Prologue.3

『信じること 信じ抜くこと 守ること 守り抜くこと』


 これだけが俺の心に響き続いている唯一の言葉。それ以外のことを殆ど覚えていない。自分がどこから来て何をしていたのか、自分の名前すら思い出せない。記憶の彼方に僅かに存在する確かな記憶がある。景色は見えない。だけどその時交わした『約束』だけは覚えている。あの時俺は確かにこう言った。


「きみを守る」



    ◇



「あなたの未来に祝福を」


 ティアナ姫の優しい声と共に、騎士の中の騎士、王国騎士としての証である騎士剣が授けられる。この剣を手にした瞬間から、俺はこの国を守る使命を帯びる。


 思い返せばこの国で過ごしてきてどれだけの月日が経っただろう。俺には記憶がない。唯一記憶に残るあの言葉、あの約束、気が付いた時にはそれ以外何も思い出せなかった。どうやってこの国に来たのかも分からない。どこで生まれ、どこで育ち、何をしていたのかも。だけどそんな俺にも関わらず、この国の人たちは優しく迎え入れてくれた。その想いに応えたい。皆が俺にしてくれたように。今度は、俺が皆を守れるように。


 顔を上げティアナ姫を真っ直ぐに見据える。姫の瞳に俺が映っている。かつて誰かと約束をした時の俺も同じだったのだろうか。決意を胸に、俺はあの言葉を口にした。


「信じること、信じ抜くこと。守ること、守り抜くこと。この言葉を胸に、この国とティアナ姫をお守りします」


 己の信念の言葉を捧げる。俺にとってはこれ以上にない誓い、覚悟。だが俺の誓いを聞き、ティアナ姫は身震いし驚きの声を上げた。


「えっ……?」


 ティアナ姫の瞳孔が大きく見開かれる。それと同時に手にしていた騎士剣が手を離れ、床に落ち鋭い音を上げる。ティアナ姫は大きく見開かれた瞳から大粒の涙を流していた。俺は咄嗟の出来事に声が出せなかった。だけどそれは俺だけではなかった。この場にいる全員、他の騎士だけでなくジークムント騎士長ですら声を掛けようとして躊躇った。姫は口許を抑え、それでも溢れてくる涙を拭おうともしなかった。やがてティアナ姫は、細腕を伸ばし、俺の頬に触れ口を開いた。


「あなたの……あなたのお名前は?」


 小さくか細く、けれどティアナ姫は確かにそう言った。


 名前……。記憶のない俺には意味のないもの。記憶を失う以前は何と呼ばれていたのだろう。だけど、今はそんなことよりも大切なものがある。記憶がなくとも、名前は分からなくとも、俺は今ここにいる。無礼かもしれない。けれど、真実を伝えよう。


 俺は……。


「私の名前は……」


「ありません」、そう申し上げるはずだった。しかし、俺の声を遮るように礼拝堂へと射し込んでいた光は途絶し、灯されていた燭台の火も消え、空間は明かり一つない闇へと姿を変えた。


 視界が徐々に暗闇に染まっていく。この感覚、以前にも味わった。手足から少しずつ力を失い自分がなくなっていく。そうだ、その後俺はどうなった?



    ◇



 視界に温かみのようなものを感じ目が覚める。日の光が射し込み顔を照らす感覚。ゆっくりと瞼を開く。すると目の前には、見たこともない薄緑色の小さな鳥が一羽、俺の上に鎮座していた。その鳥と目が合う。薄緑色の小さな鳥は、首を傾げ、俺の視線を感じると窓の外へと飛び立ってしまった。


「見たことのない鳥だったな」


 身体を起こし窓の外を見やる。遠くへ行ってしまったのか、先程の小鳥の姿は見当たらなかった。


 開け放たれた窓から風が吹き込んでくる。心地良い爽やかな風。窓の外にはいつもと変わらない景色が見える。すっかり見慣れた家々の景色だ。外の景色を眺めていると、誰かが階段を上ってくる音が聞こえてくる。その音は俺の部屋の前で止まり、ゆっくりと扉が開かれた。そこには見慣れた顔があった。


「お、お兄ちゃん!?」


 入ってきたのはエリーだった。エリーは俺を見るなり固まってしまっている。俺はエリーが何に驚いているのか尋ねようとしたが、目は自然とエリーがさっきまで手に持って『いた』ものを追ってしまった。エリーの目許にうっすらと涙が浮かび上がる。手許からは水(?)の入った容器が落下していった。


