知っているかのように。


 露台バルコニーには誰の姿もない。今この場にいるのは俺とティアナ姫だけだ。


 聞きたい。騎士就任の儀で俺の言葉を聞き、涙を流した理由を。

 知りたい。初めて触れたはずなのに、まるで昔から知っているような、この懐かしさの正体を。


 ティアナ姫の手を握る自身の手に、自然と力が入る。俺の意を察してくれたのか、ティアナ姫はこちらを見上げ、真っ直ぐに俺の目を覗き込んだ。


 ティアナ姫に、お伺いしたいことがあります。


 そう申し上げたかった。だけど、俺を見るティアナ姫の目を覗き込んでいる内に、その言葉は俺の中で消えていった。


 寂しく揺れる瞳が訴えている。言葉にはしなくても伝わってくる。先程の言葉を口にしていたら、この綺麗な顔を曇らせてしまっていたかもしれない。


 自分の過去を知っているかもしれない人物が目の前にいる。今すぐ聞いてみたいとも思う。だけど、今の俺は王国騎士。この方を、この華奢きゃしゃ可憐かれんな女の子の笑顔を守ることが、俺の使命。


 過去を知るのはいずれでいい。

 俺は、現代いまを生きているんだ。


 もう少しだけ強くティアナ姫の手を握る。寂しそうに揺れていたティアナ姫の瞳に小さく光が宿り、いつもの優しい笑顔が戻る。俺とティアナ姫は、そのまま何も語らず見つめ合っていた。




 暫くして広間からの音楽が止み、改めて壮大な演奏が始まる。先程の曲で終わりだと思っていただけに驚いてしまう。俺の驚きを余所に、ティアナ姫が急に俺の手を引く。意味が分からずに戸惑っていると、ティアナ姫が満面の笑みで口を開いた。


「踊ろう!」


 ティアナ姫が俺の手を引き、俺たちは広間へと戻る。いつの間にか長卓テーブルは片付けられていた。


 ティアナ姫は俺の手を引いたまま、踊る貴族の方々の輪の中へと入っていく。俺たちの姿を認めた令嬢の方々が、「あーー姫様ずるいーー」と声を上げている。ティアナ姫はぺろりと舌を出し、満足そうに笑った。


 のちに聞いた話によると、最後の演奏に入ってから最初に手を繋いだ男女が踊る決まりがあったようだ。


 手を握り直し、ティアナ姫の腰に手を掛ける。今更ながらに騎士校でのあの舞踏会の練習も無駄ではなかったんだと思い知らされた。「女を満足させるのも騎士の役目だ」とシグに言われて習わされたが、こんなところで役に立つなんて思いも寄らなかった。


 演奏に合わせて足を動かしティアナ姫の手を引く。ティアナ姫は驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻り口を開いた。


「踊るの上手なんだね」


「どうして上手いのか説明できないんだけど、不思議と誰かと手を取り合ってすることは得意なんだ」


 俺の言葉を聞き、ティアナ姫は驚きの表情に変わる。その後、俺に任せるように体を預け、下を向き、瞳を閉じ、俺だけに聞こえる小さな声で呟いた。


「あの時も、あなたが私の手を引いてくれたんだよ」


 その言葉と、その時流したティアナ姫の涙は一体どういう意味だったのか、この時俺は聞くことができなかった。


    ◇

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