Episode.1

Episode.1-1

    ◇500年前◇


 滅びのときは去った。世界に数多の傷痕きずあとを残し、多くの命と想いを犠牲にして。しかし災厄が去ろうとも世界が元の形に戻るわけではない。零れ落ちた水が再び手元に戻らぬように、一度失われたものは二度と元の形へ戻ることはない。


 災厄が去った後も、世界は災厄が存在していた黒煙こくえん渦巻うずまく黒の世界から戻れずにいた。滅びが去ろうとも、世界には太陽の光射す元の世界へ戻るだけの機能が残されていなかった。生き残った人も動物も植物も、寒さに震え死に怯えた。希望を、光を求め続けた。災厄が去ってなお、あらゆる生命の心には災厄が残り続けたのだ。


「どうしても行ってしまうのか」


 女の背中に男は語りかける。男の腕には、まだ産まれてそれほど経っていないであろう赤子が抱えられている。女の前には無残にもえぐり削られた大地が広がり、男の背後には無残にも薙ぎ倒された木々が広がっていた。


「災厄が去った後も空は黒煙に覆われたまま。誰かがやらなければならない。それは私の役目。一族の長であった、お父様の娘である私の」


 憂いを帯びた瞳はどことも言えない地平の彼方を見詰めている。潤んだ瞳は、女の不安や心残りを感じさせた。


「きみが、きみが行かなくてもいいじゃないか。――――の生き残りはきみ以外にも必ずいる。役目などというものは彼らに任せればいい。だからきみは、私とこの子と一緒に……」


 男は肩を震わせ、顔を伏せる。女に自身の顔を見られたくないがために。しかし伏せた視線の先、赤子の瞳には男の顔が映っていた。かつて自身が持ち得た威光など微塵も感じさせない。目の前の赤子よりも幼い、母親を呼ぶ幼児のように、男はただただ女を引き止めた。そんな男に、女は振り返り、小さく笑顔を作り答えた。


「ありがとう、――――。あなたの口からそんな言葉を貰えるなんて、素直に嬉しいわ。でもこれから先、その愛情はこの子に注いであげて」


 手を伸ばし、男の腕から赤子を受け取り抱きしめる。もう僅かな時間も一緒に居られないであろうことを理解し、改めて我が子への愛情を抱きしめて伝える。


「世界に光を取り戻す役目は私でなければならない。ううん、きっと私にしかできない。お父様の娘であり、あなたの妻であり、英雄となった兄の妹である、私でなければ」


 男は奥歯を噛み締め何も言わず黙っている。


「そして世界がこんなことになってしまった災厄という全ての元凶。その全てのとがを、私がになう」


 女の言葉に、居たたまれなくなった男は、女の肩を掴み叫ぶ。


「きみは、きみは関係ないだろう。元はといえばあれはヒトの……私の責任だ」


 男の叫びに赤子が驚き泣き出す。そんな赤子を女は優しく抱きしめ、笑顔でなだめた。


「――――、自分を責めないで。あなたのせいじゃないわ。勿論、ヒトのせいでもない。でももしいつか、この咎を誰かが受けなければならないときが訪れたとして、この子や未来に生まれてくる子供たちということだけは、絶対にあってはならない」


 笑顔は崩れ女は寂しそうに、泣きじゃくる我が子をなだめ抱きしめる。男は何も口にすることができず下を向いている。


「それにあなたには役目がある。災厄という存在は去っても災厄の脅威は去っていない。いつまたこんなことが起こるか分からない。これを監視し続けることがあなたの役目」


 男は拳を握り肩を震わせている。何も言い返さないのは、自分には何もできないと分かっているから。


「ありがとう。私あなたと出会えて良かったわ。あなたに出会って、この子を授かって、無事に産めて、私は幸せだった。……でも」


 赤子は泣き止み、その小さな手を精一杯母親へと伸ばす。女はその手を優しく握り我が子に微笑む。


「でも心残りができた。あなたの成長を傍にいて見てあげられない。こんなお母さんでごめんね……ごめんね……」


 女は涙を流し我が子を抱きしめる。

 男もまた涙を流し女を抱きしめる。




「この子のことお願いね」


「……分かった」


 男は我が子を受け取り抱きしめる。女は、男に抱きしめられる我が子に顔を寄せ小さく呟く。


「ちゃんとお父さんに、――――を祝ってもらうんだぞ。お母さんとの約束だからね」


 優しく微笑む母親の顔に赤子は嬉しそうに喜びの声を上げる。


「本当にそれでいいんだな?」


「うん、これでも一生懸命考えたんだから。あなたとこの子のことを想って」


 自信満々に得意顔を作って女は答える。こんな状況でなければ男はその態度に皮肉の一つでも答えたのだろう。しかしこの顔を見られるのも最後だと思うと、皮肉どころではなく、労いの言葉を口にするだけで精一杯だった。


「分かった。本来性分ではないが、その約束だけは必ず守ると、きみとこの子に誓う」


「……ありがとう」


 女はそれ以上のことは言わず、えぐられた大地へと向き直る。そして祈るようにその手を天へと伸ばす。女の手から光が溢れ、その光は一筋の柱となり天へと上っていった。


 男は我が子を抱えその光景を黙って見守った。赤子もまた目を真ん丸に見開き、光に包まれる母親を真っ直ぐに見詰めた。


 女は振り返り、何よりも大切な男と、誰よりも愛しい我が子へ、優しく微笑む。


「もし、生まれ変わりというものがあるのなら、平和な時代に、愛する人と一緒に……ずっと……」


「――――!」


 男は女の名を叫ぶ。女は光の中へ消え、その光と共に天へと消えた。


 光は漆黒の空へと上り、直後、世界各地に光が降り注いだ。


 災厄が現れて以後、天より初めて射す光に、生き残った人々は「奇蹟が起きた」と口を揃えて言ったという。その光は大地に緑を芽吹かせ、清水を生み、死火山に再び火を灯し、雨雲に雷を宿らせ、生きとし生けるもの全ての心に風を吹き込んだ。そして再び空に太陽を輝かせた。


 この後、僅かながらに生き残った人々は祖国へ戻り、国を再建した。


 ヒトは、第二の歴史を歩み始めた。

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