「馬鹿っ! 手、気を付けっ…!」


 既にどうにもならないとわかっていても叫んでしまう。俺の言葉にエリーは一瞬「えっ?」と口にしたが、視線が下へ向くよりも先に容器は落下し、床一面を水浸しにした。


「ぎゃーーー!! なんでーーーっ!! 嬉しいのに悲しいよぉー! わけわかんないよーーー!!」


 悪い予想は裏切らないのは何故だろう。エリーはその場で立ち尽くし泣き叫んだ。


「やれやれ……」


 俺は立ち上がり、近くに掛けてあった手拭いを取り濡れた床を拭き始めた。


    ◇


「違うもん。私悪くないもん」


 ぶつぶつと文句を言いながら、エリーは黙々と一家族用のパンを抱え頬張っていく。曰く、「食わなきゃやってられない」だそうだ。


「なあエリー。心配してくれていたのは嬉しいが、せめて切り分けて食べたらどうだ?」


 エリーは俺の申し出に僅かに視線をこちらへ向けた。しかし「却下」と言わんばかりに目を伏せ再び頬張り始めた。


 そっぽを向かれてしまった。普段から喜怒哀楽の豊かな妹だから放っておいても問題はないだろうが、俺に落ち度がある以上どうにかできないものかと考えてしまう。何があったのか覚えていないが、俺は三日も目を覚まさなかったらしい。それを聞いたときは驚いたが、エリーが余りにも泣きじゃくったものだからそのことはまだ考えられずにいる。


「ははははは! だから心配要らないって言っただろ。俺の子なんだから簡単にくたばるわけないんだよ、なあ母さん」


 父さんの豪快な笑い声が響く。父さんの大きな声は隣家でも評判で、「アルフレッドさんの笑い声を聞いているだけで私たちも元気になれる」と言われたことがある。


「そうそう。それよりもエリー。私はあんたの方が心配だよ。このままいつまで経ってもお兄ちゃん離れできないんじゃないかと思って」


 母さんがカップに入った茶を一口飲み溜め息を吐く。その目はだらしなくパンを頬張り続ける娘へ向けられているが、見ているのは娘ではなく、娘の将来に対する不安なのかもしれない。


「いーーっだ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだから別にいいんだよー」


 エリーのいつものお兄ちゃん理論。正直俺にはよく分からない。エリーの実兄に当たるカールに対しても似たような理論を口にする辺り、妹にしか分からない何かがあるのだろう。


「さてと、全員ちゃんと朝食は食べたね。そろそろ私はあっちに行くよ」


 母さんが残っていた茶を飲み干し立ち上がる。エリーがパンを独占していたためいつもより食べた量が少なかったなど、間違っても考えたくはない。


 母さんの言う『あっち』とは仕事場のことだ。母さんは仕立屋をやっている。といっても大々的に店を構えているわけではなく、近所の人や下町の仲間から依頼を受けたときだけ請け負う、所謂、半仕事半趣味といったところだ。家計が苦しいとかそういう訳でもない。


 母さんは嫁いでくる前は仕立屋をやっていたこともあり、無理にでもその仕事をしないと悶々とするそうだ。そのせいか家庭内だけでなく隣家の衣服も繕い直してあげていたら、いつの間にか常連ができたらしい。その対価として少量の金銭を頂くようになった。そうはいっても大した額でもなく、急ぐ場合は他を当たってくれと、幾ら積まれても断っている。趣味でやっているとは言うが、請け負う以上は手を抜かない辺り、母さんの腕を見込んで依頼する人が絶えない理由がよく分かる。補足しておくと俺も昔からよく手伝っていた。


「はーい。頑張ってねーー」


 エリーがパンを頬張りながら気怠そうに答える。よく見ると、パンの外皮だけを綺麗に齧り尽くし白一色のパンを手に持っている。無意識なのか、器用な食べ方をするなぁと思った。そんなエリーを横目に見ていると、母さんが後ろに回り込みエリーを軽々と持ち上げる。


