四十二話 雨宮優

 ずっと遠くまで。

 ずっと遠くまで続く青色。これが正しい意味での海だったのだろう。


 この景色を見ていると『海』と『青』という言葉が同じ意味のように思える。

 なにやら海の青は空の色を反射しているだけと聞いたことがあるが、俺にはそれが嘘のようにしか思えない。目の前にある液体は間違いなく無色ではない。青色のどこまでも透明な液体だ。

 そして、その海の中で無垢の白い塔が無数に伸びている。水の圧倒的な質量によって現実感の無いのっぺりとした遠近感で着色されていた。大きなジオラマ……街のホルマリン漬けのようだ。

 海底……何メートルだろうか? すごく深い所にいることは間違いない。正直ここまでうまく潜水できるとは思っていなかった。

 対流が何故かほとんど無いことや、どこまでも行っても水温がほとんど変わらないことが理由だ。いや、水温が変わらないのは海の性質というよりも『錠剤』のおかげかもしれない。噂に聞くところによるとあらゆる極限状態での生活を担保するためのものらしいし。


 体の回りをふわふわと浮いている空気の輪っかをつついてみる。指に触れるとぐにゃりと形を変える。感触はない。この輪っかのおかげで水中でも呼吸ができている。

 しかも動力としての使い道もあるようだ。自由自在に変形し、その時に発生する力で推進力を得ている。時には蝶のように羽ばたき、時にはスクリューのように回転することで前へと進んでいた。これがナノマシンというやつなのだろうか?


「ね! リサちゃん! 彼方くん! すごいでしょ! ね!?」

「確かにこれは……すごいな……」

「……」


 リサさんの反応はいまいち良くないが俺はこの景色と錠剤に開いた口が塞がらなかった。もっとも遥は景色よりもお散歩できる範囲が広がったことに喜んでいるんだろうが。


「ねー。だから、早くやろうって言ってたんだよ?」


 じつは、遥は俺よりも先にこの錠剤を試していたのだ。なので既に「すごいよ!」と自慢されていたのだがそれでもついつい後回しにしてしまった。第九地区で手にいれた情報を精査するので精一杯だったのだ。


「リサちゃんも早く来れば良かったのに!」

「んんーそうかもねぇー」


 そんな遥の反応とは対称的な反応だったのがリサさんだ。

 不思議そうに泡の渦をつついたのが最後、それからはふわふわきょろきょろと左右を見回しているだけだ。いつもとは打って変わって静かな様子だった。

 リサさんの表情を盗み見る。

 そして、ぞわりとおぞけが立った。

 そこには何を考えているのかわからない、能面のような薄い笑みが張り付けられた表情があった。瞳は海の色を取り込み深く暗い。水彩絵の具をやたらに何度も塗って乾かしてを繰り返したような色合いだ。


「リサさん。えっと……体調良くないんですか?」

「あー。いやーべつにー……」


 そう言うと、そっと首を捻ってずっとむこうのほうへ向いた。俺にはそれが顔を見られたくなかったのか、ただ首を捻ったのか判別がつかなかった。


 それからしばらく海の中を泳ぐ……いや、海の中の街を歩くが適切か? とはいっても浮力のせいでずっと地面に接しているわけでもない。ゆらゆらと落ちたり浮いたりもしている。今までに体験したことの無い行動のため形容する動詞に心当たりが無いのだが、とりあえず泳いでいたと言っておく。

 細い曲がりくねった道が大小様々な塔に繋がり、突然思いついたように広場が産まれる。3Dプリンターやベンチを義務のように並べてみたり、無意味に長い階段を作ったりしている。

 いつもの理解不能な建造物だ。未来人にはいつも驚かされてばかりだがこの美的感覚はある意味では一番意味不明だ。この形状のどこに合理性があるのかさっぱりわからない。


「ここは前に彼方くんと来たところだね!」

「そっかぁ? 全部同じに見えるんだけど?」

「もー。忘れたの? こっちに来て、三週間目ぐらいの時だよ」

「……いや、全部同じに見えるんだが」

「彼方くんはあいかわらず忘れっぽいのね」


 違う。お前たちの記憶能力がえげつなすぎるだけだ。俺は別に特別記憶能力の低い方ではない。お前ら基準で考えるな。もう何か月も前の日常の一つなんて思い出せるわけがない。


「それにしてもそっか、こっちにきてもう何か月ぐらい経っているのか」


 まだこの世界に慣れたとは言えない。それでも思い出せないほど多くの記憶が存在し始めていることは驚きだった。


「三週目となると、もう少しで一つ目の目的地だな」


 浸水の速度は指数関数的に速くなっている。その初めの三週間分なんてたかが知れていた。


「そうだね。彼方くんが落ちていたところ!」


 このモノ扱いは前にもされた覚えがあるなと思いにやりと笑ってしまう。しかしもうずいぶん前なのでどこでされたのかまでは忘れてしまった。





「……嘘だろ」

「本当にあったね」


 いつもの変わり映えの無い広場だ。

 チリ一つない純白の床に、その床に繋がるように四方から伸びた細長い通路。そして適当に配置された3Dプリンターにベンチ。


 それと人サイズの円筒状の物体。


 その円筒は不自然に古びていた。いや周りが古びないのがおかしいわけで、古びることになんの異常も無いのだが、とにかくこの世界では異常な存在だった。なぜならば普通は古びる前に液化して消えるからだ。


