四十九話 <とおりあめ肆>

 雨が、降っていた。

 ざーざーと静かに降っている。

 そこに自分の感情を映して勝手に感傷に浸ってみてもいいし、眉をひそめて家にひきこもってもいい。もちろん無感情に傘をさしてもいいし、長靴をはいて水たまりに飛び込んでもいい。

 何か事象が起きて、認識して、解釈して、実行する。ここに不可能はあれど不自由はない。誰のものでもないのだから勝手にすればいい。

 ただ、それでも。

 今降っている雨はまぎれもなくリサさんのものであった。


「リサさん。濡れますよ」


 リサさんは海の前に傘を一本持って棒立ちをしている。表情は見えない。海の方をぼうっと眺めているからだ。


「こんなところにいたんですか。探しましたよ」


 リサさんが外に出ていることは遥から聞いていたが肝心な場所がわからなかった。近所をうろついているのか、別の地区に行っているのか……。しばらく探してみて見つかったことは幸運としか言いようがない。


「海、ですか。なぜここに?」


 それでも、何となくここにいる気もした。

 海。

 液化現象で沈むこの世界では滅びの象徴だ。そんなものを眺めていて何が楽しいのかはよくわからない。それでも海は確かな魔力を持って俺たちを呼んでいたのは事実だった。だからこそ俺はリサさんを見つけることができた。


「彼方くん」


 振り返りもせずリサさんは言う。その言葉に感情は乗っていない。ただ単に空気を揺らす無機質さがあった。


「どうして司は海に行ったんだろうねー?」


 何の変哲のない言葉を並べる。そんな言葉が確かな意味を持つ。冷たいような諦めたような、もう疲れてしまったような声だ。


「……それは」


 何かを言おうとしたが何も言えなかった。緊張した空気がそれを許していなかったし、そもそも俺は答えを持ってはいなかった。


「私もねー。約束だから人生の意味とか考えてみたりとかしてみたんだよ? 本当だよー。でもね、やっぱりわからなかったんだ」


 落ち着いて沈んだ声。救いすら求めない自己完結だ。


「まあ、それも当然なのかもねー。私は何もわからないし、考えようとしてこなかった。わからないものをわからないままにしていいって思ってたのかも。いまさら答えを求めるのは安直すぎたのかもねー」


 そこで一呼吸を置く。ゆっくりと空気を吸う音が聞こえた。


「司は何を思って海に行ったのか。そんなことさえも私は考えるのをやめていた。いつやめたかは知らないけどねー。ねえ、彼方……知ってる?」


 振り返る。傘の淵から雨がぽろぽろとまるで涙のように落ちた。張り詰めた空気を裂くようにして彼女は話を続けた。


「私が塔の保護下から抜けた理由は司の気持ちを知るためだったのよー?」

「……え」


 初めて知った。半ば強引に塔の保護から俺と遥たちを外したのはそういうことなのか?


「ええ。昔、司も塔の保護を切ってみるって言いだしてね。私もそうなんだーって適当に聞いてたんだ。それでね、それから一年ぐらいたって司は海に消えたの」

「そう……だったんですか」

「うんうん。そうだよー。そうなんだけどねぇー……。せっかく塔の保護を外しても結局よくわからなかったよ。司の気持ちも何も」


 リサさんの顔が見える。泣いてはいない。笑ってもいない。思い出話を言っているような口調だ。


「私には何も残ってないの。生き延びてやりたいこともないし、生き延びる気もない……ずっと夢も現実もわからず酒を飲み沈んでいただけ……! 私は何も知らないしわからない! 生きる意味も! だから……こうやって何も考えてこなかった罰を受けているの」


 声を一度荒げたのだがすぐに平易なものに戻る。発露した感情が一瞬の間に冷却されたようだ。その行為はあまりにも自然だ。感情を抑えるのが癖になっているようだった。


「ねえ、彼方。司の人生も意味がなかったのかなー」


 無感情。無関心からくる無感情ではなく、諦めから来る無感情だった。


「……俺には人生の意味なんて分かりません」

「だよねぇー」


 俺の言葉に相づちを打つ。きっとリサさんも同様にわからないという結論になったのだろう。彼ら、未来人に悩むという行為はあまり似つかわしくない。なぜならば悩む前に結論は出ているからだ。


「司が私に手紙を残してくれたんだ」

「司さんが? 海に出る前にですか?」

「そうそう。あの司が。似合ってないよねー」


 ただ、答えのない問題に対して答えが無いとわかっていたとしても、はっきりと答えが無いと言えるかはまた別問題なのかもしれない。答えのないことに悩み苦しむこともある。

 きっと、リサさんはそうやって苦しんでいたのだ。

 それも俺の知るよりもずっと前から。それが塔の保護下から抜けて、多くの情報に触れることでより苦しむようになった。いままで蓋をしていたものに目を向けざるを得なくなったのだ。