「ほふへ!?」


 齧っていたパンを落としじたばたとしている。一応エリーはもう軽々と持ち上げられる歳ではない。どうやって持ち上げているのだろうか。


「なんで? って。あんたお兄ちゃんが寝ている間一度も手伝わなかったじゃないか。無事目を覚ましたんだからもう心配することもないだろう」


 引き摺る……のではなく、抱えて連れていかれていく。あれは抗いようがない。


「やだやだーー!! お兄ちゃんたーすーけーてーー……」


 扉の閉まる音と共にエリーの声が掻き消える。母は強しとはよく言ったものだ。実際目の当たりにするとその言葉の重みを実感させられる。


「さて、俺も始めるかな」


 そう言って父さんは立ち上がり、一枚の紙切れを取り出し俺の前に置く。


「父さん?」


 父さんの顔を見る。しかし父さんは何かを語るわけでもなく、無言で紙切れから手を放した。紙切れを手に取り確認する。材質からしてうちで使用されているのものではない。となると、誰かから預かった言伝ということだろうか。返すと裏にはこう書かれていた。


『目が覚めた後に騎士校学長グランニーチェを訪ねよ』


 差出人の名前は書かれていなかった。内容からして公人の誰かなのは明白だろう。改めて視線を父さんに戻す。


「兵士の方よりそれを預かった。騎士長様より預かったものだと」


 ジークムント騎士長から? ということは、騎士としての勅令なのだろうか。


「騎士就任の儀の日、いつもと変わらない面持ちで出て行ったお前が、五日後昏睡状態で戻ってきた」


「えっ……?」


 父さんが口にした言葉に驚きを隠せない。


 さっき三日って……。じゃあ俺は一週間以上も意識を失っていたことになるのか!?


「できる限りの混乱を避けるため、当人には最低限の情報だけを伝えてほしいと言われている。あと周囲へも決して口外せぬよう言われた」


 最低限の情報の伝達と周囲への口外を抑制? 俺が意識を失っていた理由と何か関係があるのか?


「俺が言伝を預かっている内容はそれだけだ。何があったのかは聞かないが、俺はお前が無事に戻ってきてくれただけで嬉しいよ」


 父さんは俺の肩に手を置き優しく微笑む。そして部屋から出て行ってしまった。一人残され状況を整理する。暦を確認すると、騎士就任の儀、その日から八日が経っていた。


「わからない……」


 あの朝俺は、父さん、母さん、カール、エリーに総出で送り出された。騎士校に寄り、俺を育ててくれた教官や学長にお礼を言い、その後クルーエルア城へと向かった。礼拝堂へと通され、そこでいつもなら軽口を叩いているあいつらの、初めて見る真剣な顔付きにこっちまで緊張させられた。ジークムント騎士長がお出でになり国王陛下の代わりにティアナ姫がいらっしゃり、騎士剣の授受が行われ、


「ティアナ姫は俺を見て涙を流した……」


 そうだ、その後俺はどうなった?


 俺の記憶はここで途絶えている。


 ティアナ姫は何故俺を見て泣いた? どうして俺はその先の記憶がない?


 考えれば考えるほどわからない。


 拳を握り締める。握り締める際に手に覚えた紙の感覚に、そこに書かれていた言葉を思い出した。


『目が覚めた後に騎士校学長グランニーチェを訪ねよ』


 ジークムント騎士長……?


『できる限り混乱を避けるため、当人には最低限の情報だけを伝えてほしい』


 頭の中を様々な思考が飛び交う。しかし、何の情報も持ち合わせていない今の俺には、一つの結論しか出すことはできなかった。


「駄目だ、このまま考えていても何もわからない。今は騎士長の言葉に従い学長に会いに行くしかない」



    ◇???◇



「……困ったわね」


 女は一人ベッドに横たわり手を開いたり握ったりしている。


「万が一なんて可能性を考えて分体で行ったことが仇になるなんて、誤算なんて話じゃ済まないわ」


 目を見開き、歯を強く噛み締め怒りを露にする。これほどの怒りを覚えたのはいつ以来だろうか。


「そんなことよりもあいつ、一体どういう理屈よ。私の力を受けて眷属にならないだけでなく、逆に私の分体ごと取り込むなんて……」


 離れた燭台に指先を向ける。いつもなら灯るはずの火は燭台に灯らず、それよりも手前、何もない中空で発火した後に火は掻き消えた。


「ふふふ、あははは……。ふざけやがって! 『眼』がなくなっただけでも十分困るのに、これじゃそこらの魔物にすら苦戦するじゃない!」


 怒りのまま、ベッドに腕を叩き付ける。その際叩き付けた腕に僅かに痛みを感じた。


「こんな、こんな小さなことで痛みを覚えるの? 不便だわ」


 怒りと困惑が入り交じり感情と思考が安定しない。それでもやるべきことは覚えている。


「でもだからといってもう待てない。再び世界に災厄が訪れるようなことがあってはならないのだから」



    ◇

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