「これが遥が言ってた人工冬眠ってやつー?」

「んんーわかんない! 彼方くんは何か知っている?」

「いや……知るわけないだろ」

「そっかー」


 謎の円筒だ。どうみても『未来のもの』には見えない。その物体がもつオーラがこの世界のものではないと主張していた。

 気味が悪い。なぜここに『こんなもの』が。


「ねーねー。彼方くんそこで見てても何もわからないんだし早くおいでよ」

「あ、ああ」


 いつの間にか遥とリサさんは塔の近くに行っていた。俺が呆然として取り残されていたようだった。急がねば。足を踏み出し……。

 声が聞こえた。

 その筒の中からだ。

 見てはいけない。認知してはいけない。お前のせいだ。やめろやめてくれ。……やめれるはずがない。

 遠くから二人の声が虚ろに反響する。

 どうにも今の状態に現実感が無い。心臓を直接つかまれたような、取り返しのつかないことをしてしまったような気持ちになる。


「あ」

 

 俺の口から漏れたのはそんな言葉だった。この言葉にきっと意味なんてない。ただ繋がってしまったという事実に理性が追い付かず漏れただけの振動に過ぎない。ぐるぐると視界が回る。


 気持ちが悪い。

 幻聴も悪夢も思考も現実もぐちゃぐちゃにミキサーに突っ込んだみたいだ。呼吸が浅い。すうっと大きく息を吸おうとしたのだが堪えようの罪悪感と不安感で涙が出てきた。

 海水ってこんなに冷たいっけ? と思い指を見る。そこでうまく動かない関節を自覚する。

 冷たい。

 身体能力にも異常が出ている。指の方からすっと冷たくなって、そのまま海の中に溶けてしまいそうだ。緊張している。バクバクと今にも過労働で止まりそうな心臓がうるさい。


「なんで」


 俺の口から漏れたのはそんな言葉だった。なんで気づかなかったのか。こんな異物があったならばもっと早くに気がついているはずだ。そんなのお前が一番わかっているだろ。


「なんで……」


 足が進む。二人が俺に何かを言っているかもしれないがそんなことは関係ない。時代が、俺の時代が呼んでいた。

 十分に満ち足りた悪意が。

 運命を決められた悲鳴が聞こえる。——なんで辻褄をあわせてしまったのか。それは誰が原因か。お前だ。お前のせいだ。

 俺にはそれを見届ける義務がある。俺が俺にとっての最善の手段を選び、選んで、そして救いようのない存在になり果てたという結果を綴らなければいけない。


——どうして?


 どうしてと言われてもそうしなければいけないからだ。今俺がそれを決めようとしているし、俺にとってはこれが最善だ。


——分からず屋ね。「うるさい」


 返事をすると彼女は寂しそうになにかを返した。それは聞きとることができなかった。目の前にある筒がうるさくて何も聞こえなかった。

 半分朦朧としながら、ぐるぐる模様が書かれているボタンを見る。懐かしい。俺はこのマークを知っている。これは指紋認証のマークだ。

 指を合わせる。

 カチッと音がした。

 ゆっくりと待ちわびたかのように開く。その隙間からぽこぽこと空気が漏れて舞い上がった。その一つ一つに雑多な汚れを感じる。


「彼方くん?」


 遥が俺の顔を覗き込むがうまく表情を作れた自信が無い。微妙にひきつった、笑ったような泣いたような酷い表情になっている気がする。そんな顔を見られたくなかった。

 俺は急いで開きだした筒の方へ指を向けた。そして何かを言った。

 遥にマークの説明をしているつもりなのだが、俺の耳には俺の言葉が正しく発音できているのかわからない。とにかくめちゃくちゃだった。

 手足が鉛のように重たくて何も聞こえない。異常な罪悪感と、それにともなった身体的な重さが理解できなかった。


「んー……ん、指紋認証って始めて見た」


 遥は俺の顔から筒の方へ向き、何かを考えて頷く。どうやらちゃんと受け答え出来ていたようだった。こんな状態でも外面はそれなりに保持できているのは今までの人生の賜物なのだろうか。

 気分は最悪だ。

 わけもわからず死んでしまいそうな気持ちと、なにか重大な悪いことをしたような罪悪感でパニックになる。ごめんなさい。

 だが、そんな感情とは裏腹に妙に静かだった。よく聞くと、もう幻聴は止まっていた。そしてその静かさは何か大きな前兆のようだった。


「ねーねー遥ー」


 リサさんがそんな中でもぬるっと語りだす。リサさんの声が俺の脳髄を掴んで離さない。


「これなに?」


 そのままリサさんは筒の中に書かれた模様を示した。


「あーそれね……ええと……」


 否。リサさんには模様ではあったが俺には俺達には記号であり言葉だ。そしてその言葉は聞き覚えのあるものだった。

 そして遥はリサさんと違って意味を知っている。

 もうすでに本で覚えたのだろう。


雨宮あまみやゆう


 当然俺も知っている。

 記憶の中ではなく、こうやって、現存する物体に記述されているのを見るのは初めてだろう。それでも読み方を忘れているはずが無かった。

 過去の言葉だ。

 俺の住んでいた頃に普及していた日本語。それで記述された人名だ。俺の名前だ。

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