「でもその内容も忘れちゃった。不思議だよね? そんな物忘れの激しい方じゃないのに。でもきっとそれは私が司のことを考えないようにしていた結果なんだ」

「別にそんなことは……」


 ならば、やはりこのリサさんの変化も俺の責任なのかもしれない。

 俺がこの世界に来ていなければリサさんは酒を呑んで、寝て、呑んで、寝て、沈み、死ぬだけだった。その中に悩むことはなかった。雨に打たれて海に来ることはなかった。きっと『幸せ』に終われた。俺のせいだ。


「いいえ。そんなことはあるよー。私が、司の言葉を忘れたから司の人生は無意味になった。そんな気がしてならないの」

「……」


 ――優は優なんだから仕方ないでしょ。

 ――またお前がやらかしたのか。

 声が頭の中で反響する。遠くから死にかけのネズミのような声も聞こえた。また俺のせいだ。俺が生まれたから、生きているから、死ぬ決意が固まらなかったから、存在しているだけで人を不幸に巻き込む。

 全自動不幸作成機だ。上から有機物を流し込めばそれだけで不幸をまき散らす。やっぱり俺に生きる意味なんて……「でしょ! 彼方くんも一緒に考えようよ! 約束だよ!」

 突然聞こえた明瞭な声。

 いや幻聴だ。これは遥の声だ。いつ遥が言ったものか? なんだったか? いつかは思い出せない。

 それでも、生きる意味を遥と探すことを約束したのは思い出した。

 そうだ。俺は自分の生きる意味を幸せを見つけなければいけない。どうやって見つければいい? わからない。知らない。

 ただ、一つだけいえる言葉がある。――弱音を吐いても弱いままだ。この言葉は俺の言葉ではない。彼が俺に言った善意の忠告だ。


「司さんの人生の意味は確かに……きっとありましたよ」

「んんー……そんなことを言われてもね? 君も人生の意味は分からないんでしょ?」

「わかりません……。それでもきっとあるんです。人の生きる意味は」

「ふーん。ずいぶんと空想的ねー」

「空想的……かもしれないですけど、俺はそうだと信じたいです」

「まあ、君の哲学はどうでもいいけどね」


 そうだ。ここで重要なのは俺の哲学ではない。司さんに生きる意味があったことの証明だ。

 もちろん俺にはそんなことはできない。

 できないのだが……それでもなにか信じれるものはあったと言いたかった。その可能性をリサさんに否定させてはいけないような気がした。


「はい。だから、もしリサさんが司さんの言葉を忘れていてもきっと司さんに生きる意味はあったんだと思います」

「司に?」

「ええ。司さんが何も考えないで海に行ったとは思えません。俺は司さんの手紙も受け取ってないし、そもそも司さんに会ったことは無いですけど……」


 俺にはきっとリサさんを救うことができない。それはリサさんの求める答えを俺が与えることができないからだ。

 俺には人を傷つけることしかできない。いつも間が悪くて失敗ばかりだ。今回もそうなるに違いない。これが俺が罪人である理由だ。


「それでも絶対にリサさんと遥を一番に考えて命を使ったはずです」

「……だといいねー」

「だといいね、じゃないです。ない……と思います」

「そんなことどうして断言できるのさ」


 ただ、ここで引き下がっては昔の俺のままなのだ。俺が遥やリサさんに影響を与えているように俺だって何かしらの影響を受けているはずなのだ。

 それならば俺にだって、今までにできなかった何かができてもおかしくないはずだ。


「わからないですけど……勘です。リサさんと遥のことを聞いて俺はそう思っています。リサさんも本当は気が付いているんでしょう?」

「……」


 リサさんが口をつぐむ。

 この言葉が正直に言うと卑怯なことには気が付いていた。司さんのことを確かに愛していて、司さんに確かに愛されていたリサさんが否定できるわけがないのだ。


「答えてください。俺でも気が付いていることにリサさんが気づいてないわけがありません」

「そう……だよねぇー。私もそう思うよ」


 リサさんはそう言ってから何も言わなくなった。その後に何度かうなづくと「ねえ、彼方ー?」と聞いてきた。


「なんですか」

「司が海に行った理由がわかったら私の生きる意味がわかるのかしら?」

「さあ、そこまでは知りません。ですがそれを考えることは無駄なんかじゃないです」 


 さっき言っていたことも今言っていることもすべて憶測だ。ただ。少しでも前を向きたい、向かせたいという汚いエゴから生まれた言葉。俺には遥のように能天気に無垢に前を向くことはできないのだろう。


「ふーん……じゃあ私ももう少し考えてみるねー!」


 リサさんは歩いて俺を追い抜く。どうやらこれから家に帰るらしい。ここにいては体を冷やしてしまうのだから当然だ。

 その背中を見て思う。今の言葉で俺はリサさんの力になることができたのだろうか? 

 俺には彼女達のような汚れていない真っ白な感情は持ち合わせていない。ずっと昔に擦り切れてなくなってしまった。だから今回も自信をもって司さんやリサさんを肯定することができなかった。ずいぶんとズルい言い方になってしまった。言葉の責任を負う覚悟が無かったのだ。

 これが俺の今の精一杯だ。俺のできる範囲のポジティブで生産的な生き方はまだここが限界なのだ。それでも手ごたえは感じた気がする。

 リサさんの表情は見えない。それでも少しはこわばった表情をしていないんじゃないかと期待した